井上芳保『つくられる病』

村上春樹の小説を読んだとき、ああいった「内面」を語ろうとするスタイルに対して、なにか気持ち悪い感覚を覚えたことがある。夏目漱石の「標準語」に非常に近い文体で、主人公という「僕(ぼく)」が、延々と

  • 自己を語る

というスタイルをとる。ここで語られるのは、果てしなく続く、「自分の内面」について、のポエムであり、エッセイである。自分はどう思ったから、どう感じたか、そして、次々と折り重ねられる「僕(ぼく)の思った」ことの、羅列。
なぜ、これが異様なのか?
それはまず、私たちが実際に「生きる」ということが、こういった「物語」の形態をとらないからである。むしろ、私たちの生は、

  • 事件

のように進む。一種の「ニュース」のような存在形態をとる。なぜだか分からなく、突然、私は走りだし、なぜだかわからないが、突然、私は他人の意志に「従おう」とする。この場合、はっきりと言えることは、「内面」の非存在である。
内面とは、一種の「哲学」が、

  • 要請

した、スタイルにすぎない。柄谷行人はそれを、『近代日本文学の起源』において、ネーション=ステートの起源であり、つまりは、言文一致運動に見出したわけであるが、むしろ多くの人は、そういった「起源」を忘れているし、そのことが、さまざまな現代社会の「生きにくさ」を結果している(こういった意味からも、柄谷さんは最初から、哲学の「自明性」と戦っていた、と言うことができるのかもしれない)。
例えば、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』を、一種の資本主義批判として読んだとき、むしろ、私たちがこの「内面」なるものを仮構し、さまざまな「饒舌」を繰り返している理由を、

  • 資本主義が強いる

なにかとして考えることができるわけである。むしろ、逆なのだ。哲学は、資本主義を「前提」にするのだ。哲学的饒舌は、資本主義的な「前提」の上に構築される。資本主義の方が、哲学に「先行する」というわけである。
マルクスが強調したように、私たち資本主義的存在は、「いつも言っている」ことに

  • 反して

振る舞っている(私たちは「知らないが、そう行う」)。そして、そのことの矛盾に気付かない。それは、世の中のなにもかもが矛盾しているからではなく、私たちという人格や「内面」に

  • 先行

して、資本主義的「構造」があるからであって、このことをニーチェは遠近法的倒錯と言った。つまり、私たちは、その人が「何を語っているのか」ではなく、「なにをしているのか」に注目しなければならない。一見すると、なにかを語るその「内容」には、深淵な神秘があるように思われる。しかし、ネズミ講の講師が、怪しげな

  • 計算

を何時間も行って、被サギ者をだまくらかすように、語られる内容は、最初から

  • その目的

が疑わしいのだ(資本主義で「汚染」されている)。ところが、逆に、「行動」は、完全に「その人」そのものを表す。誠実な人ほど、多くを語らず、誠実に約束を果そうとするのは、そういった意味があるわけである。

患者の抱える苦痛ないしは不具合の一切について、医療技術を介して依存されるというのもしんどい話だ。生きていればさまざまな苦痛、しんどさ、不愉快、不都合があり、人生の果てに死があるのはごく自明なことなのに、その解決手段として医療に過剰な期待が寄せられている。過剰な医療化の弊害は、あなどれない規模になっている。

私が「自分の幸せ」を語る連中を「信用しない」のは、こういう理由である。むしろ、生きることは「つらい」ことなのであって、そうでないということは、なにかが「おかしい」と考えるべきなのだ。人間の体は「つらい」ことに耐えるようにできている。なぜなら、つらいことがあることは「普通」のことだからだ。むしろ「苦痛」が、私たちを

  • 人間

にする。苦しんでいるから、人間だ、というわけである。
医療とは、なんだろうか? 医療とは、人の身体「そのもの」に介入することで、

  • その人「そのもの」を変えてしまう

ことを目指す運動だと言えるであろう。そして、そのときに使われるのが「薬(くすり)」である。薬とは何か。薬は、基本的に人間が生きていく間、わざわざ「摂取」しないものである。なぜなら、もし摂取するなら、それは「食事」と呼ばれるわけであるし、なぜ普段は摂取しないかと言えば、基本的には「毒(どく)」だから、であろう。
そして、近年さかんに生産されるようになったものが、「自然界にない」物質である。人工的に、研究室の試験管の中で生産された、その悪魔の物質は、本質的に、人間やこの地球環境にどういった影響を与えるのかが「分かっていない」毒である。まったくの経験則をもっていない、異次元の毒である。
まず、よく考えてみよう。こんな悪魔が異次元の世界からもってきたものを体に入れて、本当に「健康」になると思っているんだろうか。よくよく考えて、摂取するかどうかを考えるべきであろう。

社会不安障害(SAD)」なる病名を昨今、耳にする。少し前には赤面症と言われていた。内気で引っ込み思案なために、社交的な場面で上がってしまうというものだ。赤面のほか、たとえば、緊張して手や声が震える、汗が出る、あるいは男だと公衆トイレで立ち小便ができない等々の不都合が置きるとされる。これらで悩む人たちが「社会不安障害」者というわけだ。

性格的なことまで病気とされ、治療対象にされていく。これを「医療化」という。性格的に内気でも別にいいではないかと思うのだが、常にポジティブ、アクティブであるべきとされる社会では、そうもいかないのだろうか。アメリカのみではなく、日本を筆頭にアメリカの影響をとても受けやすい国々で「社会不安障害」者は増え、薬の売り上げは伸びている。

これを、フレームアップとか、「対象化」と呼ぶ。哲学は必ず、なにか「問題」を見つけずにはいられない。つまり、なにかを「対象」化せずにいられない。つまり、だれかを指差して、「お前は間違っている」と言わずにいられない。これを、デカルト的分割と呼んだわけである。
しかし、なぜそう「しなければならない」のかは、少しも自明ではない。なぜ、そこに「線(せん)」を引くのか。なぜ

  • そこ

なのか、その「恣意性」が、ここでは問われているわけである。ここには、ある「選択」

  • 以前の選択

つまり、資本主義の構造が、このようなフレームが成立させることに結果させた、その「選択」が問われている。それは、つまりは私たちの諸前提がすでに、私たちがこのようにあることを決定していた、ということになる。
ただの「内気」な人を「病気」と呼ぶということは、内気な人を、

  • 狂っている

と言い、社会から「隔離」することを求める。映画「ホットロード」を見ていて、非常に考えさせられたことは、彼ら、不良の「暴力」であり、彼らの「口の悪さ」であり、その全てが、たんに「悪(あく)」と呼ぶことのできない「構造」だったのではないだろうか。つまり、むしろそういった特徴は、彼らの「純粋」さを意味する形で、表象されている。
エリート大学に入り、まるで、村上春樹のように、自分を「僕(ぼく)」と語り、まるで学校の先生に褒められるような、模範的な標準語、東京語で、お坊ちゃんのように、行儀よく語る、彼ら「エリート」たちは、むしろ、たんに口が汚くない「だけ」で、むしろ、こういった連中こそ、社会のシステムを差別的に「作り変え」、社会を破壊する

  • 本当のヤクザ

なのだ。インテリこそ、本当の意味において、「怖い」ヤクザなのだ。
まったく激昂しない。いつも、模範的な「良い」人のように、何の感情の揺れもなく、標準語で語るエリートは、まるで「機械」である。嫌なことや、疲れているとき、ついカッとなって、汚い言葉で悪態をついてしまうのは、彼ら「不良」にとっては、あまりに自然なことであり、人間であるなら、当然の、自然な反応であるわけである。
むしろ、そんなときまでさえ、お坊ちゃま標準語で「たんたん」と語っている奴がいたら、むしろ、そんな奴こそ「怖く」ならないか。ナチスアイヒマンがそうであったように、眉毛一つ動かさず、恐るべき非人道的な行為をやり尽すわけであり、そういう意味で

  • インテリこそ、人類最強の「悪魔(あくま)」

だというわけである。
映画「ホットロード」が描いた世界は、むしろ、不良が最も「純粋」であり、「優しい」わけである。不良が不良であらねばならなかったのには、それなりの「理由」があったのであり、彼らの「暴力」は、彼らの「純粋」さの象徴なのだ。つまり、これを彼らの視点で考えたとき、話はまったくの逆になるわけである。彼ら「不良」は、常にそういった「常識人」たちが怖いのだ。いつ「差別」されるか分からず、いつも怯えている。理不尽な社会の荒波に、無理難題を押し付けてくるのは、そういったエリートたちの方であると彼らには受けとられている。つまりは、社会が唯一、「健全」さを保つための必要条件は、

  • 社会は、こういった「不良」たちに、どこまで「優しく」できるか?

に賭かっている、というわけである。

穿った見方をすると、警察は事件を欲しているのではとさえ思われてくる。むろん個々の警察官には日々誠実に職務にあたっている真面目な方が多いおだろうが、視点を変えると別の事情も見えてくる。たとえば、事件の発生件数が少なくなると組織の縮小や人員削減もありうるとしたら、職域の権益を確保しようとする動きがどうしても出てくるだろう。

後で具体例を取り上げるが、事例二のように、子どもが精神科で薬漬けにされていく実態にも目に余るものがある。その子を取り巻く日常的な関係性を変えていくのではなく、その子の脳内に化学的に働きかける薬物という方法が選ばれている。問題を医療化していく動きは急であり、子どもたちがその犠牲になっている。

あらゆるものは「資本主義化」されている。どんな言説も、それが「売れる」から、商品として売られる。お金儲けになるなら、どんな「差異」も「差異化」される。なぜなら、そうすれば「売れる」からだ。つまり話は逆なのである。「売れる」から、差異が「作られる」。資本主義が、差異でないものを差として「でっちあげる」。
これが、資本の運動が「宗教」に似ていると言われる理由、だというわけである。宗教は言わば、俗世における「価値」の反転を目指す。そのために、俗世に生きる人たちが「もっていない」

  • 概念

によって、「別」の差異を対置する。警察という警備組織の今の体制の規模の「正当性」がなければ、縮小・廃止の方向にされ、自分たちの資本主義的な動機を達成できないなら、人々に「警察が必要」と思わせるような、問題が

  • ある

ということを「発見」させなければならない。精神医療は薬を売れば儲かる。しかし、その薬を売るためには、つまりは患者に「その薬を飲まなきゃだめですよ」と「説得」に成功しなければならない。つまり、患者が「存在」する前に、その薬を売る資本主義的な動機が先行する。むしろ、患者は「そのため」に生み出されるわけである。
この世界には、「問題」はない。このままでいい、と言うと、「商品」が売れない。つまり、

  • だから、この世界は変えなければいけない

を連呼するようになる。あれがダメ、これがダメ。変えなきゃダメ。だから、うちのこの商品を買って。しかし、そもそも、そのダメ出しが「余計なお世話」であることに気付かない。なにかがこうでなければならないと言うとき、一体、そのよって立つ場所はどこなのか? どうしてそのように言い切れるのか。つまり、そのフレームアップは「過剰」なのではないか、と問うことができるだろう。
このように考えてみよう。アメリカにおけるゲーテッド・コミュニティにおいて、お金持ちの富裕層が、貧乏人たちの犯罪を怖がり、「その考え」に共感する富裕層だけで、厳重に人の出入りを制限された「村(むら)」を作るとき、むしろ、彼ら

  • 自体

が、非常に考えが偏っていて「怖い」存在であると回りから見られていることに気付かない。お金のない人が自分の居住する回りにいてほしくないと考えるような人は、言うまでもなく、これだけに留まらないわけで、一事が万事、この理屈なわけで、自分に危害を加える可能性を考えて「不安」になっては、同じような理屈で「ヒステリック」になって、町民差別を始まる。むしろ、多くの人は

  • こういった人が私たちの回りにいてほしくない

と考えるわけである。つまり、話は逆なのだ。こういったゲーテッド・コミュニティのようなところに住みたいと思う人は、むしろ、こういった村に、ある意味において、「隔離」されるべき、と多くの人々は考え始めるわけである。
多くの人は、イタリアには精神病院がないと言われると驚く。そんな病院のない社会など、前近代的ではないか、と。しかしこれは、上記のドゥルーズガタリの運動とも関係している。

なぜ、病院をなくしたのかとの疑問は当然出てこよう。簡単に言えば、病院という環境は、精神病の治療には向かないからだ。この改革でなされたのは「脱施設化」ではなく「脱制度化」だ。制度は人と人との関係性のあり方を規定する。施設とは制度が空間的に実現された形である。としたら、肝心なのは制度を変えることだ。単に患者を病院という施設の外に出したのではなく、医師らスタッフも一緒に病院という制度の外に出たのだ。
医療側と患者側という固定的な関係性をなくした。医療の特別視をやめ、それを食事をしたり、映画を観たりするのと同じ、生活の一部という位置づけにまで低めた。イタリアの改革は、医師たちが文字通りの意味で「降りていく」選択をした改革であった。
現在、イタリアの精神病患者は、治療やケアを地域ごとに設けられた精神衛生センターで受けている。調子が悪い場合に一時的にそこに滞在するが、回復した地域での普通の生活に戻る。「イタリアでは精神病院廃絶後、精神病患者が困り、他国に出かけている」との情報を流している日本の精神医療関係者がいるが、危機感に発してのデマと思われる。

必要なのは病院という枠組の解体である。病院の中に居続けて慣れてしまえば、たとえ非人間的な扱いであったとしても、それが普通に感じられ、抵抗したいと思わなくなっていく。アウシュビッツの収容所の中の人たちの場合でも同じだった。
病院では世話をするスタッフが多くいるから、患者は自分の頭で考えなくても生きていける。むしろその安楽な環境を奪われたくないと感じて、医療化批判に抵抗するかもしれない。自分の拠り所が病気や医療しかない場合、それらを批判的に語る人が敵にみえてしまうのだろう。たとえば、過剰医療の弊害を批判し「擬態うつ病」を問題視する私に対して、異常なほどの敵意を抱いた患者たちが実際にいたのだった。

医者が患者を囲い込むように、資本主義は商品によって購買者を囲い込む。資本主義は購買者に、なんらかの

  • 正常「でない」

というメッセージを、刷り込む。マインド・コントロールである。ゲーテッド・コミュニティもその一種だと考えられるだろう。浮世離れしたお金持ちは、大衆が怖くなる。だったら、回りに大衆が一切寄りつけない、ゲーテッド・コミュニティの中で、一生、自分が信用できる使用人によって、一切の身の回りの「世話」をしてもらっていれば、何不自由なく、「なんの悩み」もない

  • 幸せ

な毎日が送れる、というわけであろう。どうぞ、幸せになりたい人たちよ。勝手に幸せになってくれ。しかし、それは言い方を変えれば、

  • 精神病棟

の中で、何の不自由もなく、看護師さんたちに、身の回りをお世話をされているのと、なんの違いがある、というわけであろうか。
私たちは、つくづく、なにかを「異常」だと叫ぶ人に注意がいる、というわけである...。