杉晴夫『論文捏造はなぜ起きたのか』

つい最近、国が国立大学における、人文教養系の学部学科の「廃止」を提言したことは、驚きをもって受け取られたと共に、これが一体、何を意味しているのか、といった視点で考えさせられた。
おそらく、日本政府は、かなり「本気」なんじゃないか、と思われる。左翼の巣窟である日本の大学を最も毛嫌いしているのは、今の政府である。神道系や戦前の修養のようなものを教える義務教育があれば、彼らには、そもそも、人文教養系の学問などいらない。というか、むしろ邪魔なのであろう。左翼の歴史は「自虐史観」だと言う彼らにとって、科学としての歴史など不要であり、

  • (右側政権の)政府見解

が「歴史」だと言いたいわけだ。というか、そう「だから」彼らはそう言っているのであろう。歴史の「事実」を決めるのは常に「政治」だ、ということなのであろう。
おそらく、今回の安倍政権の体制を見る限り、かなり本格的な「イデオロギー戦争」を国民に向けて仕掛けてくるだろうことが予想できる。もちろん、その一つの傾向として、最近の朝日新聞バッシングがある。しかし、ここで一点、注意がいる。
朝日新聞毎日新聞東京新聞が、反原発、反特定秘密保護法、反沖縄の基地、反従軍慰安婦問題で一致していて(そういう意味ではリベラルで)、その点で、読売新聞や日経新聞や(完全なイデオロギー新聞に堕している)産経新聞と、対立していると言ってみても、例えば、TPPや消費税増税では、各誌は、きれいに「一致」するわけである。
つまり、はっきりと言えることは、これらの大手新聞メディアの特徴として、経済問題においては、本気で経団連経産省と対立できない。それは、対立すれば、情報をもらえなくなるからで、そもそも、そういった「制約」の中で成立しているメディアにすぎないのであって、つまりは、「言論」と自称しておきながら、こういった「制限」を自明のものとするようなものは、本当の意味において、まともに相手にする価値があるのか、とは考えられるわけである。
しかし、いずれにしろ、今回の朝日新聞の「謝罪」騒動の不思議は、朝日新聞の「社長」の発言の不思議と考えられるであろう。社長が軽々しく、謝罪会見で「自説」を述べて、さまざまな言質をとられて、それで、一体、どうやって言論の自由を保つのであろうか。一個一個の問題には、それぞれの場所の現場の責任者がいるわけで、細かな事実関係や、成り行きはそういう人しか分からない。さまざまな事情を、そんなに簡単に社長が分かったようなことを言えるような問題ではないであろう。
つまり、こと言論に関係したものについては、その場の「自治」が非常に重要だというのが、戦後の左翼的な知識社会の常識であったはずであるのに、そういった言論の自由が犯される危機感が、多くの場所で希薄になっている印象を受けるわけである。
そして、それは特に、大学といった場所において顕著なのであろう。

国立大学の職員は、文部科学省と同じく国家公務員であり、その資格に上下の差はなかった。したがって国立大学の教授は、文部科学省の課長補佐、課長、あるいは審議官などと対等、あるいは上位の資格で交渉、相談ができた。
しかし国立大学が独立行政法人となると、文部科学省の官僚と大学の職員の間の対等な関係は消滅し、「主人」と「使用人」の関係となったのである。
もっと具体的に言えば、文部科学省の官僚は究極の主人であるわが国の政府の代理人となり、政府から降りてくるトップダウンの指令の伝達者となった。そして大学職員は、主人の指令にひたすら従うことを要求され、使用人扱いを受けるようになった。
政府の最優先の目標は、科学技術の振興による科学立国であり、その政策の裏には、わが国の産業界に役立つ人材の育成と供給がある。そしてこの「大学の主人」は、大学に対して予算配分を恣意的に行なう権利を持ち、大学予算の減額をほのめかして大学を威嚇し産業界の要望に応え得るように、大学の組織の改造を促し始めた。

STAP細胞の問題で、自殺した笹井さんを「国家的な損失」と言い、小保方さんへのバッシングを「国益」を損ねる行為だと糾弾する人たちは、不思議なことに、国立大学の独立行政法人化によって、国立大学の教授たちが、以前とはまったく違う「サラリーマン」になったことについては、なんの不思議にも思わないようである。
そもそも、おかしいのは、いわゆる遺伝子工学関係の研究は、国家による「国益」優先の

  • 国策

によって、意味もなく、膨大な予算が重点配分されてきたわけであろう。なんで、そんなに必要なのか。そこまでいるわけないであろう。
つまり、大事なポイントは、この遺伝子工学への不必要なまでの予算の重点配分によって、さまざまな、戦後の大学の「余裕」の中で、自由に自治の中でバランスをとって、行ってきた大学事業が、次々と、予算をカットされ、潰されてきたわけであろう。
なにかが、おかしいと思わないのだろうか?
笹井さんの自殺を「国家的損失」と言うなら、今まで、さまざまに大学の学生であり教授でありが、自殺を行い、この世を去って行った一人一人をなぜ

  • それと同じくらいに

「問題」だと思わないのだろうか。なぜ笹井さんだけを特別扱いするのだろうか。彼が遺伝子工学に関わっているからであろうか。
なぜ、より根本的な、大学の「自治」の重要性に関心が向かわないのであろうか。

このように<一般に絶大な権威と信用があると見なされている『ネイチャー』誌の正体は、現在流行の、したがって研究者数も圧倒的に多い学問分野の論文を恣意的に優先して掲載することによって購読者数を増やし、利益を増大させる商業誌、つまりビジネスに過ぎないのである。

掲題の本の著者は、はっきりとネイチャー誌は「お金儲け」の雑誌であって、審査員のレベルも疑わしいと言っているわけであろう(というか、だから、今回の論文取り下げにまで至ったわけであろう)。
ところが、である。
なぜか日本の「官僚」は、このネイチャー誌に論文が載ると、ばかばかしくなるような「評価」を行う。世界中の学者たちは、ネイチャー誌という、たかだか、商業主義で購買者獲得にしか興味のない雑誌だと馬鹿にしている状況で、なぜか、やたらに高評価をする。
ていうか、さ。
変じゃね?
だって、なんで、たかだか、ただの「官僚」が、その学問の「重要」さなんて分かんのさ。
何様(嗤

この『ネイチャー』誌の「見かけの」権威を支えているのが、現在流行の「インパクトファクター」である。
これは、ある学術雑誌に一年間に掲載されたすべての論文が、他の研究者の論文中に引用された回数を示す値であり、研究者の多い流行の分野をあつかう学術誌のインパクトファクターが高い値を示すのは当然である。この結果、過去に絶大な権威のあった『The Journal of Physilogy』誌(この雑誌は英国生理学会の機関誌で、ケンブリッジ大学出版局から出版される)のインパクトファクターは、わずか「4」から「5」にすぎないのに対し、『ネイチャー』などの商業主義の雑誌は、この値が「30」台である。
つまりこのインパクトファクターは、研究者の数を反映する「ポピュレーションファクター」あるいは「流行ファクター」にすぎず、個々の論文の学問的価値とは何の関係もないのである。
このように、インパクトファクターの実態は浅薄極まるものであるにもかかわらず、わが国では軽薄にも、この値を過度に尊重し、多くの大学、研究機関で、職員の採用、あるいは昇任に、候補者が過去に発表した全論文のンパクトファクターの合計値 を人事決定の最優先事項として用いるようになった。
さらにわが国では、不合理極まりないことに、『ネイチャー』掲載論文の共著者に名を連ねれば、ほんの一部の実験の手伝いをした未熟な研究者でわっても、インパクトファクター「30」が加算され、昇任人事で圧倒的優位に立つのである。

ところで、わが国の科学研究費補助金の審査システムは、米国に比べてお粗末きわまるもので、申請件数に比べて審査員数が極端に少なく、おびただしい申請書がただ一人の審査員の机上に置かれ、片端から採択の有無を決めることを求められていた。おそらく、審査員が一つの申請書に目を通す平均時間は、五分から十分ぐらいであったであろう。申請不採択の理由の説明は一切なされなかった。

これにくらべてわが国の場合は、申請不採択の理由は申請者が希望しなければ知らされることはない。そして申請者の希望に応じて送られう不採択理由書は、理由書などと呼べる代物ではなく、単なる審査員の寸言、あるいは「つぶやき」に過ぎない。
当初この理由書の本文は、縦横わずか数センチメートルの長方形の枠内に、あたかも俳句か川柳のような短い文句が並んでいるのみであった。筆者の米国の友人にこれを見せると、あきれ返って言葉もなかった。
さすがに最近は、少し本文の分量が多くなったが、それでも数行に過ぎず、本質的に「川柳もき」と変わらない。

ところで筆者は、米国から帰国後、当時親しかった文部省の学術助成課長に、米国並みの、研究者の立場に立った研究費申請審査体制を確立するように要望した。
しかし、「大勢の偉い先生を、全国各地から東京に呼び集めて審査を依頼するには、膨大な予算が必要なので」との理由で取り上げてもらえなかった。そして今でも、申請書(と、学問そのものをも)愚弄するかのような、「川柳もどき」の不採択理由書システムが続いている。

民主党政権のとき、事業仕分けというのがあった。テレビに政治家が出てきて、この事業はいらない、あの事業はいらない、と「パフォーマンス」をしていた、あれだ。私はあれを見ていて、異様な印象を受けた。まず、あまりにも審査の時間が短い。おそらく、あれらの政治家の決定は、ほとんど全て、官僚によって面従腹背で、裏切られたのではないだろうか。
そして、なによりもおかしいと思ったのは、彼らが、大学の予算や、国の研究所の予算にまで口出しを始めたことであろう。「二番じゃだめですか」が象徴していたように、あのテレビの前での「思い付き」パフォーマンスで、ばったばったと、大学予算を削減して、この国のアカデミズムを破壊的に壊すことに喜悦をしていたのかもしれない。
民主党事業仕分けをしたのは、なにも国民のためではない。政権発足からの官僚との対決姿勢を緩和するために、財務省に「おべか」を使うために、財務省が予算を削りたいと思っている、そのままを、

  • 国民の前で行う

ことで、財務省に気に入られようとしてやったわけであろう。事業仕分けで予算を削られた事業のほとんどは、財務省が昔からもくろんでいた、自らの権益のない場所だったわけで、まったく国民の関心とは関係なかったわけであろう。
そして、今、国立大学から、人文教養系の学部を廃止して、理工学系の学部だけにしようという画策は、少子化の未来に対して、少しでも優秀な人材を確保しようという、国家官僚が

  • 国民がどんな研究をやるべきか

に「介入」しようという、国民の生活に介入しようとする姿勢をよくあらわしているであろう。
上記の引用を見てみればいい。日本では、なんと、「ただ」の官僚が、国の知性である大学教授たちの研究内容を

  • 評価

するんだとさ。さて、こんな連中がそんなこと、できるんでしょうかね。できるわけがない。だから、ネイチャー誌なんていう、ただの商業誌を、意味不明な「高ポイント」で評価するという、アホ丸出しのセンター試験マークシート並みの、意味不明な序列付けしかできない。
そもそも、ただの官僚に学問の意味など分かるわけがないのだ。ありうるのは、ただ一つ。大学教授たち自身による、自分たちの「誇り」をかけた、同じ同業者に恥ずかしいところを見せられない、という動機から行われる、自治による、相互評価しか、ありえないわけである。
ある学者の業績は、同じ同業者だからこそ、まっとうな「評価」ができる。これ以外に、評価と呼べるような評価などあるわけがない。
もし日本を、まっとうが「学問」が生き延びられる空間にしたいなら、大学自治を最大限認めるしかない。この当たり前の結論に至れない限り、多くの国民は急速に大学に関心を失っていくであろう...。

論文捏造はなぜ起きたのか? (光文社新書)

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