神原元『ヘイト・スピーチに抗する人びと』

ドキュメンタリー映画レイシストカウンター」は、在特会レイシスト・デモに対して、自然発生的に拡大していき、今に至っている、いわゆる「カウンター」と呼ばれる、このデモへの

  • 抗議

を、このデモも回りから行う行動についての、現在に至るまでの一つの「スナップ・ショット」として、主な関係者との対談をメインにした、オムニバス形式の記録映画であったが、これまでのこの「カウンター」と呼ばれている人たちについて、これがなんであったのかを理解する上での、その「全体」を短かく理解する上で、よくまとまっている内容だったように思っている。
はっきり言ってしまえば、この問題は、驚くべきまでに、マスメディアは、ほとんど報道していない。マスメディアを見ていても、少しも、その全体像が伝わってこない。こういった状況においては、より多くの人に見てもらうことが大切になってくるかもしれない。
私が今週見たときは、放映後に、監督による対談が行われて、掲題の本の著者と、この映画が作られた後から、現在に至る状況と、今後の展望といったことまでの情報が語られ、興味深かった。
麻生元総理が、現政権発足の当初に、「ナチスに学べ」という暗号を、全国のネトウヨに「指令」を出して以降、私には、この在特会から広くネットの2ちゃんねるに広がる、いわゆる「ネトウヨ」まで、これらは、ドイツにおける「ユダヤ人」へのヘイト・スピーチに非常によく似ている印象を受けている。
そのことは、確かに、近年になって、インターネットの普及によって、この問題が急激に増加してきた印象を受けるが、少なくとも、こういった在日韓国人、韓国人への大衆レベルでの「差別」というのは、昔からずっとある、ということは確かで、そういう意味でいうなら、この問題は、これからも続くし、それは、ドイツにおける「ユダヤ人」問題とも非常に似ている印象を受けるわけである。
言わば、在特会ナチスのレーム突撃隊なのであろう。つまり、

が、ここにおいても再現されている、ということである。よって、この問題は以下の構造になっていると言える。

上記の映画の後の対談において、監督が言っていたが、前から、いわゆる「日の丸」系イベントが行われるとき、ほとんど必ずといっていいように、そういったイベント会場に集まってくる「活動家」のような人たちというのは、一定数いて、在特会桜井誠なども、前から、そういった存在だった、ということである。自民党が、以前の田舎の農村政党から、農民の票を集められなくなることで、「都市」政党への脱皮を図ろうとした。その延長で、自民党の極右化が進むようになる。彼らは、こういったイベントを通じて、こういった「日の丸」系イベントに集まってくる連中と懇意になっていくのではないか。そして、ネットの工作員のように、政治家自身が自らの手を汚して行うには、あまりにも危険なことを、こういった人脈を通じて、彼らに依頼をするようになるのではないか。そして、次第に、こういった連中と関係を切れなくなる。さまざまな「弱味」を握られるようになる。
こういった延長で、彼ら「日の丸」系イベントの活動家たちは、そういった「政治家」たちの「権力」を利用して、こういったレイシズム・デモを実行するようになった、と。彼らが、差別デモを企画し、それを彼らが懇意にしている「政治家」に

  • お願い

をする。すると、政治家たちは「警察」に、圧力をかける。

  • 彼らのデモの邪魔をするな。彼らのデモを成功させるように、彼らを最後まで守れ。

というわけである。つまり、このデモのグロテスクなところは、彼らが「警察に守られ」て、こういった「差別発言」をしていた、というところにあるであろう。
よく考えてみよう。
私たちは、警察は「正義」を守る人たちだと思っていた。しかし、彼ら警察官は、なぜか彼らを「守る」。注意すらしない。多くの人は思ったのではないか。
日本は終わった、と。
警察は、こんなひどいことを言っている人たちに注意すらしない。むしろ、彼らはデモを行う「申請」の正規の手続きをして行っているん「だから」、彼らのデモの権利を守らなければならない、というわけである。
あほか。
そう思わないか。そんなことよりもなによりも、「差別」発言をしている時点で、人間として、どうして許せるだろうか。
この事件を前にして、私は警察というのは、国民の信頼を失ったと思っている。

在特会ら「行動する保守」グループは、やがて首都圏屈指のコリアンタウン、新大久保い狙いを定めて活動を開始した。2012年8月には、新大久保の韓流料理店街である「イケメン通り」に桜井誠とその仲間が出没し、「朝鮮人を皆殺しにしろ ~」「日本人なら朝鮮人の店で買い物なんかするな ~」と叫びながら店の営業を妨害して回り、その映像がインターネット動画に残されている。これが、彼らのいう「お散歩」だ。

警察は国民を守らない。おそらく、在特会自民党極右集団には、なんらかの

  • バーター

があると思っている。そのことにより、警察内部にすでに上からの「禁止令」が出されているのだろう。つまり、「なにも注意もしない」連中しか、この現場に来ることが許されない、というわけである。
これにより、日本という法治国家において、暴力や差別発言の「治外法権」が、「警察に守られる形」で、できてしまった。
近年のネット上での、2ちゃんねるまとめサイトにおける、レイシズム差別発言は、一種の「祭り」の形態によって、継続的に続いている。こういった連中と上記の、日の丸系活動家が、結合するとき、上記で問題になっているような、レイシズム・デモが行われてきた。しかし、この場合、そういった2ちゃんねるまとめサイトを見ている人や、書き込んでいる人の全員が、こういったデモに参加する必要はない。あくまでそれは、「確率論」的な現象としてあらわれる。つまり、こういったことをやっている人のうちの、何人かの異常に感情移入をしすぎてしまった連中が、何人でもいいから。あらわれればいいわけである。
このレイシズム・デモの特徴はなんだろうか。彼らレイシストが、自分の顔を隠したり、また、上記の彼ら言わく「お散歩」においても、老人や子供や女性といった、決して、自分たちに犯行してこないだろうと思われるような

  • 弱者

ばかりを狙って、暴力をふるう、ということであろう。こういった意味において、彼らは昔から存在するような、いわゆる「右翼」的な存在ではないことが分かるであろう。彼らは、「警察に守って」もらいながら、顔を隠し、「匿名」になることによって、レイシズム発言を行い、暴力をふるう。そして、むしろ、彼らの「正体」をリベラル側があばこうとすると、

  • プライバシーの侵害

だと言って、警察に泣きついてくるわけである。彼らの差別発言や暴力は、そういった意味において、まったく、自分たちの主義や信条によって行っているわけではない。むしろ、彼らは、こと「自分」のことにおいては、人権は守られるべきだと思っているし、自分への暴力は「警察が守ってくれる」と思っている。そういう意味では「左翼(=ヘタレ左翼)」なのだ。
今回のこの問題は、上記で総括したように、

であり、

といった構造をもっているという意味においては、いわば、「保守系政治家」たちが、「在特会」への「お墨付き」を与えている状況の中で、非常に醜悪な

  • 悪ノリ

が極限まで、突き抜けていたところにあったわけだが、いずれにしろ、こういった連中は、ある意味において、ここまで「過激化」するかどうかはともかく、いつの時代にも、こういった連中はいると考えられるし、そしてそれに先導される、モブ的なネトウヨ連中も、いつの時代にもわいてくる、と考えられる。そう考えたとき、今回の「事件」の重要な意味は、こういった連中に対して、

  • 体を張って

抗議を始めた人たちが、この日本社会の「中」から生まれてきた、というところにあるのではないだろうか。早い話が、どう考えても、こういった連中のやっていることは、

  • たとえ警察が彼らを「守って」いて、彼らを「優遇」していたとしても

人として、やってはいけないことであるわけであろう。だとするなら、それに怒りを覚えた、何人かの人たちが、「おかしいんじゃないのか」と声を上げ始めることは、日本が健全な社会であるなら、当然起きるべくして、起きなければならなかった、ということなのではないか。人として「恥ずかしい」ことをやっていれば、注意をする。このあまりにも自然であり、当然のことを、当たり前のように行い始めた人たちが現れた。それは、新大久保の、在日朝鮮人コミュニティであろうがなかろうが関係ない、

  • 当然

のことだったのではないか。国家が、こういった連中を「優遇」して、「守る」ならば、

  • 街の自警団

が、自然発生的に、組織され、自分たちのことは自分たちで守り、健全な街の風紀を守っていく。まさに、アニメ「ローリングガールズ」の世界であり、これこそが「国家」とは

  • 関係なく

目指された、自治的な「事件」だったわけであり、ここにこそ、今回のムーブメントの可能性の中心があった、と言えるのではないだろうか...。

ヘイト・スピーチに抗する人びと

ヘイト・スピーチに抗する人びと