THE BLUE HEARTS「ロクデナシ」

ブルーハーツというバンドは、日本のパンクの歴史において、唯一、今に至るまで「特別視」されている、ということは言えるのではないか。
なぜ、このバンドは、特別だったのだろうか?
それは、おそらく、彼らのライブを見たことがある人には、ある意味において、自明だったのではないか、と思っている。

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
(ザ・ブルーハーツ「情熱の薔薇」)
THE BLUE HEARTS/情熱の薔薇 - YouTube

心の「奥」の方が問題だというなら、それが何を意味するのかは、どこかしら自明であろう。つまり、その心の奥の重要さの強調は、

  • 見た目

の「異様」さの現れと、パラレルに示される。心が重要だから、その「見た目」が「たとえどんなものであっても」、その心の重要さが示されなければならない。
例えば、コミケで売られる二次創作のマンガの多くは、素人臭のする、かなり「下手」な絵であるが、少なくとも、これを描いた人の「欲望」がよくあらわれている。なにに性的に興奮したのか。どんな「想像」が、こういったものを描くことを、その人に「強い」たのか。
三島由紀夫は、自衛隊での自殺の印象が強く、なんらかの右翼団体イデオロギーとしてしか、彼の作品を理解されていない側面があるが、彼の言う「文化防衛論」は、一種の「アナーキズム」になっていることは、以前、このブログで書いた記憶がある。そして、おそらくは、この考えの「延長」に、今の日本のサブカルチャーの特徴がある。大事なことは、私たち日本人が、自然に、心のままに、思い吐き出す、それそのものが、日本の「文化」として、

  • 含まれる

というのが、三島の文化観であった。つまり、彼にしてみれば、なんらかの天皇へのリスペクトが内在されていさえすれば、「すべて」の文化は、この日本という意味において、肯定される。
たとえば、著作権というものを考えてみよう。アメリカのディズニーの「パクリ」をして、二次創作をすれば、おそらく「アメリカ」の法律、つまり、非申告罪によって、その人は訴えられるであろう。つまり、許可なく勝手に「パクリ」をして、作品を作ることは「著作権違反」だということである。しかし、多くのコミケで売られている作品は、アニメのパロディであったりでありながら、いちいち、作者や制作会社に承諾なんかとっていない。
つまり、次のように考えるといいだろう。アメリカや韓国といったような、それぞれの「主権国家」において、あらゆる「生産物」は、社会的なルールによって、仕分けされている。その「商品」のコピー商品、類似商品を作れば、そのオリジナルの商品の、なんらかの「発明品」を利用して、儲けているのだから、オリジナルの権利者の、なんらかの「権利」が保障されなければならないだろう、と。
しかし、こういった考えは、三島由紀夫の考えるような文化アナーキズムに合わない。丸山眞男が分析したように、日本文化の特徴は、「萌え」いずる、自然発生的な諸感情にあるのであって、その「動き」を制限するような、

  • 禁止

するような文化運動は、どこか反国家的ということになるのであろう。そもそも、いちいち権利者に「許可」をとっていたら、何ヶ月待たされるかわからない。こんなものが「文化」なわけがない。文化は

  • 事件

である。「今ここ」において、思われ、「今ここ」において、現される。それは、だれかが「注目」しているから起きる事態であって、だれにも知られず、注目されていないなら、そもそもオリジナルでさえ儲からない、ということだから。
あることを考える。ある作品を見て、あることを思いつく。これはもうすでに、一つの「文化」である。それらは「萌え」ていくしかない。この動きにたいする一切の「抑圧」を許さない、ということになる。
彼らのライブの映像は、今では、YouTube などを見れば、どこかしら転がっているであろう。そこで、ヴォーカルの甲本ヒロキの挙動が、非常に特徴的だということになる。なぜ、あのようなパフォーマンスをするのか。こういう問いは、どこか愚問なのかもしれない。パンクは、大音量のサウンドと共に、なんらかのパフォーマンスが特徴となっている。だとするなら、なにをすることも不思議ではない。
しかし、彼のパフォーマンスは、そういったものと解釈するには、ある特徴を非常に強く感じさせる。それは、例えば、麻薬中毒者とか、不良たちの「ツッパリ」のようなものにとどまらない。要するに、身体障害者、知能障害者といった人たちを思わせるものになっている。
つまり、彼の中において、この二つは非常に「近い」ところで理解されている、ということになるであろう。

役立たずと罵られて 最低と人に言われて
要領良く演技出来ず 愛想笑いも作れない
死んじまえと罵られ このバカと人に言われて
うまい具合に世の中と やって行くことも出来ない

掲題の曲は、ギターの真島昌利の作詞であるが、いわゆる「不良」は

  • 良くない

人たちであり、社会の周辺に追い出される存在であることが当然として、抑圧されているという意味では、その様態は、身体障害者、知能障害者と近い構造と示していることが分かる。つまり、これは一種の「リベラル」批判を含意していることが分かる。
優等生たちは、優等生たちの楽園を作る。しかし、もちろん彼らも「良くない」ことをやらない。やったら今度は自分が非難されるから。優等生たちは「正しい」ことをする。そういう意味では、上記の弱者に対しても、それなりの「権利」を認める。
しかし、彼らはこと、「競争」という意味では、上記の弱者が社会的に迫害されるのは「当然」だと考えている。勉強のできない、学校にも来ない、社会のルールを守らない、こういった連中が、さまざまに社会的に苦しい立場に追われるのは「当然」と考える。

劣等生で十分だ
ハミダシモノでかまわない

最近では、いっちょまえの雑誌で「反知性主義」などという言葉がもてはやされている。私には、ときどき、いわゆる「ネトウヨ」批判においても、同じような印象を受けることがある。マルクスの宗教批判ではないが、宗教はそれを必要とする社会的な状況があるから存在するのであって、それを無視して、宗教をバカにしていても意味がない。つまり、それが「優等生」の言う「正しい」とか「良い」という意味であって、なにかが根本的に抜けている、ということなのだろう...。