均分化

ガザの爆撃は人間の非人道的行為として恐しいなあ、と思っていたら、なんと、エボラウイルスによるパンデミックによって、すでに、千人近くが亡くなっているという話を聞いて、自然の

  • 反乱

というのは、恐しいなあ、と思ったものである。つまり、別に、人間が人間同士でお金の奪い合いによって、殺し合うまでもなく、勝手に、自然は人間を殺し始める。このエボラウイルスが、もしも、アメリカや日本のような、先進国、特に、東京のような大都市の富裕階層が住む高級住宅街で流行を始めたら、どうするのだろうか。
それでも、貧困層と富裕層の住み分けがどうのこうのとか言っているのだろうか。
こういったウイルスは、グローバリズムによって、世界中に広がる。世界中の流通網の一体化によって、あらゆる地域のウイルスは、あらゆる地域に運ばれる。特に、問題なのが、富裕階層が好む

  • 旅行

だと言えるだろう。彼らがお金に任せて、世界中の各地を転々としてきた果てに、運んでくる病原菌などが、地元の人たちが耐性をもたないものである結果として、甚大なパンデミックとなる、と。
笑ってしまうのが、リニア新幹線なるもので、さて、日本の人口は少子化によって、どんどん減っていくことが分かっているのに、こんなハコモノを作ってペイするんですかね、と思っていたら、「お金持ちのみなさん、旅行をしましょう!」だそうです。そうすれば、リニア新幹線という環境破壊、土建屋にお金をあげるための、ハコモノは、ペイするんだそうですよ。
というかさ。そもそも発想が逆なんじゃないですかね。なんでリニアをペイさせるために、旅行をしなきゃなんないんですかね。こんな電気ばっかり大量に食うものを動かしたら、原発がいくらあっても足りやしない。私たちの節電の努力を一瞬で無意味にさせられる。トンネル一つ掘るたびに、甚大な環境破壊を起こしていく。そんなことより、富裕層の方たちは、貧困層の人たちのために、彼らの子供たちの教育費のために、

  • 寄付

をしないんですかね。NPOとかを介して、ボランティアをされたらどうでしょうかね。
資本主義による、資本獲得競争を行えば、当然、それに勝つ勢力と負ける勢力があらわれる。つまり、国民は富裕層と貧困層に二極化する。当然、国家の中枢に大きな影響を与えられるのは、富裕層の方なのだから、貧困層はいつまでも貧困の底辺をはいずりまわることになる、というわけである。
しかし、である。
こんな関係が未来永劫続くと思っているのだろうか。貧富の差が極大化して、それでも、国内の政情の安定が、どうして続くと考えられるのであろうか。むしろこれは、歴史的に検証されるべき問題なのではないか。
歴史的に、貧困層はそれを、忍従して受け入れてきただけなのだろうか?

王朝の交替期には、必ず農民・流民の反乱があった。それらに支持され、また、土地改革(均分化)を掲げることによって、新たな皇帝が出てきたのです。毛沢東の政権も同様です。孫文陳独秀らが西洋モデルで考えていたのに対して、毛沢東は帝国の経験に立脚したといえます。
中国では、王朝の交替は「易姓革命」であり、新王朝には正統性が要求されます。その正統性には、天命=民意にもとづくこと、また、版図を維持ないし拡大することにあります。毛沢東による革命は、マルクス主義から見ると異例のものですが、中国の「革命」観念には合致しています。その意味で、毛の社会主義は「中国的な特色をもった社会主義」なのです。
毛の政策として際立つのは、第一に、土地政策です。それは人民公社に象徴されます。これはソ連の模倣ではなく、これまでの王朝が何度も試みた土地公有化の伝統を継承するものです。第二に、多民族に関しても、清朝がとった政策を受け継ぎました。清朝はいわば少数民族満州人)による王朝であって、多民族を統治することに長けていました。たとえば、周辺のチベットやウィグルを「藩部」に入れて優遇する政策をとっていた。

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

律令制は隋唐王朝の時期い周辺領域に一斉に広がった。このことは、通常、先進国の制度が後進国に広がったのだ、と見られています。しかし、必ずしもそうとはいえない。隋唐律令制の根幹をなす均田制は、国家が土地を所有し、農民に均等に土地を与えると同時に、租庸調を確保するというものです。実は、これは、中国では五世紀に遊牧民鮮卑)の作った国家、北魏において開始された。それまで均田制は、孟子によって周にあった制度として理念化され称揚されてきたものの、実行されたことがなかった。それをあえて実行に移したのが周辺の民族であったということは、重要です。なぜ北魏がそのようなことを始めたのか。周辺にいた遊牧民が「帝国」を築くためには、たんなる武力では足りない。そこで、漢帝国からあったが実施されたことのないプランを実行に移したのだ、と私は思います。
北魏(拓跋氏)が創始した諸制度は、北魏の武将であった者らが築いた隋および唐の王朝によって受け継がれました。隋唐の制度が、コリア・ベトナム・日本にいたるまで、広く周辺の国家に受け入れられた理由の一つは、そこにあります。たんに中心の制度だから受け入れられた、ということではない。周辺に始まる制度だったから、周辺に受け入れられたのです。さらに、北魏で仏教が国教化されたことを付け加えておきます。仏教も先ず周辺部族の間に広がったのです。帝国としての唐の新しさは、秦漢帝国において周辺部にあったものが中心に存在するようになったことにあります。だからまた、その文化はかつてなく広範に広がったのです。
帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

まあ、言われてみれば、当然だよなあ、と思うわけである。ノージック流のリバタリアニズムにしても、経済競争をさせれば、経済的な意味での、勝者と敗者に分かれるのは、世の必定で、その身も蓋もない事実を、

  • 世界の真実

として、ヘーゲル的に、ルソー的にそれを「セカイのリアル」として忍従しなければならない、それが、グローバリズムの「サバイバルネス=新自由主義」として主張したのが、セカイ系でありゼロ年代とかぬかしていた、オタク連中だったわけであろう。ところが、このムーブメントは3・11以降、さっぱり人気がなくなった。まあ、当然だよな。東北の津波で亡くなった人たちを、ゼロ年代風に、サバイバルできなかった人は「しょうがない」って言ったって、なんの意味もないですからね orz。
と思ったら、これを主張していた連中自体が、鞍替えして、今では自分がそんなことを言っていたこと自体を、まるで知らばっくれているかのような醜態なわけであろう。
中国における、支配の「正統性」が、実際の国民の「民意」に関係していた、という主張は、実際問題として、「均田制」といったような土地政策と密接に関連していた、というのは、至極、理の当然なんじゃないだろうか。そして、実際、これからも歴史は、この問題と関連して進むように思われる。
なんらかの平等政策なしに、「民意」が安定し続けるのだろうか。無理なんじゃないのだろうか。それは、歴史が証明しているんじゃないだろうか。
そして、そのことは、たんに、ルソーの一般意志のように、国内問題で考えていればすむ話じゃないんじゃないのか、という疑いにも繋がっていく。もしも、ルソー流の「一般意志」なるものが、例えば、日本国家のような単位で考えられなければならないのか、と言われると、疑問になってくる。つまり、ルソーの一般意志は、例えば、ゲーテッド・コミュニティ内部の「一般意志」だとしたら、どうだろうか。ヘーゲルはカントを嘲笑して、国家の単位を超越する国際連合のようなものは、それ自体を牽制するヘゲモニー国家の存在なしに不可能だと言ったわけで、その意味は、ある意味において、現代におけるアメリカの役割を、うまく指摘している側面もあるのだろうが、しかし、こういった「ロマンティック」な嘲笑には、どこか、根本的なところで、世界システムがどういうものでなければ成立しえないのかの、ミスリーディングがあるんじゃないのか、という疑問が尽きないわけである。

ライプニッツが企てたのは、もちろん、たんに宗教の統一ではなかった。諸国家・諸宗教間の「平和」を達成することです。しかし、彼の企てはすぐに挫折したし、彼の政治論はその後においても問題にされませんでした。近代国家の現実と観念が圧倒的であったからです。一方、カントも国家に関して、ルソーの影響の下に考えていました。しかし、彼はルソーの市民革命が一国だけで考えられていることに対して批判的でした。

完全な意味での公民的組織を設定する問題は、諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから、後者の解決が実現しなければ、前者も解決されえない。個々の人たちのあいだに合法的な公民的組織を設けて見たところで、換言すれば一個の公共体を組織して見たところで、それだけではあまり大した効果はない。人々を強要して公民的組織を設定せしめたのとまったく同じ非社交性は、諸国家の場合にもまた原因となって、対外関係における公共体は、他の諸国家に対する一国家として、自己の自由をほしいままに濫用することになる(「世界公民的見地における一般史の構想」第七命題(一七八四年)、『啓蒙とは何か』篠田英雄訳、岩波文庫)。

「完全な意味での公民的組織」とは、ルソー的な社会契約による国家です。が、それが成立するかどうかは、他の国家、というより、周囲の絶対主義的な王権国家との関係によって左右されるのです。そのような国家による干渉戦争を阻止しないかぎり、一国だけの市民革命は不可能です。ゆえに、カントはこう付け加えました。《それだけら、国内においてできるかぎれい最善の公民的組織を設定するとともに、対外関係においても諸国家のあいだに協定と立法とを制定すれば、公民的公共体に類し、また自動機械さながらに自己を保存しうるような状態が、いつかはついに創されるのである》(同前)。つまり、「諸国家連邦」の構想は、本来、市民革命を貫徹するためにこそ考えられたのです。いいかえれば、世界共和国は市民革命によってこそ実現可能であり、また、本来、市民革命を貫徹するためにこそ考えられたのです。いいかえれば、世界共和国は市民革命によってこそ実現可能であり、また、真の市民革命は世界同時革命によってのみ可能であるということです。
帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

上記の引用は、ちょうど、ルソー=ヘーゲル流の、一国モデル主義に対しての、痛烈な批判になっている。ルソーの社会契約論は、一種のオナニー文章なわけだ。なぜなら、その国家の他の国家は、どこにあるの? ある国家は、当然、別の国家との「関係」において、そのようにあるはずなのに、ルソーの社会契約論をいくら読んでも、それらは出てこない。こんなことって、ありうるだろうか。なにかがおかしいと思わければ、変だろう。ある国家があるためには、別の国家がすでになければならない。この緊張関係を無視して、国家の存在様態や、存在条件、正統性など考えられるわけがない。
カントがこのルソー批判を行ったとき、彼がもってきたのが、ライプニッツだったわけであろう(というか、基本的に、カントはライプニッツの延長で考えている)。そして、そのライプニッツが考えていたものこそ、ローマ帝国、つまり、

  • 帝国

の存在理由であり、存在条件だったわけであろう。つまり、ある国家を考える「前」に、その国家を成立させている

  • プラットフォーム

はなんなのかを考えない国家論はありえない、というのが、ライプニッツ流の「平和」論なのであろう。例えば、中国帝国を考えたとき、その中の、人々が住民自治で好きなように暮らすのは、どうぞご自由に、ですよ。それは、韓国でも日本でも変わらない。しかし、その「民意」、つまり、極端な貧富の差や、不平等は、なんらかの形で、メンテナンスされていかなければならない、というのは「天命=民意」として、要請されるべき課題なんじゃないだろうか?

しかし、他方で、日本の律令制では、大王の時代にあったようなものが保持されています。たとえば、七〇一年の大宝律令の官制では、祭司を管掌する神祇官が設定され、行政権力である太政官の上に置かれた。これは中国の律令制にはないものです。それは、天皇が権力の中心いうより、権力を権威づける祭司として位置づけられているということを意味します。
このことは、そもそも、天皇が、その名称はともかくとして、中国の皇帝(天子)とはまるで異なるということを意味します。日本の天皇は、大王、すなわち、祭司=首長の延長としてあった。律令制の下でも、それが保持されているのです。天皇の正統性は神によって与えられる。中国の皇帝に正統性を与えるのは、天命です。どう違うのでしょうか。中国において、天は超越的な存在であるといわれる。しかし、日本の神も超越的です。だから、それらを超越的であるかどうかで区別するのは、意味がありません。
重要な点は、中国では、天子の正統性 legitimacy は、王朝が交替することを前提して考えられているということです。もし一つの王朝が続くのであれば、別に問題はありません。王の権威あるいはカリスマは血統によって与えられます。しかし、天子の正統性が真に問われるのは、ある王朝が倒され次の王朝が生まれるときです。「天子」あるいは「天命」という観念は、王朝の交替いう歴史的経験に根ざしています。天命は民意である、という考えも、ここから来ます。王朝が崩壊するのは、人民の支持がないからだと考えられる。したがって、天命は、抽象的な観念ではなく、神がまりの観念でもありません。それは政治的な変革の理念と結びついています。
帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

こういう意味においては、日本は最初から、中国流の律令制度ではなかった。換骨奪胎して、それ以前の「大王」制度を、事実上存続させた。つまり、法はあってなきがようなもので、体裁だけ、中国に近づけたが、その中身は、卑弥呼の時代の「大王」制のままだった、ということなのであろう。
こういった「例外」的な日本の状況は、日本が、一種に辺境の夷狄や匈奴として、大目に見られていた、あまりに、辺境すぎて、気にもされていなかった、ということを意味しているにすぎないわけであろう。そういう意味では、日本はずっと、封建制的な地方の豪族による、地域自治の政治だった、というふうに言えるんじゃないだろうか。

「天命」は、中国の場合、たんなる観念ではなかった。それは、具体的には史官という官僚制とつながっています。史官が統治者を容赦なく論評する。たとえ同時代にそれを弾圧しえても、後の時代に対してそうはいかない。のみならず、そのような弾圧をしたこと自体を批判的に書かれる。それがわかっているので、支配者は歴史を意識してふるまうようになりました。
帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

こういったように、帝国はたんに、「大きな国家」だったわけではなく、なんらかの相互監視的な行動への「規制」があった、と考えられる。つまりそれが、仁政というわけだが、むしろ、これこそが重要なポイントなのいではないか。なぜ、帝国は、そのプラットフォームとして、住民自治の「上」にあることを許されているのか。それは、住民自体が「あってくれると、うれしい」存在として受けとられていたからであろう。つまり、帝国は、なんらかの「善」を表象するメルクマールとして機能していたから、存在を許されうると受けとられた。
では、こういった機能は、日本においては存在しなかったのだろうか。

日本では、このような万葉仮名が一般的に用いられるようになりました。一つには、日本語の音声が母音子音ともに単純であり、そのため、万葉仮名の数も少ないので、修得するのが容易であったからです。さらに、それが自然に、簡略化されるようになった。たとえば、「いろは」いう音は、万葉仮名では「以呂波」という漢字であらわされますが「以呂波」を草書体で簡略化して「いろは」という仮名が創られた。また、字の一部だけをとると、イ、ロ、ハという片仮名ができる。だから、仮名や片仮名によって日本の表音文字ができたといわれるのですが、重要なのは、先ず万葉仮名が定着したことです。
なぜ万葉仮名が定着したのか。それは何より官僚制が弱かったから、ということができます。万葉仮名を使えば、わずかな漢字を覚えるだけで日本語の音声を表現することあできる。これは、漢文の読み書きができる能力を特権としている官僚にとっては困ることです。だから、コリアにおいてそうであったように、官僚制が強ければ、万葉仮名が普及することはなかったでしょう。また、逆に、万葉仮名や仮名が普及したために、官僚制の強化が妨げられたといえます。
帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

日本において、まず、徹底して、官僚がいなかった。それは、中国や韓国のように、官僚階級が、文書を完全に囲い込むことができなかった事情がある。つまり、「かな文字」の普及が、日本人のほとんどが子供の頃から、難しい本を読むことを可能にしていたから。そのため、最初から、たいしたトレーニングのための、長い修行の期間を介することなく

  • 秘伝の奥義

を読み込なされてしまう。つまり、武官が片手間で、文官の仕事の一子相伝の技を修得してしまう側面があった。つまりは、日本という国の始まりから、学問が

  • 大衆化

されていた、という「構造」が、社会的な「健全さ」を担保してきた、とは言えるのかもしれない。特に、江戸時代の大衆文化の雰囲気は、明治以降も変わらず、大衆の文化的自由さを可能にした、と言えるのであろう。
(しかし、そのことは逆に言えば、日本における、さまざまなギルド勢力が、自分たちの知識の「囲い込み」に、さまざまに工夫をしてきた側面は多くあるのであろう。霞が関文学を始め、医師のカルテから、翻訳哲学と。)
例えば、第二次世界大戦の敗戦による、日本のアメリカによる占領政策は、一種の「帝国」的な機能を果した、と考えてもいいのではないか。その一つは、言うまでもなく、農地開放政策だったわけであろう。
しかし、このような平等政策を、

  • 今後

の日本において、どのように構想できるであろうか。おそらく、日本国内の相対的貧困率は、これからも、どんどんと拡大することが考えられる。そういった人たちに、どういった理念において、平等政策的な手当てを、国民的運動として、国内の富裕層に納得させられるであろうか。やはり、今後も「アメリカ」という外圧が、なんらかの利害関係の陥穽を突いて表れるのを待つ、いつものパターンなのだろうか...。