人類は自殺によって滅びる

STAP細胞の混乱に責任を感じてなのか、最終的な理由は分からないが、笹井さんが自殺をしたことで、この件に対する動揺が続いているように思われる。
特に評判が悪かったのが、直前で放送された、NHKでの検証報道であった。また、理研早大の「処分」を強圧的に求めた同僚の大学教授たちの、執拗なまでに「不正の浄化」を求める潔癖主義が、笹井さんの自殺を隠微に後押ししたのではないか、という批判も、あふれていた。
たとえば、なぜ多くの科学者や評論家が、小保方バッシングを行ったのか。特に、早大の博士論文の問題で、執拗に

  • 卒業資格の剥奪

にこだわったのかは、興味深い印象を受ける。私は、むしろここには、STAP細胞論文がNature誌に掲載されたことで、

  • すっかり、なんの批判的準備もなく、(昔の日本人が原子力を夢見る未来のエネルギーと言ったように)純粋に信じてしまった「恥かしさ」

に原因があるのではないか、と思っている。つまり、彼らプライドの高い、頭の良い連中は、自分がまんまとだまされた事実を受け入れられなかった。つまり、一瞬でも早く、この事実を忘れたかった。つまり、「ノーマル・サイエンス」の、有名な雑誌にアクセプトされた論文の輝かしいまでの

  • 無謬なる科学の勝利

が保証された時代の、英雄たちの時代に戻ることを、子供の頃からの、科学への「あこがれ」と共に、イメージしたのであろう。
こういった態度は、いわゆる「ニセ科学批判」の運動にも見られなくはない。ある科学者の主張を「トンデモ」と言うとき、彼らはどこかこの「論文主義」の無謬性という、前近代の科学英雄時代の残滓を、そこに、追い求めているのではないだろうか。だからこそ、ニセであることは、絶対悪と受け取る。
ところが、前回紹介したように、そもそも、この生命科学の分野は、非常に不正が多い。有名なところでは、韓国の教授がES細胞で不正をしたのが記憶に新しいが、だれも知らないような若い科学者の卵を含めて、数々の不正行為が指摘されてきた。いわば、今回の小保方問題は、なんと不正を指摘された側が、弁護士を盾に、法廷闘争も辞さない、という態度なわけで、この矛盾が、とうとう、行くところまで行ってしまった、という危機感が強いのだろう。つまり、パンドラの箱が開いた、というわけである。
そうであるだけに、伝統的な科学楽観主義者の科学者たちは、このなんだか訳の分からない地殻変動の動きが、不気味かつ意味不明なだけに、とにかく、復古主義者のように、もう一度、過去に戻ればいいんだ、という現代の否定に安易に解決を求めようとする。
この一番のパロディが、手書きの論文であろう、手書きにさせれば、論文のコピペはできないだろう、と。ほとんどこの、文明の利器の否定にまで至らなければ、自分たちの「自明」さの地平が保たれない、とまで追い込まれた、彼らのその

  • 科学の真実

への変わることのない恭順が、こっけないまでの行動に帰結する。
特に、私がこの議論の過程で違和感を強めたものこそ「実験ノート」なるものの前近代的な作法の位置付けであろう。なぜ、手書きなのか。もちろん、手書きのものの実証性を疑うわけではないが、しかし、ここまでパソコンが普及した今、手書きじゃなきゃダメっていうのも、ずいぶんな話ではないだろうか。
こういう話は、性善説かどうかとは、全然関係ない話なのである。例えば、IT系の大規模開発プロジェクトにおいて、どのように製品の品質を担保するのか。言うまでもない。手書きなんて、どこでもやってるわけがない。つまり、手書きを介さなくても、品質を保証する方法はいくらでもある。というか、話はまったく逆のようにも思われる。まさに、ポスト・ノーマル・サイエンスである。つまり、むしろ気持ち悪いのは、有名雑誌に論文を投稿して、アクセプトされれば、大学教授の座は保証され、将来の身分は保証される、といったような、あまりにも、やんごとなき神にも近づかんばかりの、論文アクセプトの事実の絶対さが、あまりにも、格差がありすぎて、むしろ、このシステムの純朴さが、不正行為を行う若者に、いいようにあしらわれているわけであろう。
むしろ、製品に「バグ」があるのは当たり前なのだ。そういったものの悪意を、執拗にネチネチと追い詰めることは、生産的ではない。そんなことをやっている暇があったら、品質向上テストをやればいい。意図的であろうが、そうでなかろうが、どっちだろうが、品質テストを通ったから、私たちは「その範囲」で信じるだけであって、それ以上でも、それ以下でもない、というわけである。
ということは、ようするにリリースされる製品にもバグは伏在しているが、見つかったら、光の速さで直す、これだけのことなのだ。
よく考えてみよう。
私たちは、本当の意味において、人がなにを考えてるのかを分かることはない。それらは結局は「推論」にすぎないわけで、きっと相手は自分に悪意をもっているにちがいないから、相手をブロックするというのも、テメーカッテの基準を、どこかからか外在的にもってきて、公開処刑をしているわけで、ずいぶんと傲岸不遜な態度だ、というわけである。
相手の心の中を疑い始めたとき、社会は薄気味悪くなる。つまり、疑心暗鬼にとらわれる。あいつは、俺に悪意をもっているという「直感」は、それが正しいかどうかの前に、非倫理的な態度だ、というわけである。
しかし、よく考えてみると、なぜ自殺が今という、このタイミングだったのかについては、あまり、説得力のある説明が見当たらなかった中、次の記事では、お金の問題をにおわせる記述になっている。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/152437
いずれにしろ、そのことは、今回の記事の主題ではない。むしろ、私はここで、自殺の「加害者」を糾弾する人たちの立場になって考えるとは、どういうことなのだろうか、と議論を進めてみたいわけである。
ハムラビ法典を考えるなら、目には目を、歯には歯をなのだから、自殺には自殺を、となるであろう。つまり、笹井さんをバッシングしていた人は全員、自殺をしろ、と教唆しているのと変わらなくなる。そもそも、死は無限の贈与なのだから、それに釣り合う贈与は、自らの命以外にはありえない。つまり、笹井さんに少しでも悪意をうかがわせる発言をした人は、まさに、(ツイッターでブロックをされた人は、相手に悪意認定されたのだから、自殺「しなければならない」と)、権威をかさにきて、強要しているのと変わらない、ということになるであろう。
そうして、国民の大半が、笹井さんに汚い言葉を投げつけたため、笹井さんが傷付いて自殺をしてしまったのだから、その対価は、お前の死によってしか贖えないのだから、といって、自殺していく。こうして、国民の半分がいなくなる。しかし、このようにして「悪意」を実態化することは、危険だと考えられる。
(私の解釈では、このこととツイッターで「ブロック」することは、同型の現象と考えられる。つまり、ツイッターでのブロックは「お前は俺に悪意を向けたのだから、自殺すべきだ」という最後通牒だ、と考えられるだろう。)
つまり、である。
だれかが自殺したとき、その人に悪意を向けた人は全員、その自殺の「原因」になったのだから、ハムラビ法典に従って、自殺には自殺を与えられる、というわけである。
私は、一定の悪意を疑い、相手の道徳的な動機を追求する行為には、一定の正当性があると思っている。しかし、それは行きすぎると、この地球上から人間が滅びでもしない限り、

  • 悪意

は次々と見出され(解釈され)、すべての人間が自殺をしない限り、心の平安が訪れない「正義の味方」を量産することになる、と思うわけである、笹井さんは、並ぶもののいない、この世界の貴重な宝だったのに、こんな貴重なお方を自殺に追い込んだ国民の罪深きことよ、という態度は、そもそも二つのことを分かっていない。一つは、そういった並ぶもののいない、あまりにもやんごとのない国民の宝「だからこそ」、そういう人は逆に、それゆえにこそ、自殺にまで追い込まれるわけであろう。もう一つは、そこまでの能力があったという言い方が、そもそも、そこまでの完璧さ人間には不自然だということが、うまく世渡りをしてきた、それなりに、今までの人生も、はったりと嘘を目立たせないように、うまく振舞えた、という側面だって、指摘できるのかもしれない。
いずれにしても、この地球の宝である、笹井さんの死を、どうしても受け入れられない(彼を自殺まで追いつめた「悪魔」を絶対に許せない)、正義感に溢れた人は、一定程度は必ず存在するのであろう。彼らは、そう思うなら、それの実現を目指すような、宗教的活動を始めるところまで、行くしかない、ということなのかもしれない。
しかし、覆水盆に返らず。自殺した人は生き返ることはない。つまり、この悲しみは絶対に報われない。なぜなら、生き返らないのだから。この不可能性を前にして、人々の絶望、自らへの自己嫌悪が頂点に達したときが、人間の最後、つまり、人類は自殺によって滅びる、というわけである...。