作者に「殺される」ヒロイン

アニメ「四月は君の嘘」の原作の漫画の方は、結果としては、宮園かをりの死が結果することで終わったわけであるが、この作品が「いちご同盟」のオマージュとして作られたということで、ある程度この結果については、予想されていた、ということのようである。
昔から、こういった作品は、さまざまにヴァリエーションを変えて作られてきた、というところもあって、なんとも、もにょるところがあるが、その典型として、村上春樹ノルウェイの森だって、考えられるであろう。
ノルウェイの森の主人公は、大学時代を退廃とニヒリズムの時代として生きていた、その「悟り」の生活スタイルを、いわば、直子との「関係」によって、「疑われる」形で、作品は、一種の「ビルドゥングス・ロマン」、つまり、若者の「成長」として描かれる(それは、この作品がトーマスマンの「魔の山」を意識しているところにも、あらわれていたわけであるが)。
その主人公の「ニヒリズム」としての「悟り」は、いわば、直子という「他者」との関係において、さまざまに、その「ニヒリズム」的な「予期」が裏切られる形で、結果として、彼の中で「懐疑」へと変わるわけであるが、その「成長」が、直子の「死」として、その

として描かれるところが、じつに「内省的」で、うんざりさせられる。直子にせよ、宮園かをりにせよ、その「他者」としての差異は、彼女たちが、どこかしら、ターミナル・ケアを生きていることに関係しているわけで、そのライフ・スパンの「違い」が、大きな行動規範の違いとして示されているわけで、いわば、その「差異」が、事実性としてリアルに目の前に現れたことへの「驚き」のようなものを、何度も描くことが、ストーリーテラーたちの、一種の「定番」となっている、ということなのであろう。
しかし、こういった問題については、このブログでは何度も書いてきたこともあって、例えば、川田宇一郎さんの『女の子を殺さないために』は、まさに、今回の「四月は君の嘘」でも、ヒロインが死んで、才能のある主人公が

  • 成長

するという、この本が「戦っている」アジェンダを、あいかわらず「美談」として繰り返していいるという意味では、なんとも言えない「やっかい」ななにかが、ここにもある、という印象はぬぐえないわけである。この川田さんの本の指摘は、かなり本質的で、この「四月は君の嘘」でも、宮園かをりの「恋愛感情」について、まったく気付かない主人公という、テンプレが繰り返されるわけだが、こういった非対称な、どう考えても「ありえない」ような問題構成によって、物語が何度も作られてきたことを川田さんのこの本でも、問題にしているわけで、まあ、最近のラノベからなにから、こういった「構造」によって成立する、ある種の

  • (ありもしない主人公の)内面

の「破壊」として、つまり、ヒロインの「死」が、この「物語の終わり」として、言わば

  • 求められている

といった形式になっている、つまり、こういった物語の「構造」は、最初から「ヒロインの死」なくしては終わらないようになっている、とさえ言いたくなるような、テンプレ感があるわけである。

  • なんとなく、なにが問題なのかが分かってこないだろうか?

こういった作品に典型的に示されているのは、言わば、主人公の男の子の「悟り=ニヒリズム」という

  • 内面(=一種のキャラクター)

の、ある意味での「ホメオスタティックス」な安定した「殻(から)」のようなものの「仮構」の嘘くささが、この作品自体の

  • 力学

によって、<作者>に、この作品の「破壊」、つまり、ヒロインの「殺人」をさせずにおかない、という「構造」になっている、と言えるわけである。つまり、<作者>は自らの「精神の安定」を得るために、ヒロインを「殺す」。つまり、

  • 最初から、ヒロインを「殺したい」という作者の<欲望>

によって、こういった作品は書かれ続けている、とも言えるわけであるが、いい加減に、だれかが、こういった作品群への印籠を渡してあげた方がいいんじゃないのかと思うのだが、おそらくは、あいも変わらず、こういった作品が書かれ続けるのであろう...。