綾波レイのモノローグ

前回のブログで、柄谷さんの「文学」のホーリズム的な側面についての主張について書いたのだが、そのときに思い出したのがエヴァンゲリオンについての、素朴に感じていた違和感についてであった。
上記の柄谷さんの文脈において考えたとき、私は別に、テレビアニメのエヴァを、一定の見識のある人は見るべきだ、といったことを少しも思ったことがない。しかし、一点だけ、そういう人でも知っておくべきだ、と思ったことは、第14話における、綾波レイ

の件なのである。

NHKのドキュメンタリー風に、登場人物のモノローグが入るのも面白みがあります。シナリオの段階では当初13話の予定でしたが、「使徒、侵入」と順序が入れ替わり、14話となりました。
レイの詩的なモノローグですが、インタビューか何かで、宝島の精神病に関する特集本に掲載されていた精神病患者の書いた詩を読んでインスピレーションを与えられて、あの独白シーンが作られたそうです。後の第23話「涙」や、第25話「終わる世界」でも、同じ詩的なセリフで物語が綴られています。
97年当時、その宝島の本を神戸の中央図書館で見つけて読んだ記憶がありますが、確かにその中の女性が書いた詩は、惹きつけられるものがありました。「分かっていたわ」というタイトルだったと思います。精神科医レインの「好き好き大好き」という詩集も、エヴァに多大な影響を与えていますので、一読をお薦めします。
第拾四話 ゼーレ、魂の座 新世紀エヴァンゲリオンの感想

第14話の中盤において、綾波レイが独白するシーンが挟まれる。しかし、この、かなり長いシーンは、ここまでこのアニメを見てきた人には、かなり重要な印象を受ける。というのは、それまで、綾波自身の心理描写は徹底して、第三者からの視点による客観描写によって描かれるもので、ある意味において、始めて彼女自身の

  • 内面

がそこで描かれたからである。以前も書いたが、綾波レイは第5話での学校のクラスの水泳の授業でのシーンが象徴的なように、まったくクラスの他の生徒と対話をしない、ずっと授業中に教室の外を見ているような存在として描かれる。碇シンジの「違和感」は、いわば「そこ」から始まっている、と言っていい。つまり、碇シンジの「動機」は、綾波のこういった「他者」として、こちらに

  • 感情移入をしてこない

態度の「理由」への興味から始まる。しかし、碇シンジは、その後、何度か綾波と対話をやっていることはやっている。しかし、その時も、綾波の態度はあい変わらず、分かりにくい、ぶっきらぼうな態度なのであるが、しかし他方において、「みんな」という言葉を使って、クラスの仲間たちへの彼女なりの「関心」を示している態度が描かれていたりもする。
そうなってくると、問題は彼女の「内面」世界がどのようになっているのか、であったはずなのである。
一度整理をすると、まず、多くの人はリアルタイムでこのテレビアニメを見ていない。つまり、その後、レンタルなりで、「まとめて」一気にこのテレビアニメ版を見ている。そういった視点で見ると、綾波レイという、第6話までの重要人物は、その後のアスカの登場以降、後景に退き、なにか前半の一つのエピソードでしかない、といった印象に変わる。つまり、エヴァというのは

  • シンジとアスカの<恋愛>物語

なのだ、といったように読み込んでいくケースが多く思われるし、そういった人ほど、エヴァに執着している。しかし、だとするなら、なぜ最初からアスカを登場させていないのか、といった違和感が生まれる。そういった意味でいうと、前半の綾波レイの描かれ方は、この作品の

  • 躓きの石

だと思うわけである。もう一度整理をすると、第6話までにおける綾波レイの描かれ方は、この学校のクラスにおける「外部」として、不透過な「他者」として描かれている。しかし、第5話、第6話におけるシンジとレイの「物語」において、レイの問題は一応の「決着」がシンジの側からは着けられるような「物語」が描かれる。そして、それ以降、このエヴァという物語は、シンジとアスカの「恋愛物語」

  • だった

のだ、といった描かれ方をすることで、実際に、綾波はまさに「後景」に退いた描かれ方をしていく。つまり、シンジのアスカへの関心の場所の移動と、綾波に対しての「無関心」への変化が続いていくのと、「対照」的に、今度は、綾波の「内面」が描かれていった、ということなのである。
第14話における綾波のモノローグは、上記の引用にあるように、それまでの一般的な「物語」における「キャラ」のそれとは、どこか異質な、まさに柄谷さんが言うような「ホーリズム」的な「文学」の態度のような、突然、「異質な」舌触りの感じさせる「言葉」が続くわけであるが(どこか、サミュエル・ベケットの『モロイ』をさえ思い出させるような)、上記の引用にあるように、そういった印象を狙った制作側の戦略として、上記のような、「精神病患者」の書いた「文章」を、かなり意識していた、といった部分があるわけであろう。
ここで、もう一度、心理学という「分野」について考えてみたい。前回のブログにおいて、カント以降の「変化」の問題があったが、そういった近代における、文学(=想像力)への社会的認知であり承認への変化と一緒に、台頭してきたのが、この心理学であった。
しかし、ここで一つの疑問がうかんでくる。つまり、心理学は「科学」なのだろうか? これは、マルクス主義が科学と呼べるのかと同様に昔から言われている、人文科学の「科学」性を、どのように「証明」すべきなのか、といった問題にも繋がる。しかし、一つだけはっきり言えることは、これが科学なのかは知らないが「医学」であることは間違いない、ということである。
医学とは、工学(=テクノロジー)と同じように、つまりは、技術ということである。つまり、なんらかの社会的な需要に対応して考えられてきた存在意義があるわけで、簡単には無視できない、ということである。
具体的には、例えば、戦争神経症を考えてみるといい。戦場に行った軍人におけるPTSDは、映画「アメリカン・スナイパー」でも重要なテーマであったが、こういったように、人間を「死」や「怪我」などの確率の非常に「高い」状況に置かれたとき、かなり「簡単」に日常生活さえまともに行えないような、精神的な「壊れ方」をしてしまう。つまり、実際にそういった現象が日常的に見られている限り、それの非科学性を疑うといったことは、あまり意味のある実践ではない、ということになるわけである。
つまり、心理学は「心」が「ある」ことを証明する学問というような考え方は、「形而上学」の一種であって、意味のある議論ではない。そうではなく、実際に、具体的に日常において「問題」を訴えている、その「場面」があるのだから、その状況について、一つ一つなんらかの実践的な「活動」を営んでいく、といったような「実践的意義」において、その「正当性」を考える、といった形になっている、ということである。
もう少し具体的に言うと、心理学は具体的な「患者」との対応において考えられてきた、ということなのである。つまり、最初になんらかの「病気的現象」が、この目の前に「ある」という状況から考えている、ということである(逆に言うなら、そういった文脈と離れて、心理学的科学を僭称しているものは、うさんくさい「哲学」的饒舌だ、ということである)。
なぜ私がここで、「心理学」の構造を分析しているのか。
それは、心理学における「対象」が、こういった意味で、なんらかのその他の「構造」的なフレームに媒介されていない、ということなのである。このことは「物語」を考えてみればいい。物語の登場人物の話すことは、すでにその物語の「内容」というフレームに「制約」されている。つまり、その登場人物は、この時点で、「構造化」されている(別に、これを「キャラ」化と言ってもいい)。しかし、心理学における「患者」の口から発せられる「言葉」は、そんなふうに他者が、物語として

  • 内部化

されていると言えるであろうか。もしもそのように内部化されているなら、それはすでに「患者」ではないのではないか。つまり、その時点で、なんらかの「扱い方」が決定しているわけで、「診察する意味がない」ということになり、心理学という「医療活動」と矛盾する、ということになる。
こういった文脈において、上記の第14話の綾波レイのモノローグを考えることができる。これが「異様」なのは、つまり、物語を逸脱し、柄谷さんが言うようなホーリズム的な「文学=批評」を示唆するのは、それが単純に「物語」の「構造」に回収しえないような、固有性が示唆されている、と受けとったからであろう。病気とは何かと考えたとき、これはなんらかの「単純化」であり、ある部分の「強調」化と考えられるであろう。つまり、そこには、なんらかの「本質」の示唆があると考えられる。
まあ、いろいろ書いてきたが、私が言いたかったことは、別にエヴァについて知らなくてもいいし、興味がなくても普通のことだが、上記の引用にあるような、

  • 宝島の精神病に関する特集本に掲載されていた精神病患者の書いた詩
  • レインの「好き好き大好き」という詩集

は、こういった心理学について大学で学んだ人や、まあ、一家言ある人には、エヴァを無視していいという意味で無視できるものではないし、エヴァにはこういった「影響関係」があるもの、といったくらいの知識はいるんじゃないか、といった程度のことが言いたかった、ということである...。