高田博行『ヒトラー演説』

おそらく、ヒトラーこそ、現代にまで繋がる「感情の政治」を最初に行った人ということができるのではないか。なぜ、安倍首相や橋下市長が、これだけの長い間、一定の「国民的な支持」を維持してきたのか、こういった問題を考えるとき、なんらかの

  • 国民一人一人の感情

に対しての、なんらかの意味で、「共感」に繋がるような

  • 個人的な態度

の「パフォーマンス」に成功してきた、ということが言えるのであろう。そしてそれは、アメリカのブッシュ・ジュニア元大統領についても言える。もちろん、これはたんなるパフォーマンスのレベルでは言えないのかもしれない。つまり、「地」に近いものだ、と。その人の「だらしのなさ」が、もともとの、子供の頃からの、「育ちの悪さ」のようなものだったり、学歴のなさ、のようなののだったり、方言をつい口にするような、あまり細かいことを気にしない鷹揚さであったりしたとき、逆にそのことが、「相手からの共感」をえられることになる

  • 個人的な感情

が「政治の武器」となっていく側面について、である。

十八歳となる一九〇七年に、ヒトラーリンツの町を離れ、画家を目指しオーストラリアの首都ウィーンへ移る。ヒトラーは、当時まだ輝きを放っていたこの帝都に将来の希望を託した。しかし、ウィーン造形美術学校を受験したものの不合格となり、美術を勉強する正規の道が閉ざされたヒトラーは、絵を売りながら建築家を志望するようになった。ヒトラーは、宮廷博物館、宮廷オペラ劇場などのウィーンの建築物にも並々ならぬ興味をもっていた。
音学家を志望していた親友クビツェクは、ヒトラーに誘われてウィーンへ移り、ヒトラーと共同生活を送った。クビツェクの観察によれば、このウィーン時代(一九〇七 ~ 一三年)にヒトラーの関心は次第に芸術から政治へと移行していった。建築家を目指すことと政治に関心をもつことは、ふつうは互いに無関係に見える。しかしヒトラーにとって、このふたつは深く結びつく事柄であった。建物の建築は「政治的前提条件が整ってはじめて」可能になるという理屈を、ヒトラーはクビツェクに語っていたのである。

ヒトラーにとって「国家」は、個人的なことである。つまり、「国家」は

  • 彼の「芸術作品」

だということである。これは、具体的にはどういうことか。例えば「演説」を考えてみよう。これは、「彼の芸術作品」である。演説は、それそのものが「芸術」なのだ。大事なことは、「それ」は、それそのものとして「価値」があるのであって、それが「指示」する具体的な政治的内容「によって」意味が生まれるかどうかが決定的ではない、ということである。
ヒトラーが演説をする。その場合、その演説において、話される「内容」は、言わば

  • 彼の「感情」

そのものなのだ。彼がいらだっていれば、そういったものが「そこ」に表現されているし、彼が価値があると思えば、そういったものが「そこ」に表現される。これは言わば「かっこつける」といったような表現に近いと言えるのかもしれない。
こういったこととは「何」を意味している、と言えるだろうか。要約するなら、すべてが「弁論術」になっている、ということになるのかもしれない。

「AではなくてB」という表現で、Aと対比させてBを際立たせる対比法は、コントラストによる印象づけに役立つ。この演説のなかでヒトラーは、「国家権力によってではなくて[.....]救済の教えによって」(3)と表現している。二者を対比する形式を採りながら聞き手に片方の選択肢を採るように強制する。この対比による印象づけは、敵と味方という二分法によく表れている。演説全体を通して見ると、次のような表現が敵と味方を表していて、白と黒とを際だたせていることに気づく。「ユダヤ人気質」(2)、「唯物主義的世界」(2)、「唯物主義の世界」(7)、「国家権力(6)、「腐敗した世界」(9)、「現世の権力」(11)「貨幣と黄金の力」(12)で敵が表現され、「われわれ」(1、6、7など)、「国民社会主義者たち」(8)、「アーリアの」(4、5)、「キリスト者」(24)で味方が表示される。
ここでは、敵対的なあり方をユダヤ人に代表させて唯物主義、金銭至上主義として表現している。聞き手は、共通の敵が設定されることによって集団としての一体感を獲得する。味方陣営を「われわれ」で包括する語り方も、白黒図式のもとでの連帯感形成による説得術である。

ヒトラー演説を決定的に特徴づけているものがこの「二元論」である。つまり、彼の「会話」のスタイルが、そもそも、二元論なのだ。もっと言えば、彼の「哲学」のスタイルが、二元論だと言ってもいいだろう。常に彼は、「二元論」的に

  • 話す

のであって、言わば、会話「自体」が、二元論のスタイルになっている。これは、一種の「単純化」のスタイルであって、相手に、「あれかこれか」の選択を迫る、一種の「会話の暴力」の構成になっている。どんな複雑な問題も、すべてを

  • 敵か味方か

の二元論にすることによって、相手に「分かりやすい」という印象を与える。
しかし、逆に、こう問うこともできる。なぜ、二元論の主張者はこのような態度をとるのか。それは、てっとりばやく「承認」を得られるから、と言えるだろう。つまり、「褒められる」と。
大事なことは、ヒトラーにとって演説は「彼の芸術作品」だということである。つまり、自分の作品だから、なによりも彼の関心は「自分が褒められるか、けなされるか」の二択しかない。
ヒトラーの演説が最も、勢いのあった時期は、ナチスが政権を取る前の、ナチスが政権を奪取するために、他の政党と「競争」をしていた時期だと言えるだろう。その間は、言わば、彼の演説に

  • なんらかの「期待」

を覗いていた、ということが分かる。つまり、自分たちの生活が少しでも良くなる「兆候」を探していた、と。しかし、それが一変するのが、ヒトラーが戦争を始めた時である。ヒトラーは自分が心臓病にかかっていると思い込んでいた。つまり、死が近いと思いこんだ。しかし、彼は自分が世界征服をしたい、という「空想」を、道半ばであきらめる、という考えに我慢ができなかった。彼は自分が死んでしまうなら、すべてのこの世のことは無意味だと考えた。それは、彼自身が自分の政治を「芸術作品」と考えていたこととも関係している。自分が「やりたい」と考えて、実際に世間に向けて「言ってきた」ことが、やれないまま終わるということが

  • かっこ悪い

と思うようになる。そこで、少しでも早く、世界征服を始めなければならない、と考えた。ものすごい勢いで、周辺国に侵略を始めた。
しかし、である。
戦争は、「国民に負担を強いる」フェーズである。ここで国民は「冷静」になるわけである。

しかし、まさにここに、ヒトラー演説についてのイメージをおそらく最も大きく裏切る事実がある。これらの新しいメディアを駆使しティトラー演説は、政権獲得の一年半にはすでに、国民に飽きられはじめていたのである。ヒトラー演説は、ラジオと映画というメディアを獲得することによって、その威力は理論値としては最大になった。ところが、民衆における受容といういわば実測値においては、演説の威力は下降線を描いていったのである。ヒトラー演説は、常にドイツ国民の士気を高揚させたわけではない。

そもそも、「言葉」とはなんだろうか? よく考えてみよう。あなたが、なにかを私に向けて「話した」とする。これは、一種の

  • 暗号

である。私は、その文字の羅列から、何を読み取るだろうか? はっきり言ってしまえば、そこで、何が語られていようが「どうでもいい」わけである。これが「何か」でなければならないと考えているのは、これを話している「ヒトラー」自身でしかない。なぜなら、ヒトラーにとっては、演説をすることは、一つの「芸術作品」を作ることであって、これを褒めてもらえないことは、耐えられないわけである。自分の芸術作品を褒められない、ということは、彼にとって、自分の全人格を否定されていることに等しい。彼にとっての芸術活動が、自分への肯定の感情を高めることが「目的」なのだから、褒められないなら「やる気がなくなる」わけである。
しかし、そんなことは聞いている側にとっては、ほとんど「どうでもいい」わけである。国民にとって大事なことは自分の生活であって、最大の関心事は、「戦争はいつ終わるのか」である。または、「ヒトラーはいつクーデターで殺されるのか」である。大事なことは、戦争が

  • いつ終わる

かといった「定量的」な「情報」なのだ。国民は、ヒトラーの「演説」を、その観点でしか聞かなくなる。ヒトラーの演説の、この部分が、冬前には戦争を終わらせようとしていることをにおわせている「ようにも読める」、といったような、まさに「暗号」としてしか、ヒトラーの演説は聞く価値がなくなる。ヒトラーが「自分の言っていることの、ここを褒めてほしい」と思っているような、そういった「弁論術」としての「芸術作品」は、実際にヒトラーが政権を獲得した後は、なんの意味もないパフォーマンスになる。国民は「真剣」に生きている。自分の生活が、実際に他人によってどのようになるか。それこそが、唯一の関心なのであって、

  • 何を話しているか(=話者の芸術的パフォーマンス=シニフィアン

ではなく、

  • 具体的な定量的な、どんな「情報」を含んでいるか(=聴者側への今後の生活への「影響」予測=シニフィエ

が問題となっていく。しかし、それと共に、ヒトラーは急速に、「演説」に「やる気」をなくしていく。もっと言えば、戦争そのものにやる気をなくしていく。やってもやっても負け続ける戦線を前にして、彼は、戦場に行って、兵士を鼓舞しない。なぜなら、そういった負けている戦線に行くことで、

  • 自分のイメージ

に傷がつくことを恐れたからだ。しかし、イギリスのチャーチルはむしろ、現場に行き、兵士の士気を鼓舞することに成功していた。これが、現実政治家と、「夢想芸術政治家」との違いなのかもしれない。ヒトラーは、自己肯定感が内面から湧いてこない「政治活動」に、まったく「やる気」をなくしていく。だれも褒めてくれないと「つまんなくなる」のであろう。
おそらく、アウシュビッツなどのユダヤ人虐殺も、こういった延長にあるのだろう。彼にとって、心臓病で死期が近いと思ったとき、自分が「演説」で主張していたような、ユダヤ人たちへの「敵意」が、なんの形にもならないまま終わる、という空想に耐えられなかった。彼はユダヤ人を実際に多く殺すという

  • 芸術作品

を、後世に残さなければ「かっこ悪い」と、自分への肯定感情を抱けなかった。ここは非常に重要なポイントである。ヒトラーにとって、そもそも「ユダヤ人」は、「どうでもいい」わけである。しかし、「自分が演説という<芸術作品>で人々に言ってきたことが、実現されずに、あっさり心臓病で死ぬことが<かっこ悪い>」から、という、まさに多くの人にとっては

  • どうでもいい

ことによって、あのような「虐殺」が行われる、という「ばからしさ」なのである。アドルノの言う「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、こういう意味なのであろう。ヒトラー以降、もう「芸術」を語ることは不可能になった。

  • 芸術=悪

となった、この現実に向きあえない一切の「芸術」は、上記の意味において、その存在を肯定することはできなくなったのだ...。

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

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