柄谷行人『帝国の構造』

イスラエルによるガザ虐殺が止まらない。21世紀に入った、この現代において、ここまでの民族浄化が行われるということは、私には想定できなかった。つまり、そんなことは国際社会が許さないと思っていた。
しかし、アメリカのブッシュ元大統領が行った、イラク戦争がそうであったように、こういった行為が、現代における、アメリカという超大国、一種の

  • 帝国的大国

が関係して起きたことは、なにか、そのことを象徴していたように思われる(ここで「帝国」という言葉を使っているのは、アメリカが、他国と並ぶもののいない巨大さと、一線を越えた実力をもっているという観念が、そう簡単に世界の他の国が束になっても釣り合わない、という認識に関係している)。アメリカがイラクを侵略したとき、そこで想定されていたことは、石油利権であった。つまり、アメリカは、そもそも、イラクの国民であり、イラクに存在していた民族に対して、なんらかの関心があったわけでなく、たんに、イラクに存在している、大量の石油さえ自分たちのものにできればいい、という発想であったため、彼らは徹底して

  • それ以外のこと

への無関心を貫いた。というか、実際に驚くまでに無関心であった。そのことが、結果として、それ以降のイラクの政情不安定を恒久化させてしまった側面がある。彼らには、そもそも、イラクに住んでいる人たちを理解する動機がなかった。彼ら、欧米の白人コミュニティを中心とする、エリートたちは、そういった欧米白人社会内部において、さまざまにやりとりされる、プライドや価値観の

  • 社交的

おしゃべりの中を生きているのであって、徹底して、イスラム社会を理解したいという動機をもっていなかった。つまり、

  • 知らない

ということは、全ての「想定外」を引き起した。しかし、たとえそうなっても、彼らは結局のところ、「知らない=この事態が何を意味しているのかを考える基礎的な素養を自分の内部にもっていない」、よって、今何が起きているのか分からない、という結果へと帰結する。しかし、いよいよ破滅的な局面に至ろうという、まさに、そのときになっても、彼らは、一向に目覚めない。自らが所属するローカルなコミュニティの社交的、自慢話による、ちやほやされ度の他人との比較を競争するゲームに耽溺している、というわけである。
今回のイスラエルは、アメリカ内部におけるイスラエル・コミュニティのロビー能力の強大さが、結果として、アメリカがイスラエルの虐殺の事実上の、

  • 許可

を与えているのと変わらない事態を結果している。
イスラエルは、すでに、千人以上のガザの人たちを殺している。これを、「ガザ収容所」の「大虐殺」と呼ぶことは可能であろうか。一つだけ言えることは、これだけの虐殺が行われながら、周辺各国が「静観」している、という今の状況であろう。義を見てせざるは、勇なきなり。なぜ、こうならないのだろうか。いや、もしもそうなったら、どうなるか。

である。つまり、21世紀の戦争は基本的に、「警察行為」としての戦争以外の形態はありえない。そもそも、戦力の非対称性において、一方は他方に対して、テロ行為に代表されるようなゲリラ的形態以外の形をとることができないのだ。
なぜ、このような「虐殺」が可能なのだろうか。それは間違いなく

  • アメリカが現代の「帝国」である

ことが関係している、つまり、この形こそ21世紀の新しい戦争の形態を意味しているのであろう。つまり、

  • 帝国が、傀儡国家の「欲望」のままに行使される虐殺を、国内の権力関係のバランスによって、後押しせざるをえない

こういった形によって、21世紀において、次々と、少数民族民族浄化は行われていくのではないか。つまり、次々と、欧米民族以外の世界の、アメリカとは異なるカルチャーを受け継いできた文化圏が、滅ぼされていく。つまり、この暴力行為を介すことで、世界の欧米化、アメリカ化を、より内実を伴った形で、

  • フラット化

が進められていく。内面を含めて、欧米文化でありアメリカと異質なものは、「意味が分からない」という形で、局所的に、滅ぼされていく。その形態の原初が、アメリカによる第二次世界大戦における、日本国土に対して徹底して行った、大空襲だったと言えるであろう。彼らには、そういった「自分たちが訳が分からない」理解できない文化を、名実ともに、消滅させ、この世から無くしたいという「欲望」があるのではないか。そして、その消滅が、つまり、絨毯爆撃によって焼き払われた辺境の都市の姿に、その裏返しとしての

  • 欧米文化、アメリカ文化が「代替」されて植え付けられる

モデルを、そこに「日本」というモデルを通して、眺め、安心する。たとえば安倍総理の、おじいちゃんになる岸信介は、そもそも、A級戦犯として、処刑されるはずであったのに、アメリカ側のGHQの都合によって、その後CIAの「スパイ」として生き続け、戦後、日本の総理大臣になっても、アメリカのスパイであり続けたことは、まったくもって、今の安倍総理が、まったく、日本国民に関心がなく、完全に、国民との意思疎通に興味を示していない、今の、状況を完全に説明する、と考えられるであろう。
彼が、今年の広島と長崎での戦没者慰霊式典において、去年のコピペで、適当にやり過ごしたのも、なんのことはない、彼はすでに、原爆をもつことは憲法違反ではないという、広島や長崎の人々の願いと、まるで正反対の思想の持ち主であることを示しているにすぎず、つまりは、この二つの式典の主催者が、安倍総理を招待している時点で、つじつまが合わないのだ。
原発にしてもそうである。原発が彼が最初に総理になっていたときから、アメリカが日本に対して原発推進を要求してきている事実を前に、彼は決して、アメリカに逆らおうとしない。それは、CIAのスパイであった、岸信介が最後まで、アメリカのスパイとして、昔の武士のように、アメリカを自らの主人として、御用奉公を果そうとしたように、安倍総理も、アメリカの命令に従うことしか考えていない。そのためには、

  • いくらでも日本人をアメリカの「奴隷」として「売る」

なぜなら、彼は、岸信介がそうであったように、アメリカに御用奉公している「アメリカ人」だからだ。だから、日本国民を「奴隷」くらいにしか思っていないのだ。
彼ほど、日本国民に興味のない、歴代総理はいないのではないだろうか。まったく、国民の声に耳を傾けようとしない。日本国民の過半数を軽く超える「一般意思」である、原発をやめてくれという声を

  • 日本国民などという「我が」アメリカ国民の「奴隷」にすぎない連中の声を聞いたら耳が腐る

とまで言いかねないほどの、シカトっぷりは、逆の意味において、あっぱれなまで、と言うしかない。そこまで、日本人が嫌いか。日本人をアメリカの奴隷として売ることで、自らの残虐趣味が満たされるのか。この行為はまるで、ガザの住宅街に爆弾を打ちこんで、歓声を上げているイスラエル市民たちを見ているようではないか。
間違いなく、今回の、福島第一の事故は、最初の安倍政権が、津波の想定がされていたにもかかわらず、お金をけちり、握りつぶした、安倍さん自身の判断によって起きた「A級戦犯」ではないか。こんな、だれもが知っている事実を、大手マスコミのだれも、つっこまない。つまりは、彼が、福島を、あんな滅茶苦茶にしたのであろう。
というか、そのことを彼自身がよく分かっているのではないのか。福島県浜通りに、ロボット開発特区のようなものを作ろうと、あれほど、入れこんでいる総理の姿勢が、よく表しているように思われる。
そもそも、なんでそれが、福島に作られなければならないのか。市場のことは市場に任せるのが、自由主義経済の基本原則ではないか。そうまでして、福島に、工場が、どうしても作られなければならないのか。企業は、社員のニーズに合わせて、好きな場所に工場を作ったっていいではないか。
なんとしても、福島に工場を作らせようとする姿勢は、そもそも、安倍首相にとって、これからも原発を推進し続けることと、しかしながら、福島第一のように、二度と戻らない事故の被害によって、住民の土地と家を奪い、福島を滅茶苦茶にした、自らの

  • 責任

をごまかす、彼の脳の中でだけ正当化されている「折衷案」なのであろう。福島に、多くの「ハコモノ」を作って、「最後は金目だろ」と、原発をこれからも推進するために、国民をお金で買収していく上において、だったら、福島第一のように、地元の土地が滅茶苦茶になったら、「金目」をはずんでやる、という形でしか、脳内変換が起きない。
しかし、この「金目」による解決は成立する条件である

  • 実際に土地を手放さなければならなくなっている住民

の現実に対して、「低線量放射性物質なんて、体になんの影響もない」という「公害」問題の徹底した思考拒否とセットにして、主張されてくる。福島の食品を風評被害によって、ブランド力の低下は許さない、という主張が、そもそも、こうやって福島を汚したA級戦犯があんたなんでしょ、という、単純な事実を忘れさせる。自分が汚しておいて、

  • こんなもの大したことじゃない

とは、よく言えたものである。というか、福島以降、今だに、原発推進を国民に強要して恥を知らない安倍首相は、こうして、あと何機の原発メルトダウンさせて、日本を人の住めない島にすれば、気がすむんですかね。私たち日本国民は、あと何人が、彼によって、自らの土地と家を、原発事故によって手放させられるんでしょうね。
こういった意味において、公害問題は、以下の構造になっていることが分かるであろう。

  • 公害による被害は、そこに住む住民に帰結する
  • 公害とともにもたらせられる利益は、特定の企業や国といった一部の利益団体に帰結する
  • 公害という「結果」は、その公害の原因の解消を、倫理的要求として国民によって要請される
  • つまり、この要請を回避したいという、特定の利益団体側にはニーズがある
  • その戦略の一つは「金目」である。つまり、福島が汚染された結果に対して、「福島の復興」という言葉の裏には、こうやって公害の被害には「金目」で解決するよ、というメタ・メッセージが隠されている。つまり、「福島の復興」と称して、福島にハコモノを作ろうとしている連中の戦略には、「それによって、これからも、原発推進で行くことを、国民への贈与によって、有無を言わせず受け入れさせよう」というメタ・メッセージが隠されている、ということである。
  • もう一つの戦略が「公害は公害じゃない」というメタ・メッセージである。もし公害は公害でなければ、住民は被害者ではない、ということを帰結してしまう。つまり、福島の人たちは避難をする必要がなかった、というわけである。福島は汚れていない。水も空気もおいしい、そこで採れる食物も健康そのもの。こうして、国民には「福島は汚れていない、という前提で振舞え」というメタ・メッセージが示される。童話の、裸の王様や、くさった葡萄のように、本当は汚れているのに、汚れていないかのよに振る舞うと、学校の成績が加算されたり、そういうふうに人々をマインド・コントロールした諜報活動員のような御用連中が、裏で政府からお金をもらいながら、国家は「宣伝戦」という国民との「内戦」を、日常的に行うようになる。大事なポイントは「いかにして、国民をマインド・コントロールするか」にかかっている。もしも国民は公害の被害を国家に訴えないと、原発の推進が可能になる、国のお金の支出を減らせる。これは「国家の側にとって」いいことづくめ、だというわけである。しかしそれは、国家が国民を奴隷以下と考えているならば、という条件付きであるが。なぜなら、それによって、国民の健康は害され、多くの被害者を結果するのだから。

しかしなぜ私たちは、安倍さんというアメリカの言うがままに、原発を推進することしか考えられない人を、総理大臣にしているのでしょうか。そこには、間違いなく、アメリカが現代における、一つの「帝国的大国」の形態を示していることを意味しているように思われます。

西ヨーロッパでは、絶対主義王権において初めて、王が臣民を保育するという観念が出てきたのですが、そのような「福祉国家」の観念はアジア的国家においてはありふれています。中国では漢王朝以後、専制君主の支配は儒教によって基礎づけられました。すなわち、専制君主は、武力によってではなく、仁徳によって統治する者(君子)と見なされる。すべての臣民を、官僚を通じて支配し、管理し、配慮し、面倒を見る、それが専制君主なのです。しかも、そうしないと、王朝が倒される正史でも批判されてしまうことが、共通の理解としてあった。
アジア的専制国家に関するもう一つの誤解は、。それが統治のすみずみまで及ぶ強固な専制的体制だという見方にあります。実際には、そのような王権の権力は脆弱であり、ごく短期間しか続きません。王権を確保するために、宗教、姻戚関係、封による主従関係、官僚制などが用いられる。が、その結果、逆に、神官・祭司、豪族、家産官僚、宦官などが、つぎつぎと王権に対抗する勢力となる。さらに、内部の混乱を見て、外から遊牧民が侵入してくる。こうして、王朝は崩壊します。しかし、その後に、王朝が再び形成される。

マルクスはアジア的な共同体を「全般的隷従制」と呼びました。それは奴隷制でも農奴制でもない。それが意味するのはつぎのようなあり方です。各人は自治的な共同体の一員である。だが、その共同体全体が王の所有である。王は共同体に介入する必要はない。人々は共同体の一員であることによって拘束される。ゆえに、共同体の自治を通じて、国家は共同体を支配することができる。これがアジア的専制国家です。
マルクスはいう「アジア的諸国家の絶えざる瓦解と再建、および絶え間なき王朝の交替」にもかかわらず不変的なのは、むしろ、このような専制国家の「構造」そのものです。それは、アジア的国家によって作り出された官僚制と常備軍というシステムです。王朝がめまぐるしく変わっても、これは実質的に存続しました。ゆえに、農業共同体が不変的だあら、専制国家も永続的えあったということはできない。真に永続的なのは、農業共同体よりも、それを上から統治する官僚制・常備軍などの国家装置です。農業共同体はむしろ、それに対応して、あるいはそれに対抗して形成されたのです。

帝国というアイデアは、封建制という、群雄割拠する封建領主が併存する状態と対立する状態と考えられやすい。しかし、それは微妙に違っている。つまり、帝国は基本的に、住民自治に介入してこない。いわば、帝国は、そういった住民自治の「上」に構想される。人々は、帝国のことを日々、意識しない。ところが、そうであるにもかかわらず、形式的には、住民は帝国に支配されていることになっている。帝国は基本的に、住民に興味がない。本質的に興味がない。だから、そもそも、帝国は住民に暴力を行使したいという欲望にもかりたてられない。なぜなら、本気で知らないし、知ろうともしていないから。
帝国は言ってみれば、ある「形式」に関係している。帝国にとって、その帝国を担うエーエントが誰なのかは本質的な問題ではない。つまり、帝国と、その帝国に所属する地域や住民との関係が「変わらない」という部分に、本質がある。それは、中国の歴史が示している、と言えるであろう。
これに対して、ハンナ・アーレントは帝国と帝国主義を区別した。
どういうことか?

ここでは帝国は成り立ちません。たとえ帝国のように広域圏を支配するとしても、帝国ではない。それは「帝国主義」でしかありません。たとえば、ネグリ&ハートは、一九九〇年以後のアメリカは、もはやネーション=国家に根ざした帝国主義ではない、帝国になったと言っています。しかし、「帝国」は、近代以後には存在しえない。せいぜい「資本の帝国」というような比喩でしかありえあせん。
帝国は、交換様式Cが優位にある世界システムでじゃ存在しえないという点について、ハンナ・アーレントは鋭い指摘をしています。

永続性のある世界帝国を設立し得るのは、国民国家のような政治形態ではなく、ローマ共和国のような本質的に法に基づいた政治形態である。なぜなら、そこには全帝国をになう政治制度を具体的に表わす万人に等しく有効な立法という権威が存在するから、それによって征服の後にはきわめて異質ん民族集団も実際は統合され得るからである。国民国家はこのゆおうな統合原理をもたない。それはそもそもの初めから同質的住民と政府に対する住民の積極的同意とを前提しているからである。ネーションは領土、民族、国家を歴史的に共有することに基づく以上、帝国を建設することはできない。(中略)
政治の不変最高の目標ちとしての膨張が帝国主義の中心的政治理念である。膨張がここで意味しているのは、征服者の到富を目的として被征服者お一時的に収奪することでも、被征服者を最終的に同化することでもない。まさにこの点が膨張の概念の独創性をなしえいる。いかしこの概念自体は本来政治的なものでも政治から生まれたものでもないのだから、この独創性は見かけだけのものに過ぎない。膨張はむしろ事業投機の領域から出た概念で、そこでは一九世紀に特徴的だった工業生産と経済取引との絶えざる拡大を意味していた(『全体主義の起源2----帝国主義』大島通義・大島かおり訳、みすず書房

要約すると、第一に、帝国は多数の民族・国家を統合する原理をもっているが、国民国家にはそれがない。第二に、そのような国民国家が拡大して他民族・他国家を支配するようになる場合、帝国ではなく「帝国主義」になる、ということです。
では、「帝国の原理」とは何でしょうか。それは多数の部族や国家を、服従と保護という「交換」によって統治するシステムです。帝国の拡大は征服によってなされます。しかし、それは征服された相手を全面的に同化させたりしない。彼らが服従し貢納さえすれば、そのままでよいのです。帝国はその版図を広げようとしますが、周辺には統治できない者がいます。たとえば、漢帝国にとって、遊牧民である匈奴がそのような相手でした。そのような周辺に対しては、外見上服属し朝貢するというかたちをとるにせよ、実質的に、相手に対する贈与や婚姻によって平和を保持するという政策をとったのです。
それに対して、帝国主義はネーション=国家の拡大としてあるものです。そして、それは交換様式Cにもとづくものです。そして、他の国家にそれを強制します。帝国主義もしばしば征服・略奪を伴いますが、帝国の拡大とは違います。それが他国から奪うのは、主として関税権です。したがって、アメリカの帝国主義が今もそうなのですが、外見上、自由・民主主義を奨励します。交易の自由さえあれば、征服や略奪をしなくても利潤を得ること、そして、その国を支配することができるからです、。以上の事柄は、交換様式から見ると明白です。すなわち、帝国の膨張あ交換様式Bにもとづくのに対して、帝国主義的膨張は交換様式Cにもとづくからです。

このような視点から考えたとき、ナチスであり、戦前の日本の韓国や中国への侵略が、多分に「帝国主義」によるものであったことを示していることがわかる。実際に、日本の官僚が満州を中心に行っていたのは、アヘンなどのビジネスによる、金銭的な簒奪が中心だったことは、よくあらわしているようにも思われる。おそらく、これに対して、京都学派などは、「帝国主義」ではない、「帝国の原理」を考えようとしていたのかもしれない。
私が考えたかったのは、ガザのパレスチナ人と、イスラエル国家、そして、その後ろにひかえるアメリカ国家との関係であった。アメリカは帝国であろうか? 上記の意味では、アメリカは基本的に、帝国主義と考えるべきなのだろう。ブッシュ元大統領がイラクを攻撃したのは、イラクの石油利権に関係した、付随した行為と考えられた。しかし、そのことと、彼自身がそれ「十字軍」になぞらえたこととは矛盾しない。つまり、帝国主義は虐殺を伴わないことを意味しない。それは、あくまで「イメージ」として行われる。日本の戦前の侵略も、日本の天皇が「中国の皇帝になる」というイメージと関係していた。それは、ヤマトタケルノミコトが、各地の部族を武力で侵略して、天皇に貢ぎ物として、彼らの土地と部族を献上する「イメージ」と重複する。また、ナチスにとって周辺地域への侵略が、なんからのアーリア人種の支配する土地の拡大と関係して受けとられたのであろう。
私がガザへのイスラエルの爆撃を重要視するのは、イスラエルにとって、ガザ進行は典型的な「帝国主義」であるわけだが、その実現の手段として、アメリカの後ろだてが使われる、という構造の方にある。イスラエル国家は、いわば、欧米白人文化圏からの、イスラム文化圏への

なのであろう。イスラエルは今後、おそらく、次々と周辺のアラブ文化圏の国々を、「破壊」していくのではないだろうか。それは、何十年かかって行われるのかは分からない。しかし、こういった本質的に異質な国家が、アラブ文化圏の中心に人工的につくられたことは、本質的な「不安定」さを意味するのであって、その「癌細胞」の欲望として、ストレスとして、周辺地域を次々と侵略したい、という地政学的なバランスにつき動かされるのではないか、という疑いがある。
それと同じことは、日本にも言えるであろう。
日本の場合、アメリカの後ろだては、一見すると強靭なものがあるように見えながら、本質的には、アメリカは日本に興味がない。しかし、日本のアメリカ派は、イスラエルアメリカの後ろだてをうまく使って、ガザを侵略しているように、アメリカの後ろだてをうまく使って、中国を侵略したいと考えている。つまり、戦前の夢をもう一度である。しかし、そのためには二つの困難が存在する。一つは、日本の暴力装置の不在である。つまり、今の日本には軍隊がない。軍人がいない。自衛隊はあるが、あれはむしろ、警察組織に近いもので、軍隊性が著しく弱い。軍隊は、その本質として、徴兵制に依存する。それは、実際に徴兵を行うかとは別に、いざとなったら人々を戦地で好きなだけ死なせられるという、「国家の権利」と非常に密接に関係する組織である。つまり、本質的に軍隊は日本にないことと、憲法第9条は不可分の関係にある。
もう一つが、中国内部の政情の混乱であろう。つまり、中国が日本に侵略されることを受け入れる条件は、それが「易姓革命」に関係して受けいれられる場合しかない。つまり、中国内部の「腐敗」が頂点に達して、もはや、別の血によるオールタナティブを使うことなく、国内の平和を維持できない、という判断はなされるとき、と。
ところが、ここで、上記のポイントが重要になる。つまり、現代において、帝国はありえない、という論点である。なぜなら、柄谷さんの言葉で言えば、現代は「交換様式C」がドミナントの社会だからだ。戦前の日本の中国侵略は、そもそも、

  • 帝国

ではなかった。そのことをもって、その違和感への「いらだち」を表明したのが、京都学派だったと考えられる。実際に、日本の中国侵略は、何十年のなにをしに行ったのかが、あまりにも、よくわからない、散漫と、地方をウロウロとさまよっていただけのようにも思われる。ところが、ある一点において、日本の中国侵略の目的は明確だった。それは、

  • お金儲け

である。安倍首相のおじいちゃんである、岸信介を始めとして、彼らが何をしていたのかと言えば、徹底して、お金儲けだけを目的として、行動をしていた。それは、もはや、国家の行動とも関係なかった。満州国を作ったのも、そういった官僚たちの、私利私欲と関係していたわけでるし、実際に、彼らは裏金を使って、さんざん私財をためこんだ。そこにおいて、彼らの行動を、昔の

  • 帝国

と比較することは、あまりにもかけ離れていることを理解するであろう。そもそも、彼らには、中国そのものに興味がなかった。中国は、あくまでも、お金儲けのために利用する、なにかでしかなかったのであり、結果として儲かればよかったのであり、彼らの頭の中には、中国がなにものかにならなければならない、という発想がなかった。
よって、中国に、その後起きたことは、ただただ、果てしなく続く混乱、アナーキーであった。それは、イラク戦争によって壊された、イラクのその後の内乱に似ていた、と言えるであろう。

私が秦漢王朝を帝国と呼ぶのは、たんに広域国家だからではなく、この時期まで異質であった文明を統合したからです。このことは、生産技術や軍事力というようなものだけでは不可能です。この変化において重要だったのは、実は「思想」です。そして、それを可能にした前提は、周王朝の時期に、漢字が共通言語として用いられるようになったことです。周の末期に「諸子百家」が輩出したのも、漢字による記録や著作が累積されていたからです。
漢字は「帝国」の言語となるにふさわしい文字です。なぜなら、音声と無関係に、文字によって意志伝達あ可能になるからです。たとえば、一七世紀にライプニッツは、諸言語を越えた普遍的な記号論理を考案したのですが、そのとき漢字をモデルにしました。彼はまた『易経』の陰陽原理から、二進法の計算術を考えた。それが今日コンピュータとして一般化したわけです。ライプニッツが中国に見出したのは、もっと根本的に「帝国」の問題だったのですが、それについては後述します。
漢字はまた、中国における「帝国」の連続性を保証する要因の一つです。いかに言語の異なる民族が支配することになっても、彼らは、文字言語の同一性を通して、同一化されていったからです。

帝国は、こういった「プラットフォーム」に関係している。むしろ、このプラットフォームを使うのは、帝国が「支配」していると
いうことになっている住民の方なのである。つまり、住民が、このプラットフォームが「便利」であることに気付いて、自分から、このプラットフォームを利用していこうとすることに、帝国の帝国性が関係している。
そういう意味で言うなら、現代「帝国」とは、グーグルであり、ツイッターであり、フェイスブックのことだと言ってもいいのかもしてない。むしろ、こういったところにこそ、帝国の帝国性のエッセンスが残っているのかもしれない。
アメリカが、イラクを爆撃し、イスラエルのガザの人々の虐殺を黙殺するのは、アメリカ内部の

  • 国内問題

として受けとられているからであろう。アメリカの中央政府にとって、イスラエル・ロビーの圧力を無視できない。その影響力の大きさにおいて、ガザのパレスチナ人など、雀の涙にもならない、というわけである。同じく、イラクの石油利権が、国内の石油ロビーの利害関係として主張されるとき、そもそも、そこに住んでいるイラクの人々の生活など、彼ら石油ロビーの圧力に比べれば、雀の涙というわけである。
つまり、こういった「隙間」をついて、世界中のさまざまな地域で、大量虐殺が「当たり前」のように起きてくるのではないか。ここにおいて、非常に大きな役割を担うと考えられるのが、アメリカである、と言えるであろう。
しかし、これでいいのだろうか?
どう考えても、あまりにも大量のガザ住民の死者の数は、おかしくないか? これが、現代という「理性の時代」を生きる人類の出した結論だというのだろうか...。

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺