無為

安倍首相がこだわる、福島の浜通りにロボット開発拠点を作る野望について、私はその「うさんくささ」を指摘したわけだが、つまりはそれは、一種の

  • 贈与

として行われる、ということなのである。もちろん、なにかをあげると言われて、普通は嫌な気はしないものである。つまりは、贈与とはそういうもので、相手に、有無を言わせず、与えてしまうことに、その特徴がある。
しかし、である。
そんなに単純な話ではないんじゃないのか、というのが「贈与」の機能なのだ。なぜ、くれるのか。竹中平蔵が「ただより高いものはない」と言ったわけだが、逆説的に、市場経済において、無料は究極の安さを意味しながら、実は、そんな単純なものじゃないんだ、ということを示しているわけである。
まず、贈与は、受けとる側が、別に要求していない、という関係がある。つまり、無理矢理掴まされているという意味では、一種の「暴力」なのだ。では、なぜ安倍首相は、この贈与にこだわるのか。言うまでもない。これからも、原発を推進したいからであろう。安倍首相には、福島をあんなふうにしてしまった、という

  • 負債感情

がある。かといって、原発推進から撤退するわけにはいかない。そこで、なんらかの「負債」の返済を行いたい、という気持ちが、どうしても離れない。あれだけの福島の悲劇を起こしながら、どうやって、今まで通り、原発推進を行うか。言うまでもない。

  • 原発の被害に会ったら、これだけの「保障」がされるのだ

という感覚が重要だ、と考えるわけである。確かに、原発事故は悲惨だったけど、「それゆえに」、こんなに街は栄えたんだね、と。こういう意味で考えるなら、この「贈与」戦略は、一種の

が関係している、と言えるであろう。大事なことは、福島があんなふうになったからといって、日本中には、まだまだ、たくさんの原発がある、ということなのである。そういった自治体は、国家が福島をどう見ているかを見ている。もしも、国家が福島を、適当にあしらい、もはやここは日本ではないと捨てた土地にし始めたら、それは

  • いずれは自分たちの未来

なのである。よって、国家はなんとしても、福島への負債感情を克服するために、さまざまな「贈与」をしないわけにいかなくなる。
しかし、である。
なにか変だと思わないだろうか。この話が変なのは、そもそも、国が、あの福島の悲惨な事故を起こしておきながら「これからも日本中の各地で原発推進を行う」ことが、前提になっていることなのだ。つまり、そもそも、原発推進をこれからも行いたい、という

  • 欲望

がないのなら、こんな「負債」感情なんて起きないのだ。つまりは、しのごの言わず、今一瞬をもって、原発なんてやめてしまえばいい。それ以前に戻って、原発技術は実験段階のものとして、研究施設で研究段階に戻ればいいだけなのだ。そうすれば、余計な負債感情をもつこともないし、意味不明な贈与行為を行おうとしなくてよくなる。

「無為」とは、「為」を否定することです。「為」は、いわば、力による強制を意味します。どのような力か。一つは呪力による強制であり、いいかえれば、氏族社会の伝統である互酬原理です。もう一つは武力による強制です。これは、氏族社会の崩壊とともに露出したものです。老子1がいう「無為」は、それらのいずれをも斥けるものです。この意味での「無為」は、道家老荘)だけでなく、儒家にも法家にも共通する態度です。無為とは呪力と武力に頼らないことです。「思想」の力が成り立つのは、そこにおいてです。また、そのかぎりで、思想家が力をもったのです。
孔子は暴力による統治を否定し、「礼」と「仁」による統治を唱えました。また、彼は呪術による統治を斥けた。たとえば、「怪力乱神を語らず」といい、「我いまだ生を知らず、況んや死に於いてをや」と言い放ったのです(『論語』)。つまり、孔子は、暴力と呪力という「為」を否定しようとしたわけです。したがって、孔子は、『老子』で作為性を非難されているけれども、老子とは違った意味で「無為」を追求したといえるのです。
つぎに、儒家と対照的に見える法家について述べておきます。文字通り法治主義を唱えたのですが、それは被支配者を法によって厳重に取り締まるということではなく、むしろ権力を恣意的に濫用する支配者(豪族ら)を法によって抑えることです。「純粋法学」を唱えたドイツの法学者ハンス・ケルゼンは、法を、国家によって人を縛るものではなく、そもそも国家を縛るものだと考えたのですが、ある意味で、そのような考えを最初に提起したのが法家です。法家によれば、法は、支配者、特に王自身が真っ先に従うべきものです。そうすれば、臣下も自然に法に従うことになる。君主は「無為」でよい、ということになります。

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺

もしも、である、もしも本当に福島の事故を前にして、今までの原発政策を反省するならば、まず最初に行うべきことは、今まで、この原発推進政策にコミットしてきた人たち、原発推進に賛成だった人たちが、今すぐに、この政策の決定権のある場所から離れるべき、ということになるであろう。それは、第二次世界大戦で日本が敗戦したとき、多くの大学教授が第一線から撤退して、在野の人になったことと同様であろう。
ところが、そうできない。そうできないから、奇妙な「贈与」のような変な話が湧き出してしまう。「最後は金目」もそうであろう。福島にジャブジャブとお金を注ぎ込めば、なにかのミソギにでもなった気になってやがる。それで、自らの罪が贖われ、福島以外での原発推進は担保されると思ってやがる。しかも、その福島へとジャブジャブ注がれるお金は、もともとがそんな動機だから、本当の意味で、地元の人が考えている、福島を地元の人がどうしたいのか、と、まったく関係のない、中央の東京が

  • 汚れた福島を「これ幸い」と

汚れた福島を、東京にとって、どうすれば「便利」に、東京のために、「役に立つ」か、という視線でしか考えられない。だから、どう考えても、地元の人が欲しがっているものとは違った、変なハコモノを、中央のドケンヤを使って、嫌々と地元からされているのに、まるでKYのように、なにも気付いていないかのように、鈍感を装って、

  • 贈与

し、「いいことをやった」と自己満足にひたっている。
いい加減、自分の原発推進の「負債感情」を、福島の人に、彼らが嫌がっているのに、押し付けて、変な「やったった」みたいな充実感にひたるような、ナルシシズムをやめたらどうだろうか? もちろん、そのことが始めて、自らの原発推進の「動機」の不純さに向きあうことになり、脱原発の理念を理解するようになっていくことを意味していると思うのだが、それは、一つの「きっかけ」なのであろう...。