分断国家の民主主義

イラク戦争のとき、ブッシュ・ジュニアアメリカ大統領は、イラク核兵器をもっていたという証拠がないことが分かった後に、

  • 中東に「民主主義」を広げたい

と言った。つまり、独裁国家の、この地球上からの「駆逐」を目指していた、ということだと思われる。
意外なことだが、各国の保守派であり、グラスルーツの保守派は、こういった自分たちの「リーダー」が言ったことを、「真面目」に聞いているものだ。大統領が

  • 独裁国家の廃止=すべての国を民主主義にする

という「目標」に言及したのだから、国民はそれを目指さなければならない、というわけである。

高野孟 最初はもちろん、市民の静かなデモとして、もちろん始まったんですね。それで、最初の呼び掛けなんか、それこそネットで、知識人が、見送りに抗議しようよと。十二時に、なんとか広場に集まろうよ、。寒いからコーヒーを忘れずに、そういう呼び掛けから始ままったんですよね。それで市民デモで行くんだけど、それが途中から、ガラリと、これはいろんな所で起きたことです。エジプとでも、シリアでも、ある意味リビアもそうですけど、市民デモで始まったものが、急激に過激派が入ってきて、主導権をもっていって、武器まで持ち始める。そういうプロセスがあって、それはどう考えても、オレンジ革命の時は、ジョージ・ソロス財団がスポンサーと言われましたけど、今回全米民主化財団とか、それで実際に市民デモの激励に、アメリカのヌーランド国務次官補が来て、キャンディー配ったり、まけいん上院議員も来ると、この辺は簡単に言うと、ネオコンの生き残り、世界民主化革命運動推進派ですから、そういうところからお金が流れて、これはまあ、オレンジ革命バラ革命も、不発に終わったウズベキとかみんな同じですけど、市民デモにアメリカが裏から金を出して、そして大きくなっていって、やがて武器まで流れ込んで、独裁者を倒すというパターンですよね。
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高野孟 それからもう一つは、さっき言ったネオコンといった、共産主義でなくなったんだけで、世界の独裁者はみんな潰せといったような、昔の、第四インターといったような感じの、世界革命主義なんですよね、民主主義革命、ある意味で、イラク戦争も、アメリカ民主主義の名の下に、中東の民主化を目指せといって、今みたいな状態を作っちゃったわけですから、こういうイデオロギー的な部分がまだあるんですよね。それはどんどん攻めていいんだ、これはアメリカ全体の意志ではないと思いますけど、ネオコン的、活動家的な部分がある。
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上記のブッシュ元大統領の発言が、いわゆる「ネオコン」と呼ばれ、トロツキストに連なる連中からアドバイスされたものであったことは、当時から知られていたことであったが、いずれにしろ、こういったアイデアが、アメリカ国内において、一定の市民権を得るようになっていって、これを「目標」とする

  • NGO

が、アメリカ国内に多く作られるようになって、そして、アメリカ国家が、こういったNGOに資金援助を行うようになる、というわけである。
しかし、よくよく考えてみると、この主張は、かなり強烈である。一切の、独裁国家=非民主主義国家を、この地球上から抹消することを至上の命題とする、彼ら原理主義者は、こうして、アメリカ大統領による「お墨付き」をもらったことで、ほかのことを、なにも考えることなく、この命題の実現に邁進することを「許された」と言ってもいいであろう。
しかし、独裁者ということになると、日本の天皇やイギリスの女王は、適用範囲外になるのであろうか。もちろん、そういった解釈をすることは可能である。実際に、こういった立憲君主国で、天皇や女王は、国会での投票における一票をもっていない。選挙権もない。このようにして、直接、政治の決定過程に介在できないように、政治制度が憲法にとって定められているため、こと、政治部門においては「独裁者ではない」と言える、というわけである。しかし、これも「解釈」の問題ではないのか、とは言えるわけである。実際、日本国民は天皇の意志に反する決定を、どこまでできると思っているか。実際の運用においては、国民は、心のどこかしらにおいては、天皇の意に反することは、できるだけ行わないように、政治行動を行っているのではないかと考えられるわけで、そういう意味においては、これを一種の「独裁者」と言えなくもない、というわけである(つまりは、いずれ、はるか未来においては、こういった勢力が、日本やイギリスの「王室」に敵意を向けてこないとも限らない、と)。
しかし、この話がきな臭いのは、そもそものブッシュ元大統領の話からして、明らかに、イラク核兵器があるから問題だと言っていたのに、それがなかったから、まるで、とってつけたように「民主主義」なるものを、やっつけでもってきたことがみえみえであるように、アメリカが「ちょっかい」を出す、資金援助を行う地域の、その「民主化革命」なるものが、かなり

  • 恣意的

な選ばれ方をしている、というところにあるわけであろう。たとえば、アメリカはいくら「民主化」が必要だと言っても、アラブの王室を民主化しようとはしない。それは、彼らがそのままいてくれた方が、なにかとアメリカの意向に沿って彼らが動いてくれているわけで、好都合だから、ということになるであろう。
つまり、アメリカが「民主化、早く、早く」と、NGOなどを使って、せかしている地域というのは、どこかしら、その地域の「独裁者」が

の姿勢を示しているから、なわけであろう。その典型例が、イラクフセイン元大統領だったわけで、彼ははっきりと、アメリカの基軸通貨からの脱退を表明した。そうしたら、アメリカの怒りが「頂点」に達してしまって、フセインさん本人が、まっさきに、アメリカに殺されてしまう。
同様のことが、中東やロシア周辺の国々で起きているわけだけど、上記の引用にもあるように、このアメリカの「支援」なるものは、最初はおとなしく、穏健派の市民による平和的デモだったはずなのに、上記のトロツキストたちが、すぐに、「暴力革命」になだれこんでしまう。つまり、

  • 過激派への支援
  • 武器のテロリストたちへの「ばらまき」

に結果して、彼らテロリストたちを使って、アメリカは独裁政権の「転覆」を目指す、という行動になるわけだけど、その結果として、ISのような「アメリカからもらった武器」で、彼らの自治を目指そう、みたいな勢力まで「育てて」しまうわけである。
アメリカにとっての「独裁者」は、結局は、「アメリカの言うことを聞かない」独裁者のことであって、そうでない独裁者は独裁国家と扱われない。というか、少なくとも、「関心」を寄せられない。いや。もっと言ってしまえば、アメリカにとって、石油利権などの、なんらかの「損得」に関わってこない独裁者は、まったくもって、なんの関心も寄せられない。それは、北朝鮮を見れば分かるであろう。
アメリカのやり方は、あまりにもメチャクチャである。独裁政権を倒せ、ということで、その地域の、彼ら独裁者に反抗的な勢力に、かたっぱしから、お金と武器を配ってしまう。そして、

  • 内戦

である。これでもう、この国はメチャクチャだ。しかし、アメリカにとっての関心は、その独裁者が殺されて、

勢力ととりかえることにしか関心がないから、そうやって武器を配った連中が、この国をメチャクチャにしかねないことなど、なんの関心も払わない。とにかく、アメリカが考えていることは、「アメリカの言うことを聞く」だれかを、この地域に置きたいということだけなのだから、どんなにこの国の内戦が絶望的な状況に至っても、なんの反省も生まれないわけである。
アメリカは確かに、フセイン元大統領を殺し、イラクに親米政権を作った。つまり、選挙で選ばれた「民主的」政権を作った。ところが皮肉なことに、フセイン時代のイラク政権は、イスラム教のスンナ派が政権を支配していたが、この「民主化」によって、シーア派の政権になってしまった。このため、完全にイラクの支配階層は、シーア派によって固められたことで、スンナ派は、イラク国内においては、

  • 迫害

される勢力になってしまった。ここから何が起きるかはお分かりであろう。イラクは地獄になった。スンナ派は、とにかく今までの「地位」に戻れることは「もうない」ことが分かったわけで、彼らの多くが、結果的に

  • 武力闘争

の方に行くことになる。つまり、ISである。私たちには、どこかこの結果は残念な印象を受けざるをえない。なぜなら、こうなることは、あまりにも前から分かりきっていたからだ。だからこそ、アメリカはもう少し「うまく」やるんじゃないか、と思っていた。
よく考えてみよう。
本当に「民主主義」つまり「多数決」は「万能」なのか? 本気でこのことを信じている奴なんて、いるのか。なぜ、多くの国で民主主義がうまくいっているのか。言うまでもなく、「民主主義」の外のなにかによって、多くの人たちによって、

  • 気づかい

をされているからではないのか。私は真面目な顔で、「功利主義」とか言っている奴って、本当に馬鹿なんじゃないかと思っている。もしも、ある人が「功利主義」で動いているだけなら、多くの場所で、

  • 暴力の衝突

  • 敵対的な軋轢

が後を絶たず、ほとんど社会的な秩序や平和は実現していないんじゃないか、と思っている。
多くの国において、なぜ「民主主義」はうまくいっているように思えるのか。なぜ、多くの「分断国家」において、そうであるにもかかわらず、なんとか「平和」を継続しえているのか。

分断社会で民主主義を維持するのはきわめて困難だとする見方に対し,早くから異議を唱えたのがレイプハルトら多極共存アプローチの論者である。レイプハルトは,分断社会であるオランダやスイス,オーストリア,ベルギーなどでは多数派支配が回避され,各集団を代表するエリートの協調行動によって民主主義が維持されていることを明らかにし,これらの国々の政治形態のエッセンスを抽出して多極共存型民主主義(consociational democracy)と名付けた。多極共存型民主主義の特徴は,(1)すべての主要集団の代表に執政職を与える(大連合政権),(2)少数派の合意なき決定を予防する(相互拒否権),(3)政治職と公的資源(公務員ポストや補助金)を各集団に比例配分する,(4)ある集団にとって重要な問題やある集団だけにかかわる問題についてはその集団に自決権を与える,の4点である(Lijphart [1977, Chap. 2])。
レイプハルトに代表される多極共存アプローチの論者は,エリート協調を導く政治制度と社会的条件を模索している。政治制度については,まず,大連合(grand coalition)と政治職の比例配分を実現するため,政府の形態は大統領制より議院内閣制が望ましく(Lijphart [1991]),選挙制度比例代表制がよいとされる。少数派への拒否権付与は,憲法改正に必要な賛同の水準を高く設定することや司法審査制度によって実現する。また,通常の立法過程においても少数派の合意なき決定を防ぐため,議会は二院制にして両院に均等な権限を付与するのが望ましいとされる。集団の自決権は,特定の集団が特定の地域に集まって居住している場合には連邦制,そうでない場合には各集団に固有の問題(言語や教育)に関する立法権を付与することで達成される(Lijphart [1984; 1999])。
これらの制度から構成される政治体制が安定的に機能する社会的条件として,Lijphart[1977: Chap. 3]は,(1)人口の過半数を占める集団が存在しないこと,(2)亀裂を跨ぐ愛着(overarching loyalties)が存在すること,(3)人口規模が小さいこと,の3点を挙げた。過半数集団が存在すれば多数派支配となる可能性が高く,拮抗する二大集団で構成された社会においても両者の関係は協調ではなく多数派争いに向かう。3つ以上の集団があり,どの集団も過半数に達していなければ,こうした事態を回避できる。亀裂を跨ぐ愛着(例えばナショナリズム)は,社会全体の紐帯となり対立を緩和する。人口規模が小さければ,各集団を代表するエリートの個人的交流の機会が増える。またレイプハルトは,Dahl and Tufte[1973]を引用して,人口規模が小さければ意思決定が容易になると主張する。O'Leary[2005]は,レイプハルトの議論を引き継いで補足している。まず,過半数集団が存在しないという条件について3つの例外を指摘する。それは,(1)少数派が資源(経済力など)に裏打ちされた交渉力をもつケース,(2)少数派の人口増加率が相対的に高く逆転の可能性があるケース,(3)過去の抑圧を贖うなどの理由により,多数派が寛大さを示す行為として少数派を厚遇するケース,である。また,Lijphart[1977: 81]が多極共存型民主主義にとって集団を横断する亀裂(cross-cutting cleavage)の紛争抑制効果は重要でないと主張したのに対し,O'BLeary[2005: 27]はその逆の関係は多極共存型民主主義においても成り立つこと,すなわち民族亀裂や宗教亀裂と階級亀裂の重複が対立を激化する効果をもつことを認める。
(中村 正志「分断社会における民主主義の安定」)
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2008_0405_ch2.pdf

上記の引用が興味深いのは、結局、なぜ多数派に対して少数派が、多数派によって行われる政策を「受け入れる」のかは、多数派が成立させようとする、その政策が、多分に、

  • 少数派の意見を取り込んでいる
  • 少数派自身たちの中での問題は彼ら自身による「自治」に任せている

といった「特徴」をもつように作るようになっているという、彼ら自身の長い「軋轢」の歴史から「学んだ」

  • 慣習

のようなものによって成り立っているから、ということが分かるであろう。
長い間、お互いが共存していると、少なくとも、「どんなふうに扱えば、彼らが怒ってくるか」くらいは分かるようになる。そこから、とにかく「もめれば、もめるほど」、時間も多くとられるし、彼らの抵抗も激しくなって、物理的にも精神的にも「やっかい」だということが分かってくるわけで、まあ、さわらぬ神にたたりなし、というわけで、あんまり彼らが「怒る」ことをやらなくなる、というわけである。
これと似たような機能を果しているのが、アメリカの連邦政府であろう。連邦政府は、いわば、アメリカの全ての権力機関の中で、一番に「権力がある」と思われているが、憲法を読むと、驚くべきことに、

  • やっていいことと、やってはならないこと

が、憲法によって制約された「一つの機関」にすぎない、ことがわかる。つまり、一面においては、各州議会の方が、自由に、その地域で行いたいことを決められる、といった側面がある。つまり、アメリカは、結局は、合衆国なので、本当は各州が

  • 国家

なのであって、あくまでも、その中のなんらかの「機能」だけを切り出して、連邦政府を成立させているにすぎない、ということになるのであろう。
しかし、このように考えるなら、独裁者はたんに独裁者「だから」問題だというより、その独裁者が自らの「権力」を使って、上記の多数派と少数派の「共存の知恵」を無視して、一方を

  • 独善的

に「優遇」する場合に、その「秩序」を破壊するから問題なのであって、もしも、その独裁者が基本的には、お互いの「自治」に関与せず、あくまでもお互いの「仲介」的な立場にあまんじるなら、それは、日本の皇室やイギリスの王制に近いものになるわけであって、問題の本質ではない、ということになるのではないか、とも考えられるわけであろう。大事なことは、どのように「平和」の実現を成立させるのかにあるのであって、独裁者さえいなくなれば「なにもかもがうまくいく」という妄想によって

  • いつまでも終わらない「内戦」状態

を招くなら、それは、まったくの本末転倒だと言わざるをえない、ということになるわけだが、おそらく、アメリカの「民主主義」原理主義者には、こんなことをいくら言っても理解してもらえないのであろう。彼らには、にっくき「独裁者(=キリスト教の意味での「悪魔」)」をどうやって殺すか、こいつらが地球上からいなくなれば、あらゆることがバラ色に変わる、くらいの「お花畑」の頭の中なのであろう orz。