資本主義とは何か?

資本主義とはなんなのかと私たちが問うとき、私たちは、むしろ、経済学の「比喩」によって、生物の

  • 進化

を説明しようとしたダーウィンの進化論を思い出す。つまり、私たちの「中」に現前として「在る」と思われる、自分が

  • 生きたい

という「衝動」が、他の生きている生物たちとの「競争」(=殺し合い)を想起させるからだ。アフリカのサバンナで、ライオンがシカを狙い、一目散に走って、シカの首をかき切る。このとき、そのライオンは「生き残った」のであり、そのシカは「生き残れなかった」。ここで「進化」と言うとき、実際に、「進化が何を意味するか」には、なんの意味もない。大事なことは、

  • 生き残った

という「事実」なのであって、それは最初に述べた、私たちの内奥にあると思われる「生きたい」という衝動(もしそうでなければ、多くの人は自殺しているのではないか、という意味で)が、具体的に何を意味していたのかを説明しているように感じさせる。
よく考えてみよう。
私は明日、目の前を横切る人に、その場で、私がなんの警戒もしていないその隙を狙って、

  • 殺される

かもしれない。もし私がその「可能性」に耐えられないなら、そいつに殺される「前」に、そいつを殺さなければならない、ということを意味してしまう。しかし、そんなことを言ったら、私は、世界中の人を殺さなければ、

  • 心の安寧を得られない

ということになってしまう。なぜなら、だれかを生かした時点で、私はいつかそいつに殺される可能性があることを意味するのだから。
しかし、言うまでもなく、世界中の人が死んで、自分しか生き残っていないなら、人類は滅びる。なぜなら、あとは自分が死ぬのを待つだけだからだ。
私は「自分は死にたくない」と願った。そのために、世界中の自分以外の全員を殺した。しかし、そうした時点で人類は滅びた。これは何を意味しているのか? 自分が生きたいと願い、それを実現すると、人類が滅びる。これは一種のパラドックスなのか?
いや。相対的には間違っていない。というのは、少なくとも「他の人より」長生きできたことは意味しているのだから

  • だれよりも長生きしたい

という意味では「競争に勝った」ということになるからだ。ここで問われているのは、「確率論的に、誰かに殺される可能性がある状態に耐えられない」という「欲望」に、その人は「従順」だった、ということである。
しかし、こういった考え方は、利己主義であり、つまりは、功利主義の「基本」ということなのだから、これを否定することは、だれにもできないんじゃないのか、ということになってしまう。功利主義は、個人の「エゴ」を承認する。なぜなら、そうしない限り、

  • 幸せ

という「状態」が何かを定義できないからだ。功利主義がやりたいことは、この「幸せ」の「計算」である。そのために、各個人は「エゴイスト」にならなければならない。そういう意味で、功利主義は、一種の

  • 状態主義者

であることを意味する。しかし、である。
考えてみないか。あなたは、今、何かを行っているとする。その瞬間、あなたは「不快」に思うかもしれない。このスナップショットを切り取って、あなたが「不幸」だと言うなら、あなたは思うだろう。この「過程」をもう少し進めるんだ、と。そうすると、あなたは、この「不快」に対して、なんらかの抵抗を行っているだろう。そして、それが意図通りに成功したとき、あなたはそこに、なんらかの「満足感」を感じている。しかし、ここで問題が起きる。先ほど私は功利主義によって「不幸」と判断されたが、たんに

  • 時間が経過した

ということだけで、私は「幸せ」と判断できるような満足にみたされている、というわけである。果して、どっちの私が「リアル」な私なのだろう。よく考えてみよう。この考えは、もっと恐しいのである。私は、この後、延々と、「満足」と「不快」を繰り返すわけである。死ぬまで、だ。つまり、なにが言いたいか。人間は「過程」的な存在だ、ということである。人間はずっと、死ぬまで

  • 変わり続ける

のだ。一瞬とて、休むことなく。はて。こういったもののスナップショット的な「一瞬の相貌」を鬼の首でもとったようにあげつらうことに、果して、なんの意味があるのか、ということなのだ。
進化論は「トートロジー」である、と言うとき、ようするに、適応とは生存しているという「現実」のことを言っているのだから、逆に、不適応とは死んだ、または、死ぬ、ということを言っているのだから、ようするに、生き残った者は生き残った、と言っているにすぎないよね、というわけである。
しかし、よく考えてみると、こういったトートロジーは世の中にはよくありふれている。資本主義で言えば、「お金を集める<ため>に、お金を集める」という運動だと言えるし、生物が「生きよう」とすることだって、「生き残る<ため>に生き残る」と言っているだけのようにも受けとれる。
どうして、こういうことになるのだろうか?
私はこれは、ある種の思考の作法に対するナイーブさを示しているんじゃないのか、と思うわけである。
なぜ、上記のような一見「矛盾」とも思えるような、認識の不整合が起きるのか。例えばこれを、ニーチェ実存主義で考えてみよう。生きたいと思うことは、一種のニーチェ的な「力の思想」である。これは一種の

  • 神の視点

なのだ。つまり、生きようとする人は自分の「意志」で、自分を生かそうとする。そのため、自分以外の他の人間を全員殺さなければならなくなる。なぜなら、そうしなければこの「不安」は解消されないから。
オウムが地下鉄にサリンをまいたのも、「自分たちが予言した」世界の終末を、その予言を「現実」にさせるために、自分たちが「神」になって、人間に裁きを下したわけであり、ナチスユダヤ人を虐殺したのも、ユダヤ人が「滅びる運命」だと自分たちが言っていたことが、事実であったことを証明するために、神になりかわって、虐殺をしたわけであろう。
これが「現実」である。
現実とは「それ」を、神になり代わって、「行なう」存在によって起こされるものであって、それ以上でもそれ以下でもない。現実だとかリアルだとか、避けがたい歴史法則だとか、全部、

  • お前がやっている

ことじゃねえのか、というわけである。
ヘーゲル弁証法において、ある二つの概念は「対立」する。なぜか? それは、その二つの概念が、互いに互いの概念の「意味」に依存して成り立っているからである。しかし、こういった事態は私たちの日常の概念においては、往々にして起きているものである。私たちはそこに、一見した「対立」を見出す。それは上記の例で言えば、

  • 自分が生き残るために、自分以外の世界中の人を殺さなければならない

といったようなものである。これがなぜグロテスクなのか。それは、この二つによる「対立」が、その裏に、「お互いがお互いをどこかで前提した概念によって説明している」からにすぎない。
もう一度資本主義に戻って考えてみよう。資本主義は、上記の意味において、「お金集め」の運動として、資本家によって、その「役割」を担われて進む運動である。この運動は、私たち人間が全員で、お金を使うことをやめよう、と心を合わせてやりでもしない限り続く。つまり、

  • 誰が資本家か

と問うことにはなんの意味もない。そんなことを問わなくても、「ある一定程度の資本家が必ず現れる」わけであり、その一定の範囲の資本家によって牽引されて、この

  • 定常状態

が続くわけである。それは、お金を多くもつことが、そのお金の使用によって得られる商品を担保する限り、人々をつき動かし続けるのだから、この運動がなくなることはない、というわけである。
しかし、このことには、一つの「からくり」がある。つまり、この運動はひとえに「貨幣」という、不思議な「媒体」によって、釣り上げられているかのように、バランスされている。しかし、ここで大事なことは、

  • 「この」貨幣

だということなのである。私が明日、目を覚まして、近所のスーパーで買い物をするとき、そこで私の財布から店員に渡す貨幣は、

  • 「この」貨幣

つまり、日本銀行券である。私がそこで、海外の貨幣をだしても、まず、確実に受け取ってもらえないだろう。それは受け取られないことに本質があるのではなく、

  • 私自身

日本銀行券で売買を行うことを「自明」に生活している、ということが全てを意味している。つまり、私は今のこの日本という国のこと地域を生きるものとして、この日本銀行券が、それなりの「価値」をもって、明日も使えると思っている。そういった「地域」的な場所が与える「自明」性と、上記の資本主義は切っても切れない関係になっている。つまり、資本主義の本質は、その貨幣という

が表象している「地域共同体」=地域社会の、共同性と不可分の関係にある、ということなのだ。
このことを、子供たちの受験競争においても考えられる。一見すると、子供たちは弱肉強食の競争社会にいる、ということになっている。そして、東大はその頂点であり、進化論的な「勝利」を、東大合格とのアナロジーで語られる。しかし、よく考えてみよう。なぜ、「東大」に行くのか。この問いは、なぜ「大学」に行くのかと同値である。つまり、なぜ

  • 「この」大学に行くのか

という問いなのである。「この」大学、つまり「東大」は、国家官僚になる「ため」の、登竜門である。国家官僚になる人は、ほとんど、東大に入った人がなる。つまり、この「競争」は、国家官僚コミュニティによって、ある種の「意味付け」がされているわけである。
しかし、こういった「意味付け=幸福付け」から、一定の距離を置いて生きる可能性がないと考える根拠はないわけであろう。生まれてから、ずっと、学校という公的な機関を「拒否」して、学校に行かなかったとして、

  • 「これ」じゃない<学校>

を作って、そこに行けばいい。たんにそれだけのことでしかない。そうしたら「不幸せ」だろうか?
東大に入学した連中は、いつも会話をするのが、東大に入学した連中なので、彼等同士の会話においては、

  • 東大に合格する=善
  • 東大に合格しない=悪

というふうに価値判断される。なぜなら、東大は日本の大学の頂点で、「競争」の頂点を意味するのだから、東大以外は「敗者」であることを意味し、二番煎じの「妥協の産物」とされるからだ。負けたということは、「努力が足りなかった」ということを意味し、なんらかの「良くない」特性をその人はもっている、というわけである。
あなたは、こういった考えの何が間違っているのかに気付いたであろうか。日本の学校受験競争は「進化論における競争」のアナロジーとして考えられた。しかし、東大の受験で高得点をとるのは、たんに、その「東大コミュニティ」の想定したトレーニングに習熟してきたことを意味しているにすぎず、そのことが、「優秀」だとか「天才」だとかいったことを少しも意味しない。
しかし、である。
このことは、逆に言うことができるのだ。つまり、ルソーの言う「一般意志」である。この社会のすべてのメンバーが、「東大入学者は、<天才>であることは、<自明>なんだから、彼らを優遇しなければならない」という、

  • 社会的な合意

を、パターナリスティックに人々に強要する圧力を国民は感じる、ということである。これは、資本主義においても同じである。一見すると、「この」貨幣を大量にもっていることは、

  • すべての欲望をかなえられる

ことを意味しているように思われるが、そのためには、この貨幣の「健全性」が保たれなければならない。どんなに、「この」貨幣を大量に集めても、その集め方が「わいろ」による、悪行による手段によるものだということが、国民に知られると、途端に、この貨幣自体の「信用」がなくなり、だれも、「この」貨幣を使わなくなってしまう。
一見すると、貨幣にしても、教育現場の受験にしても、なんらかの

  • グローバル

な事態のように思われるが、実際は、その「健全」性は、

  • その地域

の健全性に非常に大きく依存している、ということなのである。私は明日、朝起きて、回りの人と会話ができなければならない。もっているお金によって、買い物ができなければならない。このことを担保するような「健全」性は、なにによって

  • 保持

されるのか。
進化論において、人間の「生存競争」は、遺伝子と呼ばれるDNAの配列によって説明されることになった。すると、奇妙なことが起きる。まず、私と私の兄弟姉妹は、私のDNAに「非常によく似ている」ということになる。かなりの割合で、実際に、その配列は

  • 同一

でさえあるであろう。ここで問題である。この二人は、ある一定程度において「同じ」だと、なぜ言ってはいけないだろうか? 話はこれで終わらない。いとこを考えてみよう。この二人は、ある一定程度において「同じ」だと、なぜ言ってはいけないだろうか? 都会人は、田舎の村から離されて生きているため、だいたいパパ、ママ、ボクの「血の繋がり」で終わってしまうわけだが、こんなもんでは終わらないわけである。田舎の村社会で、何世代にも渡って、近親相姦を繰り返した村人同士は、ある一定程度において「同じ」だと、なぜ言ってはいけないだろうか?
つまり、ここで私たちは発想の転換をしなければならない、ということなのだ。
私たちは「二つ」の自分があるのだということを認識しなければならない。一つは上記で示している「ニーチェ」的な実存としての自己であり、それは、「文化」によって定義されるものである。他方は、いわば

である。進化論的に言うなら、私個人が「生き残る」という定義には意味がない。私ではなく「私の遺伝子情報」に、非常に近いものが「残っていく」ということを意味しているにすぎない。その場合、私「でなければならない」理由がない。とにかく、私の遺伝子情報に近いものであれば、だれのでもいいのだ。進化論において大事なことは、「ある」個体の生死ではない。その種が「存続」していくのかどうか、であり、存続していくとするなら、その個体に「できるだけ」近い遺伝情報の「存続」であるわけで、どっちにしろ、その個体が長生きするかどうかは、一つのパラメータにすぎない、ということなのである。
資本主義とは、「この」貨幣を使っている地域共同体のメンバーと流通する貨幣の二つの

によって、その「定常」性がどこまで保たれるのかが問われている。上記の比喩を思い出してほしい。ある人が自分が殺されないために、自分以外の全員を殺したら、人類が滅びた、という話を。同じことは、資本主義にも言える。ある資本家が自分のお金の収集に、あまりにもこだわりすぎて、自分以外の全員を飢えて殺すようなことになったら、その資本主義社会は滅びる。自分が東大に受かりたくて、自分以外の子供の全員の脳を頭が悪くなるように手術をしたら、その国は滅びる。
進化論、資本主義、受験戦争は、むしろ、

  • (その<地域>性によって共同体化された)統計力学的な概念

だ、ということである。この今のバランスは、ある「社会的な安定性」によって、その信頼が担保されている。このバランスが崩れたとき、その「社会」が滅びる、ということであり、そのバランスを崩すトリガーこそ、功利主義的であり、利己主義的な、フリーライダー的な「自分さえ生き延びれればいい」といった、行動様式にある、と言えるであろう...。