入江君人『王女コクランと願いの悪魔』

この小説の主人公の王女コクランと、その王女の元におかれることになるランプの精としての、悪魔との関係は、この悪魔が、あくまでも、主人の「願い」に従属する存在であることによって成立している。悪魔は、主人が「願う」ことによって、その願いを叶えるという「契約」を介して、その主人の魂の契約との引き換えによって、その主人を「支配」していくような関係だと言えるであろう。
ところが、主人であるコクラン王女は、なんの「願い」も主張してこない。なぜか。それは。彼女が生きることに絶望していることを意味する。
王女の「孤独」は、その出生に関係している。彼女は、国王の、今は亡き妻の子どもでありながら、その妻の「不倫」の子どもであることが示唆される。つまり、今の国王との血の繋がりはない。ところが、継承順位の高い子息たちが次々と死んでいった関係で、彼女が後継順位で一位の地位になったことで、多くの、その地位を狙う勢力によって、煙たがれるようになる。
しかしそのことは、彼女にしてみれば、昔から分かっていた事実だと言える。いずれにしろ、「邪魔」になれば消される運命であることは分かっている。じゃあ、なぜ、今は生きているのか。それは、さまざまな権力の力のバランスの関係で、彼女が生きていてくれた方が助かる勢力が、

  • たまたま

存在するからにすぎない。しかし、たとえ、そういった「奇跡」的な状態が今、存在するとしても、そのバランスが崩れれば、いつ、自分の命が狙われても不思議ではない。
そのことを、彼女は自らが「飼う」鳥籠の小鳥に、投影する。
小鳥は「自由」を選ぶべきであろうか。しかし、たとえ「自由」を獲得したとしても、その後、生きていける保証はない。少なくとも、鳥籠の中にいる範囲では、だれかが、この鳥籠にいることを「邪魔」だと思い、殺しにくる間までは、この鳥籠に入れて生きさせようとした人は、その「慣性」によって、生きさせようとするわけで、その間は生き続けるということにはなる。
ここに「ない」ものは、なんだろうか?
それは、つまりは、「愛情」のようなものだと言えるだろう。
彼女が今、生きているのは、だれかが彼女を、愛情をもって育ててくれているからではない。彼女が今、生きているのは、さまざまな権力関係によって、「彼女がまだ生きていてくれた方が助かる」勢力がいるからにすぎない。しかし、この関係も、その力のバランスが変われば、途端に用済みになる。
彼女は、王宮で、一見すると、その権力を我が物にしているように見えながら、しょせんは、この微妙な力のバランスの中で、かろうじて、「サバイバル」しているにすぎない。
このことをもっとも分かっているのは、本人である。
彼女にないもの。それは、彼女を「愛してくれる」存在である。どんな条件もなしに、彼女を愛することを選んでくれる存在、言ってしまえば、彼女には、産みの父も産みの母も、今はこの世にはいない。かといって、すでに死んでしまっている二人が、生き返ってくれるわけではない。もう死んでしまった人は、どんなに願っても、帰ってくることはない。
彼女が求める「愛」は、もう、彼女の両親によって与えられることはない。だとするなら、だれによって与えられるのだろうか?
言うまでもないだろう。それ以外の、だれかから、と。
それは、単純に考えるなら、なぜ彼女が両親からの愛を疑わなかったのかと考えるなら、その両親と同じ「関係」となるものから与えられる何か、と考えられるだろう。つまり、彼女を愛してくれる相手だ、と。
王女の孤独は、言わば、権力者の孤独だとも言える。もしも、この権力者が、ある勢力の誰か個人に対して、極端な執着を示したとき、宮廷の権力のバランスが崩れる。つまりは、宮廷内での「内戦」のような状態に発展しかねない。よって、必然的に権力者は「中立」的な行動が求められる。これは、現在の日本の天皇が一切の政治的発言を制限されていることと比較できよう。
このことを彼女は、自らの恋愛に対しても延長する。彼女が愛した相手は、それゆえ、いつか殺される。それは彼女がいつか殺される運命であることと同型であると言えるだろう。
上記のような、王女の「孤独」を、たとえば、アニメ「エヴァンゲリオン」の綾波レイの「孤独」と、うがった読みの形によって比較できるだろうか。
綾波の場合、彼女は、シンジの母親、つまり、父の碇ゲンドウの妻、のクローンだということになっていた。ということは、どういうことか。このことは一見すると、父親の碇ゲンドウの「愛」の対象だと考えがちである。しかし、それは自明だろうか。彼が愛したのは、最初の女性である。では、その後のクローンを、どんな感情で考えたか。この関係はどこか、王女コクランと、血の繋がっていない彼女の父親の国王との関係に似ている、と言えないだろうか。
綾波は一見すると、碇ゲンドウとの「ファザコン」的な関係があるように思われる。しかし、この関係をどこまで彼女自身が「信じて」いたのかは、はなはだ疑問だと言えないこともない。王女コクランは、王宮の中に、自らの「親友」を作れる可能性を、上記の理由から、最初から、あきらめている。
碇ゲンドウ綾波をどう思っていただろうか。一見するとそれは、彼が最初に愛した女性と同じように見えながら、それはどこか「手段」的なものに変わっていく。そういう意味では、最初の関係と明らかに違っていったと言うべきであろう。この関係は、どこか、コクランと国王の関係に近い。むしろ、碇ゲンドウと最初の彼女の関係は、碇シンジ綾波の関係の方においてこそ、反復されていた、と言った方が正確だったはずである。
同じように、綾波は、シンジと同じ高校に通いながら、クラスのみんなと、決定的になじんでいない。この関係は、コクランが王宮の中で、だれ一人として、本当に心を許せる存在がいないことに比較できるだろう。
では、碇シンジは、掲題の物語における、願いの悪魔であるレクスの位置にあったのだろうか? どう考えてもそうは読めない。エヴァの世界の方はむしろ、途中から、シンジとアスカの物語に変わっている。おそらく、なんらかの「テーマ」が、別のところに移動した、ということなのであろう。
そういう意味では、作品のテーマからは、むしろ、この綾波の孤独といったようなものは、どこか「邪魔」になっていっている印象を受ける。そういう意味では、エヴァの世界では、むしろ、王女コクランが死んで

  • 別の王女

が主人公になっていった「世界」が、その後、描かれていったと考えることもできるのかもしれない。綾波がクローンであるということは、王女の「愛」の不可能性を示唆する形によって...。