韓国の「ラフプレイ」をどう考えるか?

私は、別に、はるか昔の日韓ワールドカップを今さらむしかえして、なにかの糾弾運動を始めたいわけではない。しかし、この問題について、なにも語られない、なにも振り返られないことに、なにか大きな違和感がどうしてもぬぐえないわけである。
そう考えて、この問題に言及しているものとして探してみると、やはり、前回、問題にした「マンガ嫌韓流」の直接の批判を目的として編集された、以下の本においてはさすがに、第一話のメインのこの話題を無視できなかったのか、一章をもうけて批判されている。

ただし、このランキングはあくまでもFIFAからライセンスを受けたDVD制作会社が作ったもので、FIFAがランキング作成に関与したわけではない。『マンガ嫌韓流』ではあたかもFIFAが作った公式史料のように記述されているが、いささかの誤解があるようだ。
とはいうものの、こうした判定をめぐるトラブルが続出したのは事実で、大会期間中にもかかわらず、FIFAは「ここまでの全試合の五パーセントの判定に議論の余地がある」(ブラッター会長)と、異例のコメントを発表せざるを得なかった。
なぜ、二〇〇二年W杯はこれほどまでに審判トラブルが多発したのだろうか?
多くのサッカージャーナリストが指摘するのは審判の水準低下である。この大会では国際マッチの経験が豊富とは言えない審判が数多く起用された。たとえば、予選リーグC組のコスタリカ - トルコ戦の主審を努めたFIFAランキング一〇〇位以下で、けっしてサッカーが盛んとはいえないベニンの審判だった。
こうした現象は大会直前に行なわれたFIFA会長選と関係しているというのが、もっぱらの見方である。
この時、ブラッター現会長を支持するスペインのビジャル審判委員長らが中米やアジアの票を取りまとめようと、本大会に出場していないサッカー途上国からも審判を起用する方針を打ち出した。そのため、国際経験の不足している審判による判定ミスが多発したと、サッカージャーナリストたちは考えているのである。
(姜誠「第一話 W杯サッカー史に新たなページを加えた日韓大会」)

(誤審ランキングが「公式」ではない、という意味はその通りであろうが、この批判は決定的な意味をもつのだろうか。この場合、一般的な「公式」という言葉の使われ方にも関係するのかもしれないが、このケースだって、まったくのひどい内容だったら、FIFAはその発表をさせなかったり、なんらかの見識を示した、くらいの関係ではあったと考えるなら、そういったものを「公式」と、かなり広い意味で言ったとも考えられるのかもしれないとは思うのだが、いずれにしろ、批判者自体があまりこの問題に深入りすることに興味がないようではあるわけで、ちょっと中途半端なところが気になりはする...。)
この章の著者がまず、その「反論」として取り出してくるのが、上記の引用の個所である。日韓ワールドカップは、そもそも、審判のレベルが低かった。事実、上記の誤審ランキングにおいて、この大会の決勝が第3位になっているくらいだ、と。
これは、ある意味において、いわゆる「陰謀論」に対する反論として提示されているのだと思われる。つまり、まるで「韓国だけ」がひどかった、といったような印象操作はやめるべきだ、といった意図として、最初に言及したかったのであろう。
しかし、この反論は成功しているのだろうか? むしろ、この大会のレフリーが「ひどかった」ことは認めているわけで、あまり「反論」ということで考えるなら、成功はしていないようにも思われる。

もし、韓国選手のラフプレイや一部サポーターの脱線ぶりを批判するのなら、その矛先はそれぞれの選手やサポーター個人に向かうべきである。
日本人が多様であるように、韓国人も多様な人びとから成り立っている。個人と民族は必ずしも同一のものとはかぎらないのだ。ましてや、人びとのアイデンティティは多様に重層化しており、ナショナルなアイデンティティだけが個人を支えているわけではない。
さらに言うなら、そのナショナルアイデンティティですら、複数の国家領域にまたがる越境的なものもあれば、中央志向でなく分権志向のものもあるというように、個人によって温度差がある。
そもそも、国家や民族にまつわる言説を扱う時、人は慎重でなくてはならない。国家や民族という価値は強大な権力やエネルギーをもち、個人を保護して幸せにすることもある反面、個人を抑圧し、蹂躙することも珍しくないからだ。
韓国チームに多発した誤審や韓国サポーターの行動を取り上げ、なんのためらいもなく「韓国人がW杯の歴史を汚した」と決めつけることができるのは、『マンガ嫌韓流』の作者が国家や民族、そして個人の諸関係を深く突きつめて考えたことがないからだろう。私だったらたとえ酒席のジョークでもそうしたセリフを吐けない。それが人びとを「われわれ」と「他者」に分断し、憎悪や対立を煽りかねないと恐れるからだ。
(姜誠「第一話 W杯サッカー史に新たなページを加えた日韓大会」)
『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ―まじめな反論 不毛な「嫌韓」「反日」に終止符を!対話と協力で平和を!!

ここは、確かに「一般論」としては、理解できなくもない。というか「当然」のことを言っている。問題行動を起こすのは常に、「個人」である。まあ、当たり前のことである。しかし、だとするならこれで「反論」になっているのであろうか?

二〇〇二年六月一四日、『マンガ嫌韓流』が「W杯の歴史を汚した」とやり玉にあげる三ゲームのひとつ、韓国 - ポルトガル戦を私は仁川(インチョン)スタジアムの一角で観戦していた。
たしかに、韓国のラフプレイは認めなくてはならない。だが、故意ではなかった。球際の強さ、運動量の豊富さ、そして何よりも勝利への執念という点で、韓国はポルトガルを上回っていた。ラフプレイはその現れにすぎない。ましてや、判定の正否については選手たちになんの関係もない。
とくに、当時、京都パープルサンガに所属していた朴智星パクチソン)が巧みなトラッピングから放った強烈なボレーシュートは美しかった。おそらく、この大会の決勝戦、ブラジル - ドイツ戦でロナウドが見せた無回転のトゥーキックシュートに並ぶ華麗なゴールだっただろう。
(姜誠「第一話 W杯サッカー史に新たなページを加えた日韓大会」)
『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ―まじめな反論 不毛な「嫌韓」「反日」に終止符を!対話と協力で平和を!!

上記の二つの引用で事実上認めているように、この反論の著者も、こと

  • 韓国チームのラフプレイ

の「事実」は認めているわけである。これが、私にはよく分からないのだ。つまり、この一章は、「反論」になっているのだろうか? マンガの作者は、基本的には、この「ラフプレイ」の事実の羅列をしているだけ、とも読める。つまり、

  • なぜ韓国チームは、ラフプレイをするのか?

という「疑問」から話をスタートさせている。それに対して、この「反論」は、そのラフプレイの事実は認めてしまっているのだ。どうも、私には、結局のところ、何が言いたいのかがよく分からなくなってくるわけである。
私が言おうとしている意味が分かるだろうか?
反論者はラフプレイの事実を認めている。しかし、それに対して、責められるべきは審判だ、と言っている。しかし、審判の質は、上記の理由から、この大会は最悪であった。これらの理由から、おそらく、反論者は

  • 韓国は悪くない

と言いたいのであろう。しかし、たとえそうであったとしても「この大会に問題があった」ことは認めているわけである。だとするなら、その時点で、だれが悪いと言うこと自体に、どれだけの意味があるのだろうか。この大会は日韓による共同開催となっている。そうである時点で、

  • この大会の失敗

は、日韓の両方が責められるべき話ではないのか。そういった事態であるにもかかわらず、

  • 韓国は悪くない

といった論理展開は、どこか異様な印象を受ける。
よく考えてほしい。
私がここで何を問題にしているのか、を。
私にとって大事なことは、日本の「大衆」が、嫌韓といった「感情」に流されやすい事実に対して、なんらかの「冷静」な議論が必要だ、という一線から考えている。だから、そのルーツとしての日韓ワールドカップに戻って考えようとしている。
普通に考えるなら、「韓国チームのラフプレイ」が、日本の大衆には、

  • おもてなし文化としての日本の大衆感情としては「恥かしい」

と受けとられる、ということを問題にしている。もちろん、韓国は日本ではない。よその国の人たちではあるが、こと日韓ワールドカップは「共催」であることから、こういった日本の大衆の感情が沸き起こることは、ある程度、当然なんじゃないか、と考えた。
それに対して、この作者は、その「ラフプレイ」自体を問題とする姿勢を一貫して示さない。つまり、どうも「恥ずかしい」と思っていないようなのだ。
もちろん、それは言い過ぎなのかもしれない。各選手一人一人に対しては、そういった感情を示すことは受け入れるのかもしれない。しかし、一貫してそれを「韓国チームの恥」とか「韓国の恥」とか「(共同開催を行っている)日韓の恥」として受け入れることを拒否する。

  • どうしてなのだろうか?

おそらく、それが、お互いの国の「文化」の違いなんじゃないのか、ということを上記のマンガの作者は、その出発点として言いたいわけであろう。だとするなら、なぜこのことに、この反論者は「答え」ないのだろうか?
どうも、この反論者にとって、こういった「感受性」の違いそのものは、たいした問題だと思われていないのかもしれない。この後、反論者の主張は、上記のマンガの主張を離れて、実際には、当時の日韓ワールドカップは、お互いの市民による、

  • 草の根の友好が「存在」した事実

の羅列を行うことで、「共催」にした「事実」が尊いのだ、といった持論を展開して終わる。確かにそれはそれで、そういった側面があっただろうことを否定するわけではないが、少なくとも、上記のマンガの作者の「意図」とは関係のない話だと言わざるをえない。
一言で言ってしまうなら、反論者は、一体、このマンガの「何」に反論したかったのか、そういった意図がこの文章から、どれだけ、

  • 日本の大衆

が読み取れると思っているのか、私には、そういった感覚が、どうも分からない、ということなのである。
日本と韓国の「友好」は非常に重要な問題である。だとすれば、どうすればいいのか?
次のように考えてみよう。
もし、次のワールドカップを、また、日韓共催で行うことになった、としよう。
また、韓国チームは「ラフプレイ」をするのか(言うまでもないが、どんなスポーツでも、ホームタウン・デシジョンというのがあり、自国に有利な判定が出やすい。自国のラフプレイが大目に見られやすい)? そうしたら、また、それは「選手のせい」にするのか? また、「審判のせい」にするのか?
もちろん、サッカーには「マリーシア」といって、ある種の「ずるがしこさ」を評価する文化があることを私が認めないわけではない。しかし、これは「共催」という形態をとるときの、相手国の「大衆」感情を、どこまで

  • おもんばかるのか

を問題にしているわけで、もう少し「デリケート」に、お互いの国の知識人は言葉を選ぶ必要があるんじゃないのか、と思うんですけれどね。どう思われただろうか?