河野裕『いなくなれ、群青』

柄谷行人の『近代日本文学の起源』において問題にされていたのは、明治以降の言文一致の問題であった。この場合、問題とされたのは、

  • 日本語の発明

という問題であった。例えば、夏目漱石の小説を読むと、私たちは「驚く」。というのは、漱石が書いた文章が、ほとんど、現在の日本語、標準語と同じだから。こう言うと、日本語で書いているんだから、当たり前じゃないか、と言うかもしれない。しかし、よく考えてほしい。つい最近の、江戸時代の後期の日本人が書いたとされる文章は、基本的に公的なものはすべて、漢文であった。
こういった文語体を自明としていた時期から、なんらかの標準的な

  • 音声

というものが「自明」となる過程において、なにが起きていたのか、といった問題意識があった。
ある意味において、漱石が「書いた」文章が、今の日本語を「作った」。それは、どういう意味なのか。
例えば、「内面」という言葉がある。しかし、その内面は「日本語」によって「記述」される。ということは、一体、何を意味しているのであろう?
この問題は、現在の、いわゆる哲学的な言説をも「汚染」している。現代において、「自己語り」のモノローグが、あらゆる場面を汚染している。そういった「パフォーマンス」は、自明なものとなっている。そういったスタイル、そういった、姿勢は、どこまでも自明ななにかとして、存在している。
もちろん、この問題を考える上で、ドイツにおける、ルターの宗教改革、つまり、聖書の

  • ドイツ語(=国民俗語)翻訳

が重要な類比が行えるだろう。つまり、ルターの聖書「翻訳」は、ある意味において、彼が「ドイツ語」を「作った」のである。つまり、話は逆なのだ。彼が日常の方言を「書いた」から、それが、ドイツ語になったのであり、もっと言えば、彼が「ドイツ語」で書いた「から」、今、ドイツという国があるのだ。
同じようなことは、漱石にも言えるのだろう。
こういった場合、「内面」とは、なんだったということになるのであろうか? 内面とは存在するのだろうか。いや、内面とは存在<した>のだろうか? 今。間違いなく、自分の「中(なか)」に、あるとしか思えない、そして、実際に、この内面から語っている自分の言葉が、その内面と関係していないとは思えない。この、あまりにも、自明に存在しているなにかを疑うとは、むしろ、意味が分からない行動だということになるであろう。
いわゆる、近代国家、ネーション=ステートが成立していく過程において、この言文一致の問題をどう考えればいいのであろうか? そして、そのことは、「内面」、いや、内面の「自明」化をどう考えるのかと並行して、アジェンダ化される...。
掲題の小説は、主人公の少年の七草が、ある日、階段島と呼ばれている島で目覚めた、何日か後から始まる。そして、この外界から隔絶された島での生活に慣れてきたとき、彼はある、彼がよく知っている女性と再開するところから始まる。

当時の真辺由宇は、簡単に言ってしまえばいじめられっ子だった。小学生も四年生ともなると社会性のようなものが身についていて、クラス内での派閥が生まれるし、会話で雰囲気を読む技術も重要になる。
真辺由宇はそういうことに疎い子だった。

真辺由宇と僕の関係を、僕自身よく知らない。
小学校からの知人なのだから、幼馴染みと言ってもよいと思う。友達という言葉の定義はよくわからないけれど、そう表現してもきっと間違いじゃない。
基本的に、僕たちは良好な関係を保ってきた。ケンカらしいケンカをしたことは一度しかない。僕は真辺に好意的な感情を持っている。それは嘘じゃない。
でも反面で、真辺は唯一、心の底から僕を苛立たせる人物だった。純粋に、僕は真辺由宇に共感できない。本質的に僕たちは真逆なのだ。彼女との関係は、いつも僕が我慢を強いられるように思う。
我慢。
たとえば以前、僕は言った。
「我慢の同義語は諦めだ」
真辺は答えた。
「我慢の対義語が諦めだよ」
諦めさえしなければ、どんなことでも、どんな相手でも、我慢強くつき合える。そういうことを彼女は話していたように思う。
でも僕は経験で知っている。諦めてしまえば、なにも期待しなければ、どんなことだって我慢できる。
だから僕は頷いた。
「なるほど。その通りだ」
僕たちは初めから矛盾している。
二人の関係を表す言葉を、僕はまだ知らない。

真辺由宇(まなべゆう)は主人公の七草にとって「他者」である。それは、彼に、「不快」の感情をもたらすからだ。この小説は普通の意味での恋愛小説になっていない。それは、上記にあるように、一貫して彼女への「不快」感情しか、記述されないからだ。
しかし、それは、主人公の「内面」の記述によって行われている、ことが特徴になっている。
主人公の七草にとって、真辺由宇への不快な感情と、彼女を「特別」に思うことは、両立する。そのことが、他の人にとって「分かりにくい」のだ。
七草と真辺の関係は、彼女が小学生のとき、七草が彼女がイジメられていたことに感じていた、ある種の「感情」から始まる。あるきっかけから、よく付き合うようになったわけだが、彼はそれを「不快」だと言いながらも、常に従い続ける。しかし、なぜそうするのかを七草自身が分からないように、それは真辺にも理解できないわけである。

「七草のことは、結構知ってるよ。秘密主義だし、平気で嘘をついて誤魔化すし、たまに意地悪だし、無駄に好き嫌いとか隠そうとするし、全体的に素直じゃない」
「わざわざ僕にけんかを売りにきたの?」
「それに、とっても優しい」
真辺の声は奇妙に力強く攻撃的で、尖っていた。
「誰よりも、七草は優しい。だからたまに、心配になる」
「そんなことはないよ。人に優しくするのは、とても疲れるんだ。僕はすぐに諦める。簡単に、なんでも諦められる」
真辺由宇とは違う。
彼女のように、純粋には理想を追えない。もちろん誰にだって優しくできた方たよいけれど、そんなに大変なことはやっていられないから、これまでいくつものことを投げ出してきた。
なのに、彼女は首を振る。
「違うよ。七草だけが、私を見捨てなかった」
息が詰まる。
真辺の口からは聞きたくない言葉だ。彼女はもっと、他人の感情に無自覚的で、鈍くて、乱暴で。見捨てられたとかそんあこと、思いもしない女の子だ。きっとそうなのだと信じてきた。なのに、
「七草は私のことを馬鹿だと思っているかもしれないけれど」
「うん。まあ、そうだね」
「実際に馬鹿なのかもしれないけれど、それでも目はわりと良い方だし、耳も普通に聞こえているんだよ」
「目も耳も奸計ないと思うけど」
「普通にものが見えて、普通に耳が聞こえていたら、きみに感謝していないわけないじゃない」
真辺は僕の制服の袖の辺りに手を伸ばした。
避けることも、振り払うこともできなくて、袖口の辺りをつかまれた。それは弱く繊細な力だった。
「七草が諦めるのは、自分のことばかりでしょ。楽をしたいとか、得をしたいとか、そんなことしか諦められないんでしょ。自分のことは諦めて、誰かのために、きみは苦労ばかり背負い込んでいるでしょ」
違う。僕が諦められないのは、たったひとつだけだ。
思いきり反論したかった。君の勝手な理想ばかり押しつけるなよと言いたかった。乱暴に手を振り払って、背を向けてしまいたかった。
でも、できなかった。
もう夕陽はその姿を消している。分厚い雲に隠れて、月も出ていないようだった。灯台のライトは海の先ばかりを照らしている。真辺の表情はよくわからない。
それでも、郵便局から漏れて届くささやかな光で、彼女の涙がきらめいた。
「まっくらやみの中にいるような気分になることがある。豆電球がひとつあれば救われるのに、私はそれを持っていないの。二年間、何度もそんな気がした。そのたびにきみのことを思い出した」
真辺由宇が泣いていた。音もなく涙を流していた。
まったく、なんなんだ。彼女の感情は奇妙なタイミングでスイッチが入るのだ。よくわからないことで、勝手に泣くんじゃない。やっぱりだ。いつだってそうだ。真辺由宇だけが、僕を苛立たせる。息苦しかった。
「ずっと知っていたよ。七草が、いつも私の手元を照らしてくれていたんだ。私はずっと、きみに護られていたんだ」

もう一度、真辺の子供の頃の「イジメ」を見ている七草から考え始めよう。七草の視点からは、真辺が受けていた「イジメ」は、彼女の「純粋」さに関係していると受けとられている。そしてそれは、終始、現在に至るまで変わらない。真辺は「純粋」だからこそ、イジメを受けるような行為をしてしまう。主人公にとって、それはもはや「自明」のことでしかない。
しかし、問題は、この小説において、真辺由宇は主人公の内面の

  • 外部

つまり、他者の位置にあることなのである。つまり、問題は真辺由宇の「視点」において、七草がどう「見えていた」のか、なのである。

  • 秘密主義だし、平気で嘘をついて誤魔化すし、たまに意地悪だし、無駄に好き嫌いとか隠そうとするし、全体的に素直じゃない

これは、一般的な「内面」の<殻(から)>を外部から記述した場合の、定型的な記述だと言えるであろう。
つまり、ここには、ある定型的な構造があるわけである。
七草は典型的な近代文学における「内面」という「構造」である。それに対して、その七草から見える真辺は、いわば、社会的な「ルール」に従う実践的行為と見えている。しかし、こういった「内面」の側にとって、それは

  • 建前

なのだ。なぜルールに従うのか。ルールは本音ではない。つまり、偽物だ。だから、そのルールに従おうとしてる存在は、内面の側からは偽善に見える。つまり、そういった善の行動自体が「不快」だ、ということになる。
七草が生きている世界は、言わば、「ニヒリズム」の世界である。この世界を成り立たせている建前と「対立」する形でそれはある。ここにおいては、基本的に世界は、自らが介入して「より良くしていこう」とする対象ではない。そうではなく、それは

  • 受動

的な形においてしか、存在しない。自分で何かを目指すことはない。ただただ、自らが受けることになる「快不快」の感情を、どうにかやりくりする形においてしか存在しない。
そういう意味において、七草が真辺の「命令」に従うことは矛盾ではなかった。それは、例えば、上記の引用における「諦め」の捉え方が、まったく反対になっていながら、「同意」が成立してしまう矛盾に関係している。七草にとってその同意は、言わば、

である。しかし、真辺にとって、それはどうであろう。もしもこのアジェンダを、真辺の視点から七草の問題が「全て」わかっていたなら、どういったふうに考えられるであろう。
真辺にとって、七草の「ニヒリズム」は、言わば、「どうでもいい」ことなのである。彼女にとって大事なのは、その行動だった。たとえ、どんな理由であれ、いつも彼女を助けようとした彼の実践は、なによりも、彼女にとって貴重だった、ということである。

真辺は相変わらず、まっすぐに前をみている。
「私が私を捨てたのなら、その理由くらい、すぐにわかった。でも、一緒にいちゃいけない人間なんて、いるはずないよ」
「まったくだね。だから僕は、ここにいるんだ」
そのまんまでは共に進めないふたりが共に進むために、それは当たり前で真っ当な成長として、僕は僕を捨てたんだ。
「納得できない」
「どうして?」
「なにかを捨てて進むのが成長だとは、認めたくない」
「そんなのは言いまわしの問題だよ。あらゆる成長は、弱い自分や、間違った自分を捨てることだ」
「でも、この島は確かにあるんだよ」
真辺はじっと暗い島を睨んでいる。気がつけばそれは間近に迫っている。見上げるだけでは、その高さはよくわからない。
「ただの言い回しではなくって、確かに捨てられたきみと私がいるんだよ」

この作品は、言わば、七草と真辺が、自らのそういった「特徴」を

  • 捨てた

という比喩によって成立している。つまり、その捨てられた欠片(かけら)が彼らであり、つまり、この階段島に生きる二人を表象している(つまり、そうやって「捨てた」側の二人は、もともとも彼らが生きていた側の世界で、生活している、なにかを「捨てた」形によって)。二人は、そのことを受け入れない。それは、なにかを捨てることによって成立する関係を「成長」だとか「大人」だとか言うことへの抵抗を、その捨てられた側として納得できないからだ。
つまり、言わばこれは、子供の子供としてのアイデンティティ、「幼児性」を捨てることが大人になることを意味するのかの問いとして成立する。
言わば、ここにおいても、再度、本居宣長の漢意(からごころ)批判の問題が再現されるわけである。七草にとって、捨てたものとは、ニヒリズムではない。そのニヒリズムが常に持ちながらも、なぜか、真辺との関係を継続し続けた「優しさ」であることが分かるであろう。他方、真辺にとっては、そういった七草の「優しさ」を受け入れる関係だと言える。
つまりは、ここで二人が「捨てた」と考えられているのは、二人の子供の頃に身に付けていた、なんらかの慣習的な行動だと言えるだろう。その純粋な意図は今では分からない。そういう意味では、現在の彼らにとって、それらは、なにかの「矛盾」としか理解されない。では、そういった不純物を取り去って、いわゆる大人と世間で呼ばれているような、定型的な型に、自らを従わせていくことが「大人になる」ということなのであろうか?
少なくとも、「この島」の側の二人は、それに抵抗する、といういことである...。

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

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