ナショナリズムについての素朴な疑問

嫌韓という言葉が人口に膾炙して久しいが、韓国における「反日」に対して、日本の「嫌い」という言葉のなんとも、オブラートに包まれたその表現が、まあ、なにかを表現しているのであろう。
「反対」と言うには、そこまでは大きな問題だと思っているのかと言われると躊躇するし、むしろ、そこまでの「関心」もないのだが、しいて、どちらかと言われれば「好きではない」となることを意味するこの「嫌韓」なる表現が、むしろ、そうであるからこそ、在特会などの一部の右翼的な活動に対して、一縷の「市民権」を与えているかのように受けとられる「隙」を与えているのではないか、という疑いをもたれるわけなのだろう。
リベラル側からは非常に評判の悪い、「マンガ嫌韓流」の最初を見ると、ちょうど、日韓ワールドカップについての記述から始まる。しかし、その内容は、ようするに、韓国に有利な不公平にレフリーが振る舞った、もっと言ってしまえば

  • 買収

されていたのであろう、という「陰謀論」の形をとる。しかし、この陰謀論は、事実、FIFA自体が後日、それを公式史料として「10大誤審」として、その試合を「登録」してしまったことで、その裏付けが「公式」に与えられてしまった、という形式になっているところがポイントなわけである(六位、七位、イタリア戦。八位、九位、スペイン戦)。
なぜ、この問題が、わざわざここで、むしかえされているのか。それは、つまりは当時の「リベラル」勢力、もっと具体的に言えば大手マスコミが「日韓友好」を、

  • 優先

させたため、こういった韓国チームにおいて、問題視されていたレフリー問題を、マスコミが徹底して無視したのではないか、という疑惑を、特に、サッカーに詳しいサポーターほど、不信感を抱いた、ということらしい。
もちろん、そういった「疑惑」が、まったくのデマであり、考える余地のないことなら、こういったリベラル勢力の態度も、それほどの反発をまねかなかったであろう。しかし、こうやって何年か後には、FIFA自身が「ひどい誤審」と認めるほどのことと公式に認めるほどにまでなり、しかも、そもそも、例えば、この事実は、当時からFIFAは非常に問題視していて、なんと、準決勝のドイツ戦は、わざわざ、ヨーロッパから、まったく買収されている可能性のないレフリーを新たに緊急で呼んで試合が行われたほどだったという状況証拠もそろっていた、ということまで分かってきて、むしろ、そうまでして、マスコミはなぜ、まるで

をしていたのではないかと、今から考えれば思われるほどに、韓国側のネガティブ情報を無視して、友好ムードだけを演出しようとしたのか、と疑われるわけである。
もちろん、そういったことを、上記のマンガのように「陰謀論」として語っても、あまり建設的な意見はでてこないことは考えられる。このマンガでは、しつこいまでに、韓国選手のかなり一方的にラフプレーで、次々と相手選手を傷物にしていった、といったニュアンスで記述される。このことを、例えば、韓国選手の「徴兵逃れ」の延長で、どんな手段を使ってでも、徴兵を逃れて、選手生命を有効に使いたい、という動機が多少のラフプレーを行わせていたのいではないか、といった分析をしてみることもできるのかもしれない。しかし、むしろ大事なポイントは、その「レフリー」が、どこまで公平であったのか、といった所にあるわけであろう。
そもそも、なぜ日韓による共同開催という形になったのだろうか? 一体、だれが「そう」したのであろうか? 最初の頃の話では、日本開催の可能性が強く言われていた。あまり、その状況で韓国という話は強くは言われていなかった。それが、いつの間にか、「共同」でやる、ということになっていた。このことに、例えば、日本のJリーグのサポーターは、なにか、その「決定」のいきさつに、不信感を抱く。
このことは、例えば、今回のブラジルワールドカップでも、日本の合宿場所が、スポンサーのキリンビールの工場がある場所で、実際の試合会場の高温多湿の気候と正反対の、すずしく空気も乾燥している場所だったことで、南アフリカワールドカップにおいては、逆に、日本チームのコンディション調整で予選突破したのの反対のことが起きたのではないか、と、ネットなどでは分析されているが、驚くべきことに、日本代表関係者は、

  • 横並び

で、このことを「否定」する。まあ、ようするに「スポンサーに傷を付ける」ことは絶対に言えない。選手も言えない。つまり、このことは、日本の大手マスコミでは、

  • タブー

だというわけである。しかし、こんなことでいいのか、とは誰でも思うことであろう。一度あったことは、二度ある。なぜなら、まったく「反省」していないのだから。
おそらく、これと同じようなことを、日本代表を応援したサポーターは感じたのであろう。なぜ日韓の共同開催だったのか。そこには、なんらかの電通などを中心として展開された、「儲かる」といった広告戦略があったことが考えられる。これは、フジテレビバッシングにおいてもそうであったが、韓流ブームとして、一時期、韓流ドラマや韓国のアイドル歌手たちが、日本のテレビ番組で重宝されるようになった状況とも関係している。
小保方さんのSTAP細胞のときもそうであったが、なんというか、国をあげて「応援」ムードが醸成されるとき、

で「サポート」をお願いします、みたいなムードが全国的に醸成していこうという雰囲気ができていく過程で、なんらかのネガティブメッセージが生まれると、非常に大きなバッシングの動きに反転しがち、ということは言えるんじゃないかと思うんですね。
日韓ワールドカップも、日本の「作法」としては、まさに「おもてなし」文化そのもので、相手チームをリスペクトして、

  • 恥ずかしい

振舞いだけは絶対やらない、ということをだれもが心がける。ところが、そういった「文化」の薄い、自分たちの徴兵逃がれのことしか考えていない選手たちにとっては、たとえレフリーを買収してでも、ようするに勝ちゃ、徴兵されずに済むんだと、ということで、もはや、スポーツかどうかなんて、どうでもいい。そういう意味では、サッカーというスポーツと「徴兵された後、自分が軍人になる」という延長で考えるなら、まさにこのサッカー場が「戦場」と区別して考えられない、とも言えるわけであろう。そう考えれば、多少の「ラフプレー」がなんだ、と言いたくもなるのかもしれない。
しかし、そんな事情も分からない日本のサポーターからすれば、あれほどFIFAに、最低の誤審司会とレッテルされるような「恥ずかしい」振る舞いをされて、

  • 日本の主催の大会を、韓国に汚された

というイメージを感じた、という側面はあるわけであろう。そもそもの問題は、なぜ共催という形を受け入れたのか、ということなわけであろう。さまざまに文化が違っているのに、こうやって、トップダウンで「一緒にやれ」ということが、強制される。長い間の信頼関係から、共催という形に、底辺の交流から辿り着いたという形になっていたのなら、まだ、救いようがあったのかもしれないが、電通などの大手マスコミの深謀遠慮から、この二つをくっつければ儲かんじゃね、といった浅知恵で、つっぱしった、というわけであろう。
さて、話は変わるが。
ラノベ「人生」は、高校の第二新聞部の4人の女子高生、それぞれ、理系、文系、体育会系、芸術系とカテゴリーされたそれぞれが、学生からのさまざまな相談に答えながら、ストーリーが進められていくギャグ・アニメであるが、その中でも特に異才を放って、おもしろいのが、体育会系の鈴木いくみであろう。
その「おもしろ」さは、特に、アニメ第11話にあらわれている。理系、文系の答えは、いわば、「予想」できる内容だと言える。理系は、いわゆる「自然科学」的アプローチで、まあ、それなりに理科的「知識」を提供しているにすぎないし、文系は日本の戦国武将や中国の漢籍の「知識」に対応させて「知識」を披露する形になっており、これも、「おたく」的な感性ではおもしろくても、まあ、「予想を裏切る」ものではない。
他方、鈴木いくみは、「理屈じゃない」と言う。つまり、友達になるとか仲間になるとか、そういった倫理的な態度だけを常に語っているわけで、むしろ、彼女こそ、日本の「大衆」を代表している、と言えるであろう。

「理想論だな。たとえば電車の中で大きく股を広げて座っている人がいいたとして、それが超怖そうな人だったら、注意しないでしょ。いちいち注意していたら大怪我するよ。日本史上最高のプロレスラーとして名高いアントニオ猪木は『いつ、なんどき、誰の挑戦でも受ける』と言ったけど、それはちゃんとオファーをされて興業として成立する場合だけなのさ」
唐の太宗に対してアントニオ猪木......。
「それはまた別の話です。長いものに巻かれるって、要するに、不正や間違いを自らの保身のために見逃すこと、それを表現を変えてごまかしているだけじゃないですか」
「ごまかしなんかじゃないよ。そのものずばりだよ。保身に決まってるじゃないか!」
「言ってて恥ずかしくないのですか......」
「僕は自然体というかエコなんだよ。自分に優しい生き方だよ」
地球じゃなく、自分に優しいのか......。
「まあ、結局、その、長いものに巻かれる生き方も、失敗して、部がなくなっちゃったんだけどね。......君たちのせいだよ。君たちが邪魔しなけりゃ、いまごろ、分け前のおこめ券を換金して、コンテスト三位くらいの女子とサイパンっぽい島でバカンスくらいは」
浅野は自嘲するような薄笑いを浮かべながら言う。
「バカッ!」
突然いくみは立ち上がると、浅野の前に立ちふさがり、頬を激しく打った。
「インチキしたお金で遊んでなにが楽しいのさっ!」
怒りではなく哀れみの表情。叩かれるほうもつらいが、叩くほうだってつらい。そんな感情が伝わってくる気がする。
「そりゃ、どんな......」
「バカッ!」
いくみが浅野の頬を激しく打った。
「いや、まだ......お金は」
「バカッ!」
いくみが浅野の頬を激しく打った。
「ちょっ......だから」
「バカッ!」
いくみが浅野の頬を激しく打ち、リフティングしていたサッカーボールを投げつけた。ボールを顔面に受けてダウンする浅野。
「喰らえっ!」
いくみは倒れている浅野を大玉で轢いた!

いくみの「純粋」さは、いわば、彼女が第二新聞部のメンバーを「信頼」していることを意味する。彼女は自分の部活のメンバーが汚い、自分を裏切るようなことをしないと信じているから、あのように無邪気に振舞える。逆に、そうでない相手には、徹底して「不信」の感情をぶつけてくる。
上記の引用は、第一新聞部の浅野が、挑発的な発言で、第二新聞部を動揺させようと、からかいに来た場面だが、ここで、いくみは徹底して、浅野に対して、攻撃的であり、不信感を表明している。

理屈じゃないよ。卑怯者は嫌い!
人生 第5章 (ガガガ文庫)

「どうせまたインチキするくせに。インチキする人とはなんの勝負もしてやんないから」
人生 第5章 (ガガガ文庫)

体育会系は、理系や文系のように知識があるわけではない。しかし、彼らは体を動かすのには、自分なりに自身がある。スポーツとは、そういった自分なりに「うまく」体を動かせていることを示す場であるわけだが、しかしそれは、勝ちゃいい、ということとは受けとられていない。それは、

  • 同じルールでフェアに戦う

から、自分の能力の高さが示されるという形をとるわけで、自分が運動能力がないけど「ずる」して、まるでそうであるかのように見せかける、といったものとは一線を画するわけである。
そういう意味で言うと、理系や文系は、ようするに、「テストでいい点を取れば」いい、というわけで、つまりはそのためには、

  • どんな手段を使って

でも、点が一点でも上が、「勝者」といったような、ちょっと「ずるがしこい」ことが一見すると許容されているかのような価値観が醸成されやすい。
体育会系は、逆にそれほど、ペーパーテストの点数はとれないかもしれないけれども、

  • だからといって「ずる」はしない

といった、一種の「プライド」のようなものがあるわけである。これはどこか、ペーパーテストエリートに対蹠する形での

  • 大衆

の作法をあらわしている、と言えるのではないだろうか。
私は別に、今の在特会のような差別的なころにまで、一線を超えてしまった活動を、なにか擁護したいといった動機で書いているわけではない。そうではないが、今の嫌韓の動きが、日韓ワールドカップでの「マスコミ」の態度から始まっていたと指摘されている側面を考えるときに、いわゆる、エリートたちの

  • たかだか「スポーツ」

といったような「軽蔑」の、軽視する感覚を感じなくもないわけである。しょせんスポーツなんて、話す価値もない、といった態度は、多くの大衆が、あの日韓ワールドカップにコミットする過程で感じた違和感という「ルーツ」の問題を、すりぬけてしまっているんじゃないのか、と思わなくもない。
スポーツは、どうでもいい問題だろうか? むしろ、多くの知識人が、この日韓ワールドカップ問題について語ってこなかったことにこそ、大きなエリートと大衆の感覚の齟齬をもたらしているのではないか。まず、知識人は、この日韓ワールドカップ問題に対して、一定の見解を表明してみたらどうだろうか。
日本の多くのリベラルな知識人は、こと、日本人の「蛮行」には、ヒステリックに糾弾を始めるが、不思議なことに、それと「同じ」ことを、お隣りの韓国人が始めると、まるでそれが

  • タブー

ででもあるかのように、口を噤む。つまり、ダブルスタンダードなのだ。もちろん、上記の韓国チームに対する「レフリー」問題を、おそらく韓国の人たちは「自分たちの問題で日本には関係ない」と思っているわけであろう。これは韓国国内の問題で、内政干渉されたくない。と。
しかし、だとするなら、日韓共同開催なんてやめればよかったのだ、お互いが思ったことを言えないような関係なら、一緒にやらない方がいい。一緒にやるなら、なんでも胸筋を開いて話せる関係を目指さなければ嘘であろう。つまり、日本の大衆が言いたいことは、はっきりしているんじゃないだろうか。電通であり、日本サッカー協会であり、プロ選手であり、彼らの態度はどこか

  • 商業主義

的なのだ、売らんかなの延長で、さまざまなタブーを作っていて、そもそも、そういった「裏表」のある態度が、大衆には信用できないのであろう。たかだかスポーツであろうか。しょせん、スポーツなんだから、無視すればいい、ということになるのだろうか。私はむしろ、この、はるか昔の「日韓ワールドカップ」における、心を「こじらせている」ことが全ての始まりだとするなら、この出発点を

  • 正確

に「総括」することなしに、なんの先の一歩も始められないんじゃないのか、と思うんですけどね...。