安藤馨「あなたは「生の計算」ができるか」

日本中の、過半数を超える人たちが、いい加減、原発をやめてくれないかと、どんなアンケートをとっても答えているのに、相変わらず、日本の総理大臣である、安倍さん一人が、意地でも、原発推進を進めたいと言い続けている様子は、この人は、他の政策もそうだけど、完全に、他の日本人とは違った、異次元の世界に行っちゃってて、もう、普通の日本人とは、まともな会話も成立しない、

  • KYの人

なんだな、と思ってしまう。
他方において、民主党という政党は、本当に脱原発政党なのだろうか。明らかに、原発利権まみれの電力会社ロビイストと党内に抱え、こんな調子で、自民党に対抗して、脱原発政策を訴える対抗勢力になりうるのか、はなはだ心もとない印象を受ける。それは、他の野党にも言える話で、一体、日本のどこに、真の意味での、脱原発政党があるのか、彼らは本気で言ってるのか、どうも、うさんくさい。それだけの、この問題へのコミットメントのレベルでの、本気度が感じられないわけである。
こういったやる気の感じられない、日本の政党政治の現状を見ていると、そもそもこれは、たんに政治家の問題だけなのか、といった疑いが生まれてくる。よく知られているように、前回の民主党政権は、完全な官僚たちによる

  • ボイコット

によって、政権はレームダックに落とされた。そして、今のニュースを見ていても、どう見ても、経済産業省

  • 自体

が、原発を止めたくない、つまり、政治家一人一人がどうのこうの以前に、官僚によって、脱原発政策は、ボイコットされている状態であり、官僚自体によって、この政策はハブられ、レームダックに落とされているんじゃないのか、という疑いがわいてくる。
つまり、何が起きているのかといえば、日本の民主政治は実際には、

でありながら、その実体が国民には隠されている、という様相が見えてくるのではないか、と思われるわけである。
もしも、今後、脱原発を主張する政治家が、総理大臣になろうとするなら、徹底して、経済産業省を中心とした国家官僚たちは、その動きを、ボイコットなどを通じて、妨害工作を仕掛けてくるのではないだろうか。
しかし、である。
私には、どうも、こういった動きは、ある種の人たちには、なにか官僚が「正義」に基づいて、

  • 日本の脱原発を防いでくれている

といったような、日本の大衆ファシズムから、健全な日本を「守ってくれている」と本気で考えているような、脳ミソお花畑な「インテリ」の集団が、どうも、この日本社会のそこかしこから、ウジウジと湧いてくるような一種の「民主主義嫌い」のようなものがあるんじゃないのだろうか、という疑いがどうしても消えない。これは、そもそも日本の官僚社会が、大勢として、ほとんどが「男」という、もうホモ社会とさえ言いたくなる様相を呈しているわけで、普段から、男トモダチとばっかり話しをしている、男中心に世界が回っている(そして、きっと彼らの多くは男子校であって、そういった「作法」を身につけていったのであろう)わけで、つまりは、

の方程式があるんじゃないのか、とすら疑いたくなる。
(このことは、本人が結婚しているかとか、子供がいるかとか、関係ない。つまり、彼らは本気で、性役割分業のようなことを考えている人たちで、女性が自分の嫁として、家で専業主婦をやっている限りでは、「いいパパ」を演じるわけだが、その女たちが、自分の職場に入ってきて、自分の上司とかになられて、自分たちのホモソーシャリイティの楽園を汚されると、途端に逆ギレして、脱原発に対してのように妨害考察を始める、みたいなことであろうか orz。)
なぜ、そう思うのか。
例えば、掲題のエッセイは読むと、私が上記で分析してきたような、「学校秀才」的な、ある種の「まじめ病」のような様相さえ示す、というわけである orz。

最近「○○ちゃん(くん)募金」などと称して、重度の疾患を抱えた幼児が日本国外で高度先進医療を受けるために必要な渡航及び治療のための費用に充てるべく数億円にのぼる寄付金を募る団体(大抵は「○○ちゃん(くん)を救う会」といった名称だが)を目にすることが多くなったように思う。冷静に考えればこれは奇妙な話ではあるまいか。なぜそんなものに人々は金銭を投ずるのだろうか。それは壮大な無駄ではないのか。

つまり、ここで学校秀才くんは、何を「計算」したのか、というわけである。この話のポイントは、その「○○ちゃん(くん)」が、自分にとって見ず知らずの人だ、というわけである。つまり、この学校秀才くんは、見ず知らずの人なら、アフリカの飢えて死んでいっている子どもたちと

  • 等価

だよね。と言っているわけである。つまり、なんでこっちを助けて、そっちを助けないの、バランスが悪いんじゃないの、と「本気」でキレているわけである orz。
意味が分かるだろうか?
こんなことを言っている人が、大学の先生だというんだから、先が思いやられるのだが、まあ、一言で言えば、こういった行動が「道徳」ではなく「倫理」だから、ですみそうな話に思える。思いつくままに列挙していこう。

  • 逆になんで、「○○ちゃん(くん)」に寄付しちゃだめなのか。そんなことは人間の「行動の自由」の範囲だよね。
  • つまりは、まさに、パーミッションマーケティングの基本なわけで、「自分で自分の、その行動を<許す>、許容範囲」だから、ということになるであろう。つまり、その程度に、これはやっていい許容範囲だと考えた、ということだと。
  • アフリカで飢えて死にそうな人というのは具体的に「誰」なの? もし、その人を提示してくれたとするなら、その話が本当だということを、具体的にどうやって確認すればいいの? もし、そうやって寄付して、どこかの知らない裕福な連中の肥やしにされたら、どうやって責任をとってくれるの?
  • どうして、「○○ちゃん(くん)」だけに寄付をして、アフリカの飢えて死にそうな人を見捨てた、と考えるの? だって、彼らには彼らなりの援助が、世界のだれかから行ってるんでしょ? 違うの?
  • 普通に考えるなら、「○○ちゃん(くん)」に寄付することは、もしも、自分がそういった危機になったら、自分も助けてほしいからだよね。これは国家が行う福祉にも言えるだろうけど orz。
  • もしも、「この人」が「○○ちゃん(くん)」に寄付することを「あなた」が許せないなら、あなた自身がパブリックな場で、「この人」をなんで糾弾しないんだろうね。だって、あなた自身がそうだと確信したんでしょ。だとするなら、あなた自身が、そこまでの義憤にかられていない、っていうことになるんじゃないんですかねw
  • 実際にやってみて、なにか困ったことがあったなら後で直す。どうして、これじゃダメなんですかね orz。やる前から、ああでもない、こうでもない、と不安になるって、なんなんですかね。「○○ちゃん(くん)」だって、アフリカの飢えてる子どもだって、両方ハッピーになれば、それでいいんじゃないんですかね orz。
  • そもそも、あなたは「どうやって」、このハッピー計算式を学んだんですかね orz。一体、だれに聞き取りをして、「○○ちゃん(くん)」と、アフリカの飢えてる子どもの、両方の「ハッピー」を「知った」んですかね orz。どうやって、彼らがそれを望んでいて、ハッピーに「になる」ということを、どんな権利で定義しやがったんですかね orz。

つまりさ。この学校秀才くんは、いい加減にしてほしいわけですよね。全部

  • 「べき」論

じゃねえか。「べき」論なんか糞喰らえ、だ! お前は、どう思ってるんだよ。いいと思っているのか。悪いと思っているのか。それに、どうして他人が関係するんだ。自分が問題だと思っているんだったら、自分が、その問題行動を行っている人間を、糾弾すればいいじゃないか。それもしていないで、なに言ってるんだ。やってないということは、そう思ってない、ということなんだろ。だったら、それで、この話は終わりじゃないか。頭がおかしいんじゃないのか?

建物で火災が生じたとする。自分の家族がそこに巻き込まれているのだとしても、道徳的不偏性はそれを無関連な事情とみなすだろう。とりあえず人命の有する価値が諸個人で等しいとすれば、そこでは自分のものを含めて人命が最大数確保できるように救助するのが正しいのであって、真っ先に自分の家族の下へと駆けつけるならばそれは道徳的に誤っている。もちろん、そのことで当人を非難しても得るところは殆どないし、家族に対する当人の愛情や関心はこうした異常な状況でなければ、むしろ世界をより善いものとする傾向性を持っていただろう。だが、やはりそれでもその行為は道徳的に「誤っている」のだ。

よく分からないんだが、この人は、もしも、その人が自分の家族ではない、ある特定の人を助けたら「問題」だと言い始めるのであろうか? そもそも、どこから「最大の人数」という命題が、このルールにすべりこまされているのか。そんなことは、その「結果」に対して、人々が満足するかそうでないか、しか、ありえなくないか。みんなが、この結果に不満だったら、糾弾されるだろうし、そうでなかったら、そうしない。それだけのことじゃないのか。
上記の引用の話は、そもそも、国家官僚の「道徳的ルールに従う」その、

  • 従順性

が問われているのではなく、近年、よく言われる、利益相反や、ポジション・トークの問題を言っているようにしか思われない。医者が自分の家族を手術しないように、当事者は基本的に、その利益に関係する行為の場所から離れるべき、とシステムとして考えられるようになっている。それは、私たちが道徳的に弱いからとか、そういうつまらない理由ではなく、そもそも、人間は、認知的不協和などから分かるように、

  • そのようにできていない

からなわけであろう。だれでも、自分が得になることがあれば喜悦を感じるし、他人が損をしているのを見ても喜悦を感じる。そういった、サディスティックな部分を避けられないのが人間なんであって、そのように考えるなら、こういった問題は、そもそも、「システム」が回避するような構造になっていなければならない、ということになるであろう。
もしも、システムによって、いわゆるコネ入社のような悪慣行が避けられているなら、たまたま、ある状況では、そのコネによって有利になる人であっても、その人がもし、なんらかの状況の変化によって、自分のもっているコネが通じない世界に干渉しなければならなくなったとき、その人は「助かった」と思うであろう。これは、別に「道徳」とはなんの関係もない、比較的どんな民主主義でも合意されやすい(結果、として生まれる)「一般意思」だと言えるであろう。

「我々の代わりに政府がやってくれる」という総督府的モデルも、政府の道徳性と不偏性が何らかの手段によって確保できる限り、我々の非合理性を克服する手段として真剣に考慮されてよい。

まずさ。一体、どこの誰が、「最大多数の最大幸福」をルールとして受け入れたというんでしょうね。憲法にでも書いてあるんですかね。また、ここで言う幸福を誰が定義する、というんでしょうね。もしそれが、国家の政策としてあるものなら、たんに私たちは、それが不満だったら変えようとするし、そうでなければなにもしないって、それだけのことなんじゃないんですかね。なんで、「べき」論を、勝手に、よく分からない出所のところからもってきて、

  • 「だから」こうすべきです

って大衆を強制しようと言っちゃうんでしょうかね。自分が、気に入らないなら、たんに「気に入らない。一票をもつ一人として、反対票に投じる」で、なんでいけないんでしょうかね。
あとさ、どんなシステムを作ったって、限界があるから、民主主義だったんじゃないんですか? システムが「うまく機能知しているのか」を、別のシステムで保障したつもりになったって、今度は、そのシステムのシステムの保障が問題になるんでしょ。つまりは、そんな難しい保障マシーンをいかに機能させるかなんて考えなくなって、民主主義、つまり、集合知で、一定の正当性と健全性を担保していくで、十分、シンプルで、よっぽど「健康」なんじゃないですかね(まあ、それだけ、ポピュリズムが嫌いなんでしょうね。いや、もっと言えば、自分の考える「正義」を認めてくれない大衆、という、

  • 自分が理解できない

ウムハイムリッヒな存在が怖いんでしょうね、エリートは、そもそも、大衆とふれあうことのない「無菌室」で育てられていますからね orz)。
この辺りに、学校秀才くんの「限界」があるんじゃないのか、と私は思っているのだが、どうであろうか?

ラチオ06号

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