アフリカ的段階?

さて、人類の「起源」とはなんなのか、と言われたとき、そんな途方もない話に答えられるわけがない。きっと、サルと、はるか太古の時代に、枝分かれして、今の人間になった、といったような、まあ、ダーウィン流の進化論によって、ちょっとは、なにかが分かったような素振りをしてみる、という程度で、結局のところは、はっきりしたことなんて、なにも言えないはずだ、といったところに落ちつくのが関の山といったところだろう。
しかし、ある一つのことについては、実は、非情によく分かっている。つまり、今、地球上に存在する人間は

  • 全員

ある時期以降に、アフリカ大陸を抜け出して、アフリカ大陸以外の地域に拡散していった人たちだ、ということが。驚くべきことに、このことについては、一人として例外がない、ということなのだ。つまり、すべての地球上の人間は、アフリカ大陸を母なる大地としない人は一人もいない。みんな、アフリカが、自分の「ふるさと」だということになるのだ。
さて、何十万年前。ある何人かのアフリカ人が、勇気をふりしぼって、アフリカ大陸を飛び出した。もちろん、その多くは、勝手の分からないアフリカの外の世界で、次々と死んでいったであろう。よって、アフリカ大陸を飛び出して、アフリカの外で、自らの祖先を繋いでこれた人は、数えるほどであったであろう。このことは、アフリカの外の人たちのDNAが、かなり似通っている、何パターンかに分類できるくらいに似通っていることの理由となっている。
こういった視点で見たとき、アフリカ以外の人類は、多様性に乏しい。みんな、どこかしら「一様」なのだ。つまり、かなりの少ないグループで、まるで

  • 兄弟

であるかのように、みんな、DNA的にはほとんど変わらない。比較的、最近に枝分かれした、まあ、何世代かさかのぼれば、間違いなく「兄弟」だったことが証明できるまでに、遺伝的に近い、ということになる。このことを逆に癒えば、人類の多様性は、アフリカ大陸にかかっている、と言うことができるであろう。まさに、アフリカは人類の母なる大地、というわけである。
そのように考えてきたとき、私たち現代人の、なんらかの「閉塞感」や、「行きづまり」感の起源を

  • 文明病

であったり、

  • 神経症なまでに都会のギスギスした人間関係にナーバスブレイクダウンしている

現代人という病的な何かと考えている私たちにとって、そのブレイクスルーを、アフリカ的なものの中に見出したい、という願望があるのではないか、といったような考えに到るわけである。
こういった視点で考えたとき、例えば、吉本隆明の『アフリカ的段階について』を、どのように受けとったらいいのだろうか、といった疑問になるわけである。

ところが、このような豊穣な拡がりを持つ「アフリカ的世界」(旧世界)を吉本氏の要約によれば、ヘーゲルは次のように説明してしまう。
(1)旧世界の原住民たち(黒人)は、社会を客観的にたしかな輪郭で感受する意識をもっていない。それで共通の意思がなければ造れない法律とか、人間のほかに至上なものを思い込めないかぎり成り立たない神の概念などもつことができない。そこではあくまで人間の魔術が至上のものだ。動物に似た野蛮な住民たちの振舞があるだけである。
(2)宗教は人間がじぶんを超えた力をどう認識しあがめるかという面から始まる。...司祭たちが自然を左右できるので畏敬すべき人たちと考えられている。
(3)眼につくおのは動物でも樹木でも石でもみな神なのだ。(この自然観はアニミズムと呼ばれる)
(4)アフリカで人間以上に力のあるもの云えば死んだ祖先だけで、祖先は力あるものとして祭られる。
(5)人肉は食べあれることがある。王の死は多数の人が殺され食べられるきっかけとなる。
(6)アフリカでは絶対の奴隷制度がある。両親が子どもを売ったり、子供が両親を売ったりすることが平気で行なわれる(ヘーゲルはこれは野蛮で、残虐な住民の本性から発生すると説明するが、吉本氏はの近代主義的理解を疑う)
(7)生命を尊重しないため、蛮勇をもって死をおそれない。
(8)王は絶対的な権力を持ち、土地はむろんのこと臣下の遺産は王国のものである。
(9)逆に臣下が国王の失政のために災いをうけ、気に入らないときは、罷免されたり、殺害されたりする。
(10)文明社会との接点は奴隷貿易という形だけで保たれている。臣下の人民を奴隷として売り出すのは王国の権限になっている。
このようにヘーゲルによって捉えられたアフリカ的なものへの理解について、吉本氏は「うわべだけで内面の理解を欠いている」、洞察力に切実さが欠けており外側からみているだけだ、とあきれているかのようだ。
二度にわたって、ヘーゲルによるアフリカ的(プレ・アジア的)概念を論じながら、吉本氏は、アジア的という概念が成立するためには、プレ・アジア的(アフリカ的)原型という概念と一体でなくてはならないと云う。また段階という概念が成り立つためには、連続性と断続性とが二つとも設定できなくてはならない。
山口昌男「「アフリカ的段階」素描」)

KAWADE夢ムック 文藝別冊 吉本隆明

KAWADE夢ムック 文藝別冊 吉本隆明

吉本隆明は、『アフリカ的段階について』の「新装版によせて」で次のように書く。

マルクスは『資本制に先行する諸形態』のなかで原始社会と古典古代社会のあいだに、<アジア的社会>を段階として設定してみせた。わたしの勝手な推論では、ヘーゲルの世界史の考察の方法が、あまりにヨーロッパ近代に偏っていて、その他の地域世界(アジアやアフリカ世界など)を未明の地域として副次的にしか問題にしていないことに危惧を覚えたからだと思う。

アフリカ的段階について―史観の拡張

アフリカ的段階について―史観の拡張

ヘーゲルの歴史哲学は有名な三段階論の構成になっており、それをマルクスも基本的に継承している、と言いたいのであろう。

こういった構成に対して、「アジア」に対する「プレ・アジア」としての「アフリカ」というのを言ってみたかった、というだけなのかもしれない。上記の引用は、吉本が本で書いている、ヘーゲルがアフリカをどのように見ていたのかをまとめたものであるが、まあ、一言で言えば、ろくに知らないし興味もたいしてない、という感じなわけで、ヘーゲルからすれば、そんな遅れた時代の話を私はしたいわけじゃない、今起きている、ナポレオン以降の現代社会、市民社会としての、人間の発展について書きたいのだから、そもそも、こんな吉本のような「いちゃもん」は、はなから、どうでもいいのであろう。
このことを逆に考えてみると、そもそも、吉本は何が言いたかったのかな、という疑問がわいてくる。というのは、彼の言う「アジア」と「プレ・アジア」の差異と言っている意味が、よく分からないからだ。なぜこういった観点で、歴史を分けようとするのであろう?
例えば、吉本の本を読むと、アジアとアフリカでは、「王権」の構造が違うんだ、といった記述が最初の方にでてくる。しかし、こういった分析は、どこまで意味のある実証なのだろうか。つまり、そんなところに、本質的な差異があるのだろうか。
このように考えてきたとき、私には、おそらく、吉本の考えの中に、どこか、特殊日本的な事情についての観念があったのではないか、と予測するわけである。
実際、吉本の本を読むと、最初に「古事記」「日本書紀」の神話の記述が、どう考えても、日本列島内で生まれたとは考えられない(外から持ち込まれた)伝説のようなものがあるんじゃないのか、また、そういった伝説が、世界の各地にあることは、比較文化論的に自明なんじゃないか、といった指摘がある。
もちろん、この吉本の本の大半を占める記述は、いわば「アニミズム」の話である。しかし、そういうことで言うなら、なぜ、アジアとプレ・アジアを分けなければならない、という話になっていくのか。つまり、このことをヘーゲルマルクスから言わせれば、そこに本質的な差異を感じられないわけであろう。
例えば、この文脈を、本居宣長の「漢意批判」の文脈で考えたらどうであろうか。宣長は、いわば、中国的なものを嫌い、それに対立する側として「もののあはれ」という形で、源氏物語などの文脈から発見していく。つまりは、宣長の視線の延長には、中国的な「文明」批判の色調があらわれている。
しかし、この話はこんなものでは終わらない。宣長がライフワークとしてとりくんだ古事記は、いわば、中国的な文明に汚染される前の、日本の「本来性」が、そこに見出されることになる。つまり、ここには、ある対立軸が前提にされている。

  • 中国という「文明」帝国
  • 日本という「本来」性の継承

そして宣長にすれば、この後者の「保守」が重要だと言いたいわけであろう。そしてそれは彼の言う「もののあはれ」と関係している。宣長にしてみれば、古事記の中には、まだ、日本が中国の文明に汚染される前の、本来的な日本性であり、中国に卓越する日本の価値がある、ということになる。
しかし、このように言うなら、宣長が守ろうとしている古事記的なるものとは、例えば、アイヌ民族琉球と変わらない

のことを言っていたのと変わらない、ということにならないか。もっと言ってしまえば、「もののあはれ」って、アニミズムのことを言っているんじゃないのか、ということになる。実際、吉本は本の中で、そういったアフリカ的段階における「アニミズム」の考察で、アイヌ民族の話を紹介していたりする。
たとえば、卑弥呼の豪族集団が、多分に「弥生人」的なるもの、つまり、中国の文明人たちが何人か渡来してきた人たちを、技術者の中核においた集団だったとしても、その構成のかなりは、本来的な、日本古来の縄文人を内包した集団だったと考えれば、そもそも日本的なる呪術集団を中核として置く「大王」制的な構造が、多聞に「縄文的」なアニミズム的なものの延長で考えることは自然であろう。
吉本の言いたい「アジア」と区別されるアフリカ的段階につらなるアニミズムを、例えば、アイヌ民族のような日本に古来から存在してきた縄文人

  • 中国の「文明」に汚されることなく

つまり、中国を介すことなく、直接、南東を通って、アフリカから渡ってきた「直系」のアフリカ・オリジナルの起源だと、吉本は言いたいのかもしれない。
そして、こういったアナロジー本居宣長古事記論に並行する。つまり、日本語や韓国語と、中国語との差異に。つまり、前者と後者では、(日本語では動詞が最後に来る、といったような)文法などにおける、明らかな「話し言葉」の構造的な差異を、以下のような構造において、理解する、ということである。

  • 日本語や韓国語 ... 最初に日本や韓国に渡ってきた「中国の文明に汚染される前」のアフリカ人たちが、伝承してきて、縄文人として日本で話されてきたもの。
  • 中国語 ... それよりも、はるかに後に大陸で文明化してきて、中国文明を発展させることになった人たちが話していたもの

こういった観念は、現在のネトウヨ的な感性につらなるものと解釈されるのかもしれない。日本をなにか、中国の伝統とは、かなずしも一緒ではない、といった形で、中国に対抗して、日本の天皇制を位置付けようという動機には、こういったなにか「縄文」的なものを、「中国の文明」を介することなくアフリカから渡ってきた、つまりは、どこか、アフリカにいた人々の時点で、なんらかの本質的な差異のあった「集団」なんだ、ということさえ言いたい、ということなのかもしれない。
しかし、反面、吉本の言う「アフリカ的段階」というアイデアが、そういった動機だとするなら、これを、ヘーゲルマルクスの「文脈」において、欧米の人に理解してもらう、というのは、なんとも無理筋のような気もするのだがどうだろうか。まあ、本居宣長の言うような意味での、中国という舶来の文明への「嫌悪」というのは、どこの国でも

としては、当たり前のようにある話でもあるし、所詮は、その程度の「よた話」として、あしらわれて終わるのがオチといった感じもしないでもない。少なくとも、吉本の、あのエッセイ程度では、それくらいの日本ローカルの文脈の話なのかな、といった印象といったところであろうか...。