小泉義之『ドゥルーズと狂気』

(ガザで千人というのは、ちょっとありえないと思っていたら、エボラウイルスパンデミックでも千人ということで、どうなっているんだと思っていたら、ウクライナは二千人だそうで、ちょっと分からないのが、つまり、こういった戦線が、いったん開かれると、簡単に千人とか、そういうオーダーで死者が結果する、ということなんですよね。どうなってるんでしょうかね。心配ですが。)
結局のところ、精神医学に対して、私たちが、どのようなアプローチを考えることがありうるのかと言われても、多くの人がそうであるように、これは、そう簡単なことではない。例えば、STAP細胞の件で最近自殺をした笹井さんは、家族への遺言書の中で、マスコミ批判のようなことを書いていたりするわけで、こうなってくると、彼は、かなりの側面において「冷静」だったんじゃないのか、という憶測さえしたくなる。しかし、そう思ったその一瞬の後には、いや、そうは言っても、実際に自殺をしているんだから、その結果の大きさを考えるなら、そういった臆断も、軽々にするべきことでないだろう、なんていう自制もでてくる。
ただ、私自身は、そもそもこういったアプローチによって、どこまでの「確か」らしきものに迫れるのか、という部分には疑問がある。つまり、こういった「饒舌」に、私自身があまり関わる気力がない、というのが正確なのだろう。
この問題を、物理学における「観測問題」の比喩で考えるなら、もしも、私たちという測定マシーンが「壊れていた」とした場合、どのような「測定」がなされるであろうか。まあ、どんなことでも起きうる、としか言いようがないわけであろう。しかし、この場合も、その「濃淡」のようなものはあるのかもしれない。つまり、なにを深刻な事態と考えるのかは、一様に文脈依存な側面がある。

ドゥルーズによるなら、マゾヒズムがその方策を進めていくなら避妊は途方もなく進行するのであって、遂には「性的快楽」をも否認するに到ります。快楽を感じていても、感じていないと否認するのです。あるいはむしろ、感じているとも感じていないとも決めない仕方で感じているのです。どうしてでしょうか。サディズムとの対比で捉えておくなら、感じているか感じていないかのどちらかを認めてしまえば、夢・幻影・理想さえもが第二の自然の禍福のゲームに取り込まれてしまうからです。例えば、人形を抱く母親が、そこに喜びや幸いを感じているとしてみて下さい。その母親がそれを認めることは、実は愛児が死んだことを認めるのと同じことになります。それが妄想的なやり方であっても、死児を愛おしむ正しい仕方があると認めるのと同じことになります。それは第二の自然、経験界のゲームの一つでしかありません。あるいは、その母親が人形をめぐって他者と対話を始めるなら、精神や心の専門家を始めとする第三者との愛憎のゲームに巻き込まれていきます。それでは、愛児がいなくなった経験界を承認するのと同じことになってしまいます。もちろん、そのことは快楽原則に従属する経験界に適応することです。強調しておきますが、たぶん、それは大概の場合、よいことです。たぶん、健康にはよいことです。しかし、れでは片付かない。おそらく片付けてはならない人生の機微があるはずです。だからこそ、その母親はマゾッホに倣って、おのれの愛情を否認するのだとドゥルーズのような人は受けとめるのです。

私が「壊れている」という表現は、どこか奇妙だ。というのは、もしも私が壊れているなら、この世界の方だって、壊れていたって、不思議はないのではないか。つまり、どっちが壊れているとかという話ではなく、みんなそれなりにポンコツでありながら、それらの「相互作用」によって、なんらか、バランスされているんじゃないのか、と。
上記の引用の例において考えるなら、むしろここで「壊れている」という比喩を使うことに、むしろ、大きな違和感をもたなくもない。子供をなくした母親が、ある種の、自らの内面にある、必然的作法に従って、つき進んでいることが、回りからは「狂気」と言われるような奇矯ななにかのように見えたとしても、そもそも、人間とは「そうできている」という側面だってあるのではないのか。それは、マゾヒズムが「苦痛が快楽」という、二律背反を生きることと言われることの、なんともいえないその矛盾した様相に対して感じるもの、ということなのであろう。
上記の引用が興味深いは、いわゆる一般的な意味における二律背反になっていない、ということである。そうではなく、私たちが私たちであることを構成している、そもそもの、本能的な反応の原初の部分で

  • 否定

の連続が発生している、ということなのだ。

ですから、精神病者は、「私は男か女か」という問いそのものに嘘を感じています。というより、仮にその問いにとらわれているにしても偽なる問いに駆り立てられているという思いしか生じないのです。ですから、仮にレトリカルに、自分は男でも女でもないとか、自分は男でも女でもあるとか、自分は男と女を横断しているとか語るとしも、あるいは、それを「私は男でも女でもないのか」といった問いとして立てるとしても、そうした問いと答えにリアリティを感じないのです。どんなレトリカルに変形した問いであっても、それをどこで立てえ、どこで答えを出したらよいのかわからないのです。もちろん誰だって本当はわかっていません。しかし、たいていの人は、社会的な秩序に従って、問いが命令されつ場所見分けることができています。それさえもできなくなるとき、問いは行き場を失って浮遊します。そのことにとらわててしまい苦しめられる場合があるのです。

精神医学は、徹底してこの「リアリティ」と関係している。なぜ患者は、私たち社会生活を営んでいる人々が当たり前のように行っている「反応」を、反復することから離れてしまったのか。それは、彼らがそういったものの「リアリティ」を自らの内面から湧き出てこなくなった、その、なんらかの意味での「彼岸」に行ってしまっていることに見出すしかない。しかし、そのリアリティが結局のところ、なんなのかを、この文脈で定義できない。それはもう、正常とか異常とか、そういった文脈で語ること自体が、どこか、検討外れの、とにかくこうなってしまった、こういったところまで来てしまった、という形でしか形容できないなにかだ、ということなのであろう。
(このことは、一つ前の引用において示されていた、なんらかの原初的な本能に関わっていた部分の「否定」行動が、なぜか慣習化してしまった。そしてそれを、単純に「異常」と言うわけにいかない、といった状況に関係している、と。)

男である私が、何か電磁波のようなものに打ち抜かれて、いま神の花嫁として神に迎えられるという啓示を得たとします。そのように語るとして、ただの言葉としてではなく、真剣にそれを真理として語っているとします。あるいは、そのように語ることを強いられているとしても、それを真理として受けとっているとします。その際、苦しみを感じているか喜びを感じているかは不問に付しますが、ともかく何らかの感情を伴って、私が神の花嫁として選ばれたと語っているとします。このとき、ドゥルーズガタリによるなら、一次的な経験は、私が神の花嫁であることを経験するということであるよりも(それは言葉の経験です)、ある神経状態をダイレクトに経験しているということです。こては、きわめて素朴な物理主義・生理学主義・生物学主義に見えますが、その通りです。私は、神の花嫁であるということを経験するというよりは、神の花嫁になっていくその過程に伴う感情を経験するのであり、さらに、それよりは、脳神経系の状態変化をダイレクトに経験しているのだというのですから。ここで、あれこれと哲学的に詮議したくはなります。一体全体、ドゥルーズガタリは、言葉の命題内容と心低状態の関係、心的状態と脳神経系の関係を何と心得ているのか、言表の主体たる「私」と心的状態の主体と目される心理的で人格的な自我の関係、「私」や自我と主体なきものと目される脳神経状態変化との関係を何と心得ているのか、そもそも主体が無意識どころではない物質的で生化学的な状態変化をよりによって経験するなどということがありうるのか、機械論的唯物論とどこが違うのか、等々です。ドゥルーズガタリは、そんな詮議はどうでもよいと思っているのです。そこには、正常と異常の通例の分類を足払いするという実践的な意義が込めらてていますが、いまはそんなこともどうでもよいのです。われわれが日常的に暮らしながら経験していると思い込んでいるものすべてを引き剥がしてしまえば、哲学用語で言いかえるなら「還元」してしまえば、残るのは、純粋な一次的な過程とその経験だけです。哲学用語で言いかえれな、その心脳同一説的で心身同一説的で経験一元論的な力技でもって何をやろうとしているのか、何を見ようとしているのかを把握しておいて下さい。

こういったなんらかの狂気と呼ばれてきた現象を、ドゥルーズは、いわばその直接性においてこそ、その意味を見出そうとする。上記の引用において「私が神の嫁として選ばれる」という表現は、多くの場合、まず、その表現を媒介して、当人の変化を解釈するという形で、二段階の「意味」の系列を自明としてきた。つまり、言葉は、その言葉自体の意味系列をもち、その解釈というシステムとして、自律したなにかとして、いったん分析しうる、と考えられてきた。しかし、ドゥルーズは、そんなことはどうでもいい、という態度で迫る。つまり、その言葉の意味だとかなんだとかの前に、その言葉を介して、なんらかの患者の「変化」にのみ、焦点をあてる。とにかく、なんらかの変化が、その人に起きているなら、それだけが重要なのだ、というわけである。

精神や心が失調して、家族のお食卓につかないこと、学校に行かないこと、職場の人間関係を乱すこと、特定の約束を果たさなくなることは、社会の秩序の外に出ることであり社会の秩序を乱すことです。ところが、幾らか不思議なことですが、たいていの場合、当人も含め、元の社会に戻ることが治ることであると観念されます。そして、これも幾らか不思議なことですが、大筋では、社会に復帰することが治ることであり、そのためには、何らかの社会的なものが必須であると観念されます。約めて言ってしまえば、社会は人を病ませるものであり、かつ、社会は人を癒やすものであると、社会は毒でもあり薬でもあると思いなされているわけです。このような構想は、精神医学の分野では「社会精神医学」などの名称を呼ばれ、その起源について多少の議論はありますが、私の見たところ、それは、思われている以上に昔から成立していることです。というより、精神や心の病というものが成立した段階から、同時に成立していたとすら思っています。いつの時代であっても、その程度のことに考え及ばないわけがありません。ところで反精神医学のほとんども、この意味で社会派です。社会復帰についても、それは単なる社会適応とは異なると何度も断りを入れあがらも、結局はそれが治療・寛解のメルクマールになるとしています。そして、現在も、精神や心に関わる人々の大半は、社会派です。
しかし、私の見るところ、一般に解されているところに反して、『アンチ・オイディプス』は決して社会派ではありません。あえて強調しておくべきなので、もっと強く言っておきます。ドゥルーズガタリは、精神や心の病の原因(の一つ)が社会にあるなどとは考えていません。社会的なものによる治療なども考えていません。こう言いかえてもいいでしょう。ドゥルーズガタリからするなら、社会そのものが狂っているのですから、症状や疾病を非 - 社会的とか反 - 社会的な現象として捉えることに特段の意味はなくなります。また、そもそも疾病概念を批判的に解体しようとしているのですから、治療概念も無用になります。たしかに『アンチ・オイディプス』には「治療」を肯定的に使用する場合がありますが、そのときでも、そのあるべき「治療」、狂える社会と狂える人間を並行的に救い出すような「治療」が何であるのかはわからないと正直に吐露しながらのことです。つまり、通例の意味で病むとか病まないとか、治るとか治らないとか、そういった次元については「唯物論的」に薬物使用を肯定しながら、同時に、それとは別の次元で物を考えようとしているのです。その姿勢に対する批判もすぐに思いつきますが、いまは流しておきます。

これは、現代の医学一般がもつ、一つの「制限」のようなものと考えられるであろう。病人というカテゴリーには、非病人、つまり、健康人という存在が、暗に、示唆されている。つまり。病人とは、健康人に治療を通して変わることを目指される何かと考えられている。
ところが、ドゥルーズにとって、そもそも、そういった医療カテゴリーの範囲で考えることを、条件としない。なぜか。彼にとって、問題はさらに根深いと考えられているからである。もしも、患者が狂っているとするなら、別の意味において、この世界そのものが狂っていることと区別ができないことになる。そのように考えたとき、現代という、この資本主義社会において、正常とは、なにを意味しているのか、という話になってくるわけである。
掲題の著者は、ドゥルーズが著書の幾つかの場所で示唆し使った言葉「スキゾイド」に、その含意を読み込もうとする。

スキゾイド(シゾイド)の通例の用法を見ておくために、小此木啓吾『シゾイド人間 ---- 内なる母子関係をさぐる』(朝日出版社、一九八〇年)に言及しておきます。
小此木によるなら、「現代人の社会適応様式が、分裂性格的つまりシゾイド的になってきている」(二〇四頁)というのです。その含意は、どんな人格類型ののであっても、シゾイド的になった社会においては外見的にシゾイド的にならざるをえないし、実際にそうなっているということです。

モラトリアル人間も、シゾイド人間のひとつのタイプとみなすことができます。そしてこの視点からみると、かかわり合いを避けるとか帰属感をもたないというのは、分裂的なパーソナリティの人間は、昔からそうだったのです。しかし、いまの社会で生きていくうえでは、みんながそうなりはじめているのです。ですから、モラトリアム人間がみんな分裂的パーソナリティそのものだというわけではなく、社会のなかでのかかわり方や適応様式がそうなってきているということです。ここをシゾイド人間論としては、明確にしておかなければいけない。(二〇五 - 二〇六頁)

そして、小此木は、「シゾイド人間の心理」として五点を列挙していきます。「第一に人との深いかかわりを避けるということですそれはなぜでしょうか。実はシゾイド人間も親密なかかわりを、内心は望んでいるのですが、その一方で深い人間的なかかわりをもつことを恐れているからです」。「第二にあげたいのは同調的ひきこもりです」。「第三は自分を失う不安です。それをわたしは「のみこまれる不安」と呼んでいます」。「第四は全能感と貪欲さです」。「第五は一次的、部分的かかわりしかもたないということです」(二〇六 - 二一二頁)。
とすると、ドゥルーズガタリが展望するように、資本主義社会が分裂症化しているとするなら、それに「適応」する人間は、外見的にはスキゾイド化していると見てもよさそうです。この類の心理的な物語は常にそうなのですが、怪しげな眉唾物ではあっても一面の真理は示しているものです。そのつもりで、現代人を見返すなら、たしかにそう見えてくるものです。ところで、スキゾイドは狂気とは見なされません。少なくとも、医療的な疾病や症候群とは見なされません。では、そのとき、外見的にはスキゾイド的な現代生活から立ち現われてくる狂気の運動はどうなるでしょうか。お気づきと思いますが、このようにスキゾイドに定位してみるなら、『アンチ・オイディプス』が展望する革命的な狂気は、決して分裂症のことえはなく、むしろスキゾイドのことではないのかという見通しが出てきます。

上記の引用は、たいへんに興味深い。掲題の著者は、むしろドゥルーズが示唆しようとしていたのは、こういったスキゾイド性についてだったのではないか、とまで、深読みする。スキゾイドは、上記の通俗的な解釈が示唆しているように、いわゆる精神医学が「病気」として解釈しているものではない。しかし、なんらかの現代人の「傾向」性として、解釈されていることに注意する必要がある。
こうやって見ると、つまりは、スキゾイドというのは、現代人が、この資本主義社会における、どこまでもの非人間的なまでに、ドライブのかかった資本の運動に巻き込まれながらも

  • かろうじて正常を保つ

ための「作法」のようなものを示唆しているようにも思われるわけである。
また、掲題の著者は、これと同様の概念として「サイコパス」についても注目する。サイコパスをハリウッドにおいて近年使われるようになった意味において受けとる前に、そもそも、サイコパスとは、上記のスキゾイドと同様で、「患者」にまで辿り着かない、患者と正常者の「中間」の概念であることに注意がいります。

すぐに気づかれると思いますが、近年、精神医療の現場だけではなく一般医療の現場でも、そして教育・心理・福祉の現場でも、さらに種々のサービス業でも、問題化して語られ「モンスター」と形容されるクライアントに相当するものです。要するに、サイコパスの系譜とは、何よりもまずは、各種の専門職の手に負えない人々を、そうであるからこそおのれの領分い繰り入れ「大きな問題」「大きな課題」を作出して演出するのです。芹沢一也『狂気と犯罪 ---- なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』(講談社+アルファ新書、二〇〇五年)は、精神医療が治安と結び付いてきた経緯指摘し、それが精神医療を領土化に果たした役割を的確に指摘しています。

疑似症者中間者......はほかにもさまざまな名称をもっていた。変質者、精神病性人格、遺伝変質者、精神失墜者、精神症的変質者、精神低格者、精神症的性格、などである。/現在では、人格障害と呼ばれているのがそれだ。現代の精神科医人格障害者を、治療不可能という理由から避けようとするが、「狂気」の範囲を何とかして拡大しようとしていた当時の精神医学にとっては、それはなくてはならない存在だった。(一七三頁)

「狂気」の領土化と脱領土化の両極を分析してみるなら、その両極間の振動の基礎となる対象は、スキゾイドサイコパスの系譜の集団であることが見えてきます。そのとき、「狂気」の典型的な形象を分裂症に置くことでさえも、別の意義を帯びてきます。ドゥルーズ=ガタリに引き寄せて言い直せば、正常人が多かれ少なかれ神経症でも倒錯でもあり、そして分裂症者でもあると語るだけでは、ある種の「狂気」が「犯罪」と抱き合わせで排除され隠蔽されるということです。こうして、われわれにとっての「大きな問題」「大きな課題」を据えることができます。われわれもまた多かれ少なかれスキゾイドであるだけでなくサイコパスであると言えるかどうか、そのとき「狂気と革命」の思想、「狂気と犯罪」の思想はどのように変わっていくのかということです。

つまり、サイコパスが「問題」だとする医療関係者には、どこかしら、それを

  • 自分たちの領分

だと主張したい「囲い込み」の意識がある、と示唆しているわけです。サイコパスが問題であると主張すればするほど、これを含めて、自分たちの仕事の範囲の拡大によって、自分たちの存在意義を主張したい、という願望があるのであろう。

ドゥルーズの意図は明らかです。過去の哲学者が、われわれ人間は不可避的に迷信や疎外にとらわれており、そうでなければ通常の生活をおくることさえできなくなっていると見抜いていたように、ドゥルーズは、われわれ人間=動物は、愚劣・残酷・無気力・下劣・間抜けであるし、それを制度化しなければ生活していけないと見ているのです(「第二の自然」のことです)。われわれ人間は、全員が、運命的に、例えば、スキゾイドでありサイコパスなのです。ただし、ドゥルーズは、そのことを肯定も否定もしません。そうであることをよく見て、その現実を生み出している思考の超越論的なもの(「狂える自然」のことです)として思考せよ、と呼びかけているのです。そして、その水準を思考するなら、ある種の展望が開かれてきます。いわば純粋な思考の水準がそのままでいつか固体化してくるという展望です。その固体こそ、高次の狂人、新しい人間なのです。しかし、ここでもドゥルーズの常数が首をもたげてきます。すなわち、黙示録はやはり書けないのです。

実にドゥルーズらしい、本質主義的な主張であるが、つまりは、ドゥルーズにとっては、精神医学の問題を語っているようでありながら、そもそも、だれもがスキゾイドでありサイコパスだと言うとき、というか、そもそも、この資本主義社会自体の「狂気」性を帯びている現代において、

  • どのように生きるのか

こそが問われている。つまりは、問題は、この資本主義社会の「狂気」に、たんに、ひきずられ、まきこまれ、洗脳されて同様に、その資本主義の狂気がもたらすままに「狂わされる」<だけ>ではない、それに対する

  • 対抗

の作法がどこにあるのかを模索する。つまり、そういう意味においては、彼にとっては、この資本主義社会の分析の方が、非常に重要だ、というメッセージを含んでいる、ということなのかな、とも思ったんですけどね...。