問題系としての社会学

数学では、よく「矛盾」ということが言われる。矛盾とは、正命題も否定命題も「証明できてしまう」現象である。これができてしまうと、なにが問題かというと、「あらゆる命題が証明できる」ことが「証明できる」ことが分かってしまうので

  • 無意味な論理体系

であることが分かってしまう、ということになる。つまり、「この」言語活動は使えないので捨てなければいけない、ということになる。この場合、普通は「どこかで間違いが混入したのではないか」と考えることが普通である。つまり、ケアレスミスである。では、なぜそのように考えるのか、となると、つまりは、

  • 世の中というのは、うまくできていて、たいていのことでは、自分ではなく「世間」が正しい

という「世間主義」に関係している、と言えるだろう。
しかし、ゲーデル不完全性定理が示唆したように、そもそも、今の論理体系が別に無矛盾であることが示されているわけでもないし、その見通しがあるようにも思われない。未来においては、まったく違ったアプローチによって、この問題の新しい地平が切り開かれることがないとも言えない。
このことを、例えば、まったく違った発想で考えることはできないだろうか。
つまり、この世界において、そもそも、「論理」などというものは、最初から、うまくいくはずのないものだ、ということである。ではなぜ、そういったものがまるで「ある」かのように、世界は回っているのか。それは、

  • 私たち一人一人が、「あえて」論理があるかのように、振る舞っている

つまり、この世に存在しないものを、自分たちの「意志」で、あるかのように意志して、振る舞っている、ということである。では、なぜ人間はそんなことをやっているのか。それはやはり、そういったものが「ある」と思えていた方が、なにかと「便利」だから、ということになる。
たとえば、ある「論理破綻」が露出しかねない場面に出喰わせたとする。すると、人々は、そこで「これは論理破綻だ」と判断して、論理計算をストップしない。そうではなく、この「現実」に対しての

  • パッチ

を無意識に当てることで、この論理破綻の「危機」を回避している、ということである。これは一種の「捏造」であるが、それ以降は「これ」が論理体系になるのだから、少なくとも、もう一度、計算マシーンが走り出して、新たな論理破綻が見つけられるまでは、この矛盾の「危機」から逃れられる、ということになる。
こういった考えを、一般には「法創造説」と言うようである。法律の文言は、はるか昔の誰かが作り、記述したものである。つまり、その当時に存在しなかったような、最近のテクノロジーを、その文言を書いた人が考えていたはずがない。しかし、多くの場合、私たちはそのように考えて、この法律は、最近のテクノロジーには適用「できない」と考えない。なんらかの

によって、「普通」に適用している。問題は、この「パッチ」は果して、正当化できるのか、ということになるわけである。これを「正当化」する根拠はどこにあるのか? 多くの場合、どう考えても「自明」だから、ということになるのだろう。それが「普通の感覚だから」というわけである。しかし、その感覚をもたらす、私たちの「慣習的な作法」は、そこまで、「論理」的に信頼を担保されるものなのだろうか。
むしろ、逆なのではないか。多くの場合、この「適用」は、類似のものに対して、さまざまに行われてきているわけである。そういった「実績」から、「まあ、安全そうだ」と判断しているにすぎない。つまり、最初に

  • 実験

がある。試してみて、どうも「うまくいっているよう」だから、そのまま様子を見ておこう、という「試用期間」に置かれている。つまり、「ほとんど」の新たな概念は、こういった立ち位置にある、ということである。
こういった考えは、どこかカントの「実践理性」を思わせる。つまり、なぜカントは理論理性に対して、それと「別」に、実践理性なるものの「場所」を確保しなければならなかったのか、といったことである。そしてそれは、例えば、近代における「政治学」や「政治哲学」なるものが、

  • わざわざ

学問の「場所」として、一定の「独立」した領域をもったものとして考えられるようになってきたことにも関係している。
この世界は究極的には、論理的に記述できない。しかし、私たちが「困らない」範囲では、多くの場合、その論理を使って、「成功」している。それは、

  • 一人一人

が、そうなるように、「あえて」意志して、動いているから、ということになる。この論理が上手く動くように「能動的」に働きかけているから、と。つまり、そういった傾向をもつもの、として「政治学」を考える、ということである。
アニメ「SHIROBAKO」第22話において、「愛すべき」キャラクター、途中入社で制作進行の平岡大輔が、二年目の新人の高梨太郎と、飲み屋に飲みに行く場面がある。私がなぜ平岡を「愛すべき」と言ったか。彼は、作品の登場当初から、さまざまに「トラブルメーカー」として描かれてきた。しかし、他方において、彼は意外にも、さまざまな場面で、回りの指示に「従順」に従う場面が描かれる。これは、どういうことか。つまり、彼も、この業界に入りたての最初はさまざまに「野望」に燃えて、

  • がんばって

きたが、その理想が現実によって挫折した存在として、描かれている、ということなのである。彼はこの高梨との飲みの場面で、そもそも「回答」などありえないような、現実の、多くの場面の「矛盾」を想起する。現場のアニメーターたちの、非倫理的な手を抜いた態度、なんとかしてフリーライダーになろうとし、一切の責任を平岡に押し付けようとする態度。
よく考えてみよう。こういった問題に「答え」などあるだろうか? つまり「本当」の答えなど。
本当の「答え」、つまり、人間の「本当」の内面などというものは、いわば、「神の領域」のことなのであって、私たち唯一神を崇拝する側の人間が、臆断することが許されることではない(それは一種の偶像崇拝なのだから)。本当は、何が真実だったのか。どうすることが正しかったのか。だれが善人で、だれが悪人だったのか。これらは「全て」神の領域の話である。人間が行うことは、ただ、「実践」することにあるしかない。その場で考えて、その場で、行動して、その「感情の論理」の行き着く先にしか答えはない。もしかしたら、平岡にはなにか欠点があるのかもしれない。もしかしたら、そういった平岡が関わったアニメーターたちは、どうしようもないクズだったのかもしれない。もしかしたら、そうではなく、なんらかの、どうしようもない「理由」があったのかもしれない。分からないが、一つだけはっきりしていることは、常になんらかの「結果」は残っていく、ということである...。