「ばらかもん」とプチ・ヤンキー

前回、なぜ「アフリカ的段階」なるものについて言及したのかといえば、中沢新一が対談で言及していたからであるが。

中沢 でもやっぱりアジアのもっとも重要な特異点は中国です。むしろアジアのなかでも異質と言ってもいい。だからASEAN諸国と日本VS.中国の間にある政治的な根源は、けっこう古いかもしれない。
東 とすると、二十一世紀の日本としては「海のシルクロード」方向、具体的にはASEANとの連携を重視すべきなんですかね。
中沢 今の状況を見ていると、ここ当面はそれがいちばん現実的にも正しい道だと思いますが、ASEN諸国と中国の関係も一筋縄ではありませんから。しかしいずれにせよ、「アジア」という概念をそろそろ脱構築するべき時期がきています。
(「原発事故のあと、哲学は可能か」)

新潮 2014年 09月号 [雑誌]

新潮 2014年 09月号 [雑誌]

ここで中沢が言っていることは、どういう意味だと考えればいいのだろうか。たとえば、東浩紀さんはこの対談で、松本克己『世界言語のなかの日本語』について、熱く語っている。この本において、著者は、いわゆる、日本語を「ウラル・アルタイル語」と共通の祖先となるといったような、従来の日本語起源論に、徹底して反論していく。しかし、問題は、その反論が、どういうものと考えられるのか、なのである。

  1. 語頭に子音郡が立たない。
  2. 語頭にr音が立たない。
  3. 母音調和がある。
  4. 冠詞というものがない。
  5. 文法上の「性」がない。
  6. 動詞の活用がもっぱら接頭辞の接合による。
  7. そのような接尾辞の種類が多い。
  8. 代名詞の変化が印欧語と異なる。
  9. 前置詞がなくて後置詞を用いる。
  10. 'have'に当たる語がなく、「ある」によって所有を表す。
  11. 比較構文では、奪格またはそれに準ずる後置詞を用いる。
  12. 疑問文で特に語順を変えない。疑問の標識が文末にくる。
  13. 接続詞の使用が少ない。
  14. 形容詞が名詞の前に、目的語が動詞の前に置かれている。

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

これが、いわゆるウラル・アルタイ的特徴として藤岡勝二が提示したものだが、これのなにが問題なのかを、一言で言えば、「欧米語や中国語は、世界の中で特殊だ」という言葉に尽きる。
また、これに対して、日本語がウラル・アルタイ語とはっきりと違っているという特徴を、以下のようにまとめる。

  • 日本語の音節構造
  • 日本語のアクセント
  • 日本語のラ行子音
  • 日本語の形容詞
  • 日本語の指示代名詞
  • 名詞の数カテゴリー
  • 日本語の数詞類別
  • 日本語の人称代名詞
  • 動詞活用における人称標示の欠如
  • 動詞活用と敬語法
  • 名詞の主格標示
  • 「ハ」と「ガ」
  • 重複(または、畳語)
  • 擬声・擬態語

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

つまり、日本語がウラル・アルタイに似ているのではなくて、欧米や中国が「言語の種類の数」として見たとき、むしろ「マイナー」でありながら、今や英語が世界の共通語になっているだけに、世界のマイナーだと自分たちを思いたがっている、ということなのだ。だから、むしろ、欧米と中国以外のあまり知られていない言語をどこかしら「みんな」日本語と似ている、という、ウィトゲンシュタインの「ファミリー・リゼンブランス」状態に気付く、というわけである。
日本語のようなSOV型は50%、欧米や中国のようなSVO型は35%だというわけで、むしろ、世界においては、日本語のような言語の方がマジョリティだというわけで、このSOVとSVOの間には、非常に大きな壁があるかな、と私たちは、つい考えがちである。
それは、例えば、カントのカテゴリーが象徴しているように、私たちの、この世界には、なにか、あらゆるものを秩序づけているような「モデル」があるのだ、という考えが強い、ということなのではないか、と思ったりする。たとえば、この主語述語の文法こそ、あらゆる言語の屋台骨であって、この骨組ふぁあるから、言語が成立しえているんだ、と。しかし、この著者に言わせれば、そういった

にこだわるからこそ、日本語の先祖が、いつまでたっても見つからなかったパラドックスを証明している。むしろ、言語は、ウィトゲンシュタインのファミリーリゼンブランスがそうであるように、

  • どこか部分的に似ていて
  • ごこか部分的に違っている

という、まだら模様を繰り返すものであって、そのどれかを、本質だとか、モデルだとかで切り出すことを拒否する部分がある。まり、どれか一つではない。言わば、無数の「公理」があるような数学理論のようなもので、あまりにも、公理が多すぎて、どこに注目するのかは、その地域の自然史的な文脈に徹底して依存する、といったようなものなのではないか、と。
例えば、次のような興味深い例を紹介する。

例えばセム語は(古典アラビア語で典型的に見られるような)VSO型という基本語順をとるのに対して、クシ語はそれとは正反対の(日本語と全く同じ)SOV型の言語である。この先住言語の影響を受けて、現在のエチオピアセム語のほとんどは、語順のタイプがVSO型からSOV型に変わり、それに伴って文法構造にも大きな変化が起こっている。しかしそれにもかかわらず、これらの言語のセム語的な性格は、基礎的な語彙やそれに伴う名詞・動詞の形態法などに歴然として残され、その系統関係は誰の目にも疑う余地がない。
世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

この指摘は、驚くべき話なわけである。つまりお、ある言語が変わる、というのは、例えば、私たちは、日本語や琉球や韓国語も、SOVとしては、まあ、似ているわけですし、そういう意味において、このSOVというカテゴリーには、なにか、カント的な意味における「アプリオリ」とさえ言いたくなる「本質」があるように考えてしまう。しかし、上記の例では、なんらかの文脈においては、このSOVが変わることがありながら、明らかに

  • それ以外

は全部同じ、なんていうことが、普通に起きる、と言っているわけである。ここで、そもそも、日本語の起源などという問い自体が無意味だということが分かってくるであろう。つまり、

  • ゆるやかな「共通性」

のもと、そのどれが本質だとか言えないにもかかわらず、そういったアバウトに見ていったときに、ぼやっと、共通のわっかのようなものが見えてくる、そんな感じのものなのだ、。というわけでわけである(まあ、なんというか、「多く」を昔のものを保存している、といった感覚というわけである)。
そして、ここで、最近、柄谷行人さんが言っているような「周辺」とか「亜周辺」とか、そういったものに関係してくる、というわけであろう。中国とか欧米というのは、いわば「帝国」としてあった伝統をもっているわけで、その「周辺」として、いわば、中欧の圧力が、あまりにも中央から通すぎるということで、圧力が弱かった関係で、古い作法が「ずっと」残り続けた、周辺は

  • どこでも似ている

なんて話になる、ということなのであろう。ようするに、周辺は

  • 中央の圧力が弱い
  • 中央から「自由」

だということになる。まあ、中央というのは、いわゆる、本居宣長の言う「漢意(からごころ)」というわけで、まあ、文明病であり、ナーバスブレイクダウンというわけですな。都会っ子はどこか、病的な、他人の神経を逆撫でするようなKYなところがあるのも、まあ、文明病みたいなものだ、ということになるのであろう。
しかし、他方において、柄谷さんは、こういった「帝国」的なものを、いわば世界共和国的な意味において、また、国際連合的なものとして、重要視すべき側面があることにも注意をうながしている。まあ、世界が平和なのは、こういった「中央」が安定してくれているからで、そういった帝国の周辺の末端で、小さなイザコザがあっても、それが中央まで、派生してこなければ、まあ、世界の平和は比較的保たれている、ということになるのであろう。
最近、一部の人たちの間で、プチ・ヤンキー論なるものがはやった。その一端において、精神科医斎藤環さんがそれを「反知性主義」と定義したとき、私には、むしろ、彼ら都会人たちによる

  • 田舎差別

であり、東大出身者たちによる

  • 東大も出ていない連中は低能である

といったような、

の匂いをかいだわけであるが、実際に、そういった態度を、まるで人間が空気を吸い、水を飲むように、あまりにも「自然」に口から、ポロポロと差別が出てくることに、むしろ、この点にこそ、その本質があるんだろう、なんて思ったものである。つまり、都会的、文明的、漢意(からごころ)的感性においては、差別こそが「本質」なのだろう、と。つまり、差別を口にせずには、まともに、他人と話せない。弱者と「いじめ」ることで、強者にとりいることでしか、自分の場所を確保できない、都会の鬱病的作法の本質があるのだろう、と。
例えばそこに、歌手の長渕剛のようなイメージが、どういった形で大衆的に受けとられてきたのか、といったようなことを考えることもできるであろう。
また、私が最近読んだギャグ・マンガ「ディーふらぐ!」が「なぜ、おもしろいのか」といった線においても、こういったプチ・ヤンキー的なマインドを考えることができるのかもしれない。
マンガ「ばらかもん」は、長崎県五島列島を舞台に、都会育ちの若い書道家と島の住民とのふれあいを、たんたんと描く漫画であるが、つまりは、こういった定義において見たとき、島の人たちは、老いも若きも、全員「プチ・ヤンキー」だと言っていい、ということである。もしそれを「反知性主義」とか言って、島の人たちを馬鹿にする東京人いたら、私が、ぶんなぐってやる。それで野蛮だと言われるなら、上等である。

お前の言う オレの キレイな字は
親父に 言われるままに 書いた
行儀の いい字だ
怒られても いいから
オレの----
半田清舟で なければ 書けない字を 書きたい
何が正解か わからないけど
お前の 言葉に 焦らされて
東京に 戻るのは 違う気がする
変わりたいんだよ オレは

ばらかもん(3)(ガンガンコミックスONLINE)

ばらかもん(3)(ガンガンコミックスONLINE)

つまり、もしもプチ・ヤンキー的なるものが、なるの子供さ、なるの「野蛮」さ、だとするなら、東京人的なるものは、彼らの差別意識であり、彼らの

  • 焦り

にあるのではないか。知性とは「今あるもの」である。しかし、人間は成長していくのではないのか。これから、長い人生をかけて学んでいくのではないか。反知性は、将来、知性の「価値」に気付く人生を示唆する。むしろ、反反知性主義者は、今の知性に

  • 焦って

いるわけである。



ドゥルーズがこだわった「微分」的な何かとは、つまりは、「加速度」のことである。加速度が生まれるのは、そこに思考の野蛮なまでの単純化があるから、である。なぜ、なるは走り始めるのか。その加速度は、野蛮さであり、その野蛮さを、思考のシンプル化がもたらす。半田は、そこに、なるの過激なまでの、加速度に、自らの筆の

  • 加速度

の源泉を見出す。半田は反知性に、なるの野蛮さに、人生の野蛮さを、人生のアニミズムを学ぶのである...。