A・R・ホックシールド『管理される心』

労働者は、賃金を受けとることによって、仕事をする。つまり、命令に従う。しかしこの場合、たんにその「行為」にのみ注目するのは正しくない、と掲題の著者は指摘する。つまり、この場合に、

  • 何を売っているのか?

について、もう少し、踏み込んで考える必要がある、と言う。

飛行機の乗客は笑わないことを選択できるが、客室乗務員は笑わなくてはならない。それだけでなくその笑顔の後ろにあるある種の温かさのようなものを醸し出すよう努めなくてはならない。

サービス業、接客業の仕事、例えば、飛行機のスチュワーデスであれば、お客がどんな横柄な態度のときも、常に「笑顔」で、お客に不快な思いをさせないことを「強いられる」。この状況の逆のケースを考えるなら、借金の取り立てを行う仕事では、今すぐ借金を返さないと、後々面倒だと、相手に思わせるような、多少恫喝的な脅しが、あまりやり過ぎない範囲で、要求される。
もちろん、「そのため」に、高額のお金を給料としてもらっていると考えることもできる。また、そういった行為を、単純に「非人間的」な範囲のものと決めつけることは、正しくないとも言えるのであろう。言うまでもなく、他人に奉仕することは、もしそれが必要な範囲と思えるなら、十分にボランタリーなことであるし、もともと、そういったことに、あまり心の抵抗を感じることなく行える人は、それなりにいるだろうとも思える(つまり、比較的、純粋な傾向をもった人という意味で)。
しかし、普通に考えるなら、無理矢理、保険に入ってもらおうと勧誘したり、接客業で、今まで会ったこともない人に、よく分からない、満面の「笑顔」を向けるというのは、どこか

  • 不自然

なんじゃないのか、という疑問は、むしろ「当然」のことに思われるわけである。

自発性に対する祝福の増大と、ロボットのようであることへのジョークの双方が示唆しているのは、感情の領域はオーウェルが予言した「1984年」がすでに密かにやってきており、そのなかで笑いや、おそらく私的な感情の発散といった観念は過去のものになりつつあるのかもしれない、ということである。

こういった問題をどのように考えたらいいのだろうか。言うまでもなく、その他の仕事においても、仕事の依頼主との「感情」的な駆け引きが発生するわけで、その範囲においては、まったく同じような上記のような、「過剰な笑顔」や「無感動」といった

  • 感情の技術

が使われていることは間違いない。そもそもお金をもらうのだから、その「命令」に従う範囲において、なんらかの「強制」的傾向が見られることは自然なことであろう。しかし、その強制が

  • (なんらかの意味での)限度を超えたとき

話は違ってくる。あまりにも過剰なセクハラが蔓延する職場に、どうして未来永劫、強制されなければならないなどという不条理があろうか。つまりは、人にはだれでも、職業の選択の自由があり、その範囲で、多くの人は行動しているので、多くの場合、上記のような「感情の過剰な管理」を、それほどまで問題だと考えることがないわけである。

実際、あらゆる感情はシグナル機能を持っている。すべての感情が危険を合図するわけではないが、すべての感情は他者を見るがごとく自分の状態を教えてくれる。それは私たちが何かを理解しようとしているときに利用する、しばしば無意識の見方を知らせてくれる。感情はそのような、人の内部にある見方を知らせる。したがって、感情を変えるための技術に介入すること----乗務員にかかるストレスを防ぎ、乗客をより快適にするために----は、感情が持つシグナル機能に介入することである。

感情は観察者の立っている位置を示す。それは、普段は意識していないような視点や比較の仕方を明るみに出す。「あなたは背が高く見えます」というのは、「私が床に横たわっているこの場所からはあなたは背が高く見えます」という意味かもしれない。「すごいですね」というのは、「自分がやっていることや自分がやれると思っていることに比べて、彼は畏怖に値する」という意味かもしれない。

ある人の、ある感情は、その人が「どう思っているのか」をあらわす。こう言うと当たり前のことを言っているように思われるが、上記にあるように、たんに、その感情が「指示」しているものに対する、一対一の何か、というだけでなく、その人が、普段考えている

  • (相対的な)場所を

示唆するわけである。つまり、普段どんなふうに世間を、その人が見ているのか。どういった考え方をしがちなのか、といったことを。

私たちは誰でも、多少とも演技をしている。しかし演技の仕方は二通りあるようだ。自分の外見を変えようとするのが第一の方法である。アーヴィング・ゴフマンが観察した人々にとってのように、そうした行為は、ボディランゲージや作り笑いや気取って肩をすくめるしぐさ、計算されたため息等のなかにある。これは表層演技(surface acting)である。もう一つの方法は深層演技(deep acting)である。この場合の表現は感情の働きの自然な結果である。行為者は、幸せそうにあるいは悲しそうに<見えるよう>に努力するのではなく、むしろロシアの演出家コンスタンティンスタニスラフスキー(Constantin Stanislavski)が熱心に主張したように、自己誘発した感情を自発的に表現するのである。スタニスラフスキーはそれを自分の経験をもとに例示した。

ある夜、友人宅のパーティで私たちはいろいろな度胸試しをしていたが、みんながふざけて私に手術をしようということになった。テーブルが運び込まれたが一つは手術用、もう一つは手術用の道具を載せておくものと考えられた。シーツが広げられ、包帯や洗面器やいろいろな容器が用意された。
「外科医」は白いコートを着て、私は病院のガウンを着た。彼らは私を手術台の上に寝かせ、私の目に目隠しの包帯をした。私は、医者の極端に几帳面な作法に当惑した。彼らは私がまるで絶望的な状態にあるように私を扱い、あらゆることを最大限に深刻に行った。突然、ある考えが私の心のなかでひらめいた。「みんあがほんとうに私の体を切り開いたらどうしよう!?」
ときおり、大きな洗面器が葬式の鐘の音のようにゴーンという雑音を響かせていた。
「始めよう!」誰かがささやいた。
誰かが私の右手首をしっかりと押さえた。私は鈍い痛みを覚え、それから突き刺すような鋭い痛みを三回感じた。震えずにはいられなかった。何かざらざらでひりひりするものが手首にこすりつけられた。れから包帯が巻かれ、みんなが外科医に道具を手渡す音がした。
長い沈黙の後、ついに彼らは大声で話し始め、笑って私を祝福した。目の包帯がはずされると、私の左腕の上には、私の右手をガーゼでくるんで作った生まれたての赤ん坊が横たわっていた。私の手の甲に、無邪気な赤ん坊の顔が描かれていた。

この「患者」は、「手術」を怖がっている振りをしているのではない。他の人たちをだまそうとしているのでもない。彼はほんとうに怯えているのだ。深層演技を通して、彼は自分自身を怯えるようにしむけていたのである。深層演技でも表層演技でも、感情は内発的に、あるいは自動的に発生するのではない。どちらの場合でも、演技者が、感情内部の具体的な形を作り上げるか、感情の外見的な様相に形を与えるかしてそこに介入しており、演技者はそのやり方を身につけているのである。

ここで問題にしていることは、言わば、「感情の管理」とでも呼ばれる事態であった。つまり、感情の「演技」のことを言っていたわけである。掲題の著者は、それには二つの種類がある、として上記の例を示す。しかし、よく考えてみると、この二番目を、本当に「演技」と呼んでいいのか、という疑問がわいてくる。つまり、たとえこれが「演技」の

に存在していたとしても、これをたんなる演技と呼ぶには、あまりに「リアル」な感情であるわけである。実際に、自分は「怯えた」ことは間違いないわけで、果してこれの、どこまでが「計算」だったのかは疑わしい。
この事情は、どこか、カントの「崇高」の概念を思い出させる。カントが崇高と呼ぶ場合、それは「美」とは区別されている。というのは、崇高には、例えば、地震津波のように、自分がその対象をどんなにがんばっても「克服できない」、超越的な恐しさがある、と言うわけである。しかし、崇高はたんにそれだけでは不十分だと言う。つまり、少なくとも今は、この地震津波の恐怖から離れた場所にいあるように、なんらかの「安心」が関係している、と言ったわけである。
津波地震の直後に、自分の親族が亡くなった人にとって、それらを「崇高」とは呼ばない。つまり、それらの「当事者」にとっては、今はそれどころではなく、これらと「戦っている」最中なわけて、そんなふうに「対象化」している場合じゃないわけである。
大事な人を亡くした人が、その直後に、多くの場合、その事実を、うまく「感情」にできないのは、あまりにも当事者であり、身近な事態なので、まだ、この事実の戦場の真っ只中で、抗っている最中だから、と言えるだろう。時間が経って、少しずつ、過去の自分を対象化できるようになって、始めて、それを「感情」に対置できるようになる。というわけである。

社会的役割----例えば花嫁や妻や母親の役割----は、ある意味では人々が他者との間にどのような感情の貸し借りがあると考えているのかを記述する一つの方法である、役割は、ある一連の出来事にはどんな感情が適切だと思われるかについての基本線を規定している。役割が変わると、出来事に対する感じ方や解釈の仕方に関する規則も変わる。離婚率の上昇、再婚率の上昇、出生率の低下、働く女性の増加、そして同性愛の大幅な正当化は、役割変化の客観的な兆候である。女性が家庭の外で働くとき、妻<とは>何であるのか? 他人が子どもの世話をするとき、親<とは>何であるのか? そしてそのとき、子ども<とは>何であるのか? 結婚がだやすく解消されるとき、恋人<とは>何であり、友達<とは>何であるのか? 私たちは、自分の感情がある状況に対してどの程度適切であるかを、文化的に利用可能なすべての基準のなかのどの基準に基づいて査定しているのだろうか? 急速な変化の時代が地位の不安定化を招くとすれば、それは最終的に感情規則とな何かということの不安定化にもつながる。

感情は先ほども言ったように、「そう思ってもいいのか」という、自分への「許容」にも関係している。この場合、自分にそれを許すのは、自分がもっている「常識」である。自分が世間が「こうなっている」と思うから、相手の行為を、それと比べて、理不尽と判断したり、「妥当」だとして、理解したりを繰り返す。感情は、この「規範的」な何かとの、相互作用に関係している。しかし、これらの社会規範のようなものは、時代と共に、少しずつ変容している。
こういった社会規範の変化を「本質的」なものと考えるとき、私たちの感情もそれに伴い、さまざまな変化をまぬがれないという考えを受容することを強いられていると受けとられる。逆に、こういったことは本質的な人間関係を変えるところまでは行かないと考えるとき、私たちは、どこか保守的なマインドになっていると言えるだろう。
上記で、考察することを示唆している、「親」「子ども」「妻」「恋人」「友達」といった概念は、あまりにも、普段、当たり前に使っているが、よく考えてみると、これらに「定義」などあるわけがない。なんらかの相対的な人間関係を区別するのに使っているにすぎず、むしろ、私達自身が、日々の生活の中で、「再定義」していると言えないこともないわけである。

皮肉とはこのように、物事に対する様々な見方を使った遊びで構成される----最初は僕の、今度は君の、次は会社の、というように。それは人間関係のジャズである。即興的な音楽のようにものの見方を使ってプレーするためには、他者を根本的に理解し、折にふれて認めなくてはならない。ユーモアや皮肉が、しばしば知り合ってから時間がたった段階までとっておかれるのは、いっしょに遊べるほどの深い絆が存在することをそれが確証づけるからである。

上記で問題にしていたのは、例えば、接待業のような仕事において、常に笑顔でいることのような、ある意味において、「感情を売っている」とさえ言えることの非人間性の問題であった。しかし、そういった問題はあるにしても、多くの場合、私たちは、それほど、こういった問題に悩んではいない。例えば、行きつけの店で、顔馴染みになれば、そこには、なんらかの

  • ハイコンテクスト性

が生まれてくる。この場合、むしろ、お客の方が、そういった営業スマイルを嫌がるかもしれない。もっと「本音」の何かを求めて、こういった店に通うようになる、とも言えるからだ。よく考えてみれば、そういった「営業スマイル」を強いられるような仕事を、本当の意味で続けられるだろうか。そんなことが楽しいだろうか。もっと言えば、そんなサービスが本当に、お客は「うれしい」だろうか。上記の最後の引用はそのことを、

  • 長期的な関係

において、いわゆる「ジャズ」の即興のような、ユーモアや皮肉の、シニカルなぶつけ合いの「連続」において考察している。どんな人間関係においても、そういった「ハイコンテクスト」性を見出せない限り、長くは続かないわけで、それが、「1984年」的世界に対する、私たちの「抵抗」手段でもあったわけであろう...。

管理される心―感情が商品になるとき

管理される心―感情が商品になるとき