進化と歴史

進化論は「適応(fit)」という言葉をめぐって、トートロジーとなる。だとするなら、これは「科学」なのだろうか? この問題提起は、例えば、心理学は科学なのか、とか、マルクス主義は科学なのか、といった問いに似ているとも言える。
前回も考察したが、進化と資本主義と受験競争は、一種の「開放系」になっているという意味において、似ている。この場合の「開放系」という意味は、その

  • 範囲

の限定を具体的に行うことが難しい、ということである。このことは、「社会」と「環境」の区別というふうに言ってもいいだろう。私たちが「社会」という言葉を使うとき、それは、なんらかの具体的な人間が作った「システム」のようなものをイメージしている。例えば、国会が代表するような、国家の選挙制度は、なんらかの「ルール」によって、基本的には「繰り返され」ている。それに対して、「環境」という言葉を使うとき、私たちはなんらかの「限定」を用意しない。とにかく、そのまま、

  • 生きているこの場所

といったくらいの指示性があるだけで、それが具体的に「何」なのかを内包的に説明しない。むしろ、私たちが「環境」という言葉を使うとき、その「社会性=ルール」は、

  • これから探していき「探求」すべきもの

といった意味合いが込められている。
例えば、古典物理学の場合を考えてみよう。この場合、登場人物はおおよそ決まっている。原子的な意味での「質点」であったり、その均一な分布を伴うような「剛体」だったりする。そして、それらの関係は、すでに最初から、それぞれの関係において「ルール」が決定している。
他方において、進化論はどうか。進化論の場合、常に問題系が経験的に知られている文脈において問われる。そして、その問題系に対する「答え」が、進化論的な、つまり、適応主義的な説明が多くの場合行えるという意味において、つまり、そのような方向の

  • 方法

の説明が比較的うまくいくという意味において、「科学的」だということになる。しかし、ここで問題は、先程の古典物理学と違っていて、その現象の説明体系の登場人物が、古典物理学のような意味での「一様」性を、まったく保たない、ということなのだ。あるときは、パンダの指の話であり、あるときは、ミツバチの行動の習性であったり、恐竜の絶滅の話であったり。つまり、同じ「生物」だといっても、その「適応」の媒体は、著しく違っている。
むしろ、進化論は、この場合、その具体的な問題系に沿って、経験を調べていることによって、なんらかの「傾向」性を

  • 発見

するわけであって、その発見の内容が、多くの場合、「適応」的に説明が可能なものになっている、ということである。
しかし、もう一度、先程の指摘を思い出してもらいたい。進化論は一種の「トートロジー」によって定義されている、ということを。だとすれば、どういうことになるのか。つまり、ここにある種の問題系の隠蔽がある、ということになるであろう。
そもそも科学は、「統計」的な現象の説明である。つまり、世の中に、少なくとも二回以上は起きているようなことでないと、そもそも「科学的」な方法となじまないわけである。だから、統計的アプローチが正しい、ということになる。適応が「トートロジー」だということは、「統計」的現象だと言うことと、ほとんど同値だということを意味している、と考えられるだろう。
これに反する学問の分野がある。これが、いわゆる「歴史」である。歴史は、基本的には史上

  • 一回

かぎりの現象であることが原則である。カエサルルビコン川を渡ったといえば、歴史上のあの有名な場面のことを言っているわけであり、それは年号や年月によって示される、一回の現象と考えられる。なぜカエサルルビコン川を渡ったのか。これを、もしかしたら、科学的な確率論的な説明によって、「ある一定程度の割合で、彼が川を渡ることが予想される」と言ってもいいが、そう言ったところで、私たちは、カエサルのその行動のそういった説明を求めているわけではないわけであろう。彼は渡ったわけであるが、そのとき、彼はなんらかの「理由」をもって渡った。その場合、私たちは「カエサル」「この時期」「この場所」「ルビコン川を渡る」という、その

  • 一回性

において、その意味を考えようとする。それは科学のような「傾向」性とは趣を異にしたアプローチだと考える。しかし、もしも百人、千人が、何百回と「ルビコン川」を渡っているときの、その「傾向」性を考える、と言うときには、ある

  • 確率論

的な説明が可能である可能性が高くなる。この場合は、細かな「例外」はどうでもいいからだ。ここで問われていることは、統計力学的な傾向性だということになる。
そして、もう一つの特徴は、上記の「進化論」的方法であり、その「説明」は、もともとの「環境」的な開放系から、ある狭い範囲の時代で「仮定」される、一種のクローズ系で考えられている、ということなのである。つまり、社会であり、ルールであり、

  • モデル

によって考察されている、ということなのである。事実、その説明の手法は、この「モデル」のシュミレーションによる、統計的傾向性によって、理論的な妥当さを担保するという方向に行くわけであるから。
しかし、だとするなら、ここにおける「問題」とはなんなのか、ということになるであろう。その説明は「正しい」ということを今の時点では思われる、ということを意味しているにすぎない。もしかしたら間違っているかもしれない。はるか、なん十年も後になって、さらに説得力のある説明をだれかが思いついて、それが定説になるかもしれない。私たちは、こういった事態を「科学」的と呼ぶことに、なんの意味があるだろうか? 昔の説明は「間違っていた」けれども、今の説明は「合っているように思われるかもしれない」けれども、はるか未来には、もっと説得力のある説明が見つけられるかもしれない。しかし、それぞれの説明が

  • 適応主義的

な形式になっているという意味では、適応主義は「正しい」(というか、それ以外なにがある?)。しかし、ここで言っている「正しい」が、「適応主義」というトートロジーという意味で、正しい、と言うしかないという意味ぐらいしかなく、言ってみれば、この状況において

  • 情報量ゼロ

ということを意味しているわけであろう(なぜなら、最初の仮定が全否定されて、まったく違うものに変わっているのだから)。
進化論は、そもそも「観察」による発見を一つの説明体系の前提の変化の条件にしている。ある説明で間違いないと思っていたら、さらに調べてみたら、今まで気付かなかったような事実が「観察」された、というとき、以前の説明がそのまま維持できる保証はない。
ヘーゲルの歴史哲学という表現は、上記の意味においては「矛盾」になるだろう。歴史法則と言うとき、そもそも歴史とは一回性について言うための説明体系だったのだから、語義が矛盾しているということになる。多くの場合、ここでヘーゲルが「歴史」と呼んでいるものが、なんらかの、人類社会の、ある

  • 側面

に特化した形で検討された「モデル」を考えているのであって(それを、かなり長期の時間スパンで考えているのであって)、彼だって本気でこれを歴史だと言いたいわけではないのであろう。
私はここで、上記の意味での、生物学者の中で言われる「進化論」と、通俗的に言われるニーチェ的な優劣格差社会の二つが、どのように繋がっているのかを考えたい。
進化論の説明体系は以下のような過程をたどる。

  • 環境(オープン系)内的(カオス的)モブ現象 --> 社会(クローズ系)内的(モデル的)フレームアップ現象

始めに、私たちはそこに、なんともうまい説明がつかないような現象を発見する。このとき、その現象は「環境」的な現象として、とにかく、その「リアル」を受けとめる。次の段階で、その「うまい説明」、つまり、モデルを見つけだす。そのモデルは、確かに、その現象の発言過程を考えると、かなり妥当な説明のように思われるが、ともかくも、一度見出されれば、これが一つの仮説として流通していくことになる。
しかし、ここで私たちはある「勘違い」をすることになる。
この世界は「進化論」的であることが、あらゆる現象に対して、通用するような「一般法則」を見つけだす「方法」を見出したわけではない、ということである。上記の過程を見てもらえば分かるように、そもそも、各現象に対して、「たまたま」細かく観察を

  • したら

見つけだせた、ということにすぎず、

  • それを見つけだすグローバルな手段を発見したわけではない

ということである。つまり、

  • 進化論は、どんな進化論的問題系に対しても、方法的にその「モデル」化に成功する手続きを記述しているわけではない

だと。しかし、このことは、素人には分からない。なぜ、進化論と資本主義と学校の受験は、似ているのか。それはケインズが指摘したような意味で、

  • 人間社会の「進化論的モデル」はこれだ

といったような「想定」をしているから(自分以外のだれもがそう思っているにちがいないと思っているから)、と考えられるわけである。

  • お金をたくさん集めた人は「善人」で、貧乏人は「悪人」だ
  • 東大に受かった人は「善人」で、東大に受からなかった人は「悪人」だ
  • 生き残った人(子供を産んだ人)は「善人」で、早死にした人(独身の人)は「悪人」だ

といった考えは、一種の「社会モデル」になっており、ある狭い範囲の狭い安定系において、一見すると説得的に思えるが、もちろん、こんなことが「一般的」に成り立つわけがない。ところが、これは「ケインズ」的な美人コンテスト的な意味において、

  • みんながそう思っていれば「そうなる」

的な現象になりがち、ということである。これが、いわゆる、ルソーの「一般意志」である。

  • みんながそう思っている=現代という歴史の「リアル」である

と言うなら、それは一種の「相対主義」的な歴史修正主義に対応して見出される「リアル」であり「歴史法則」だ、というわけである。しかし、こういった考えこそ、どこか「全体主義」を思わせるものはないであろう。ハンナ・アーレントは、このルソーの一般意志という考え方が、結局はナチス全体主義につながるような、危険性を見出したわけだが、実際に、東浩紀さんの「一般意志2.0」は、カール・シュミットにおける「独裁」の議論かは始めているわけで、彼自身も「一般意志」のそういった側面を否定はしていない、というわけであろう。
私は、せんじつめて言えば、一般意志とは、吉本隆明の言う「共同幻想」の説明に包含される程度の意味だと思っているし、東さんの「一般意志2.0」は、この吉本の言う「共同幻想」と同じ意味で使われている(そういった説明は表向きにはされていない)と思っている(あまり、こういった延長で説明されているものを読んだことはないが)。それをビックデータとして、いわば実際の発言の「ボリューム」として

  • モノ

として、吉本隆明の言う「共同幻想」を提示できるんじゃないのか、といった意味での革新性を言いたかったのだろうが、ここで言っている「幻想」とは、「言っている人がいない」という意味でのデマではなく、「多くの人が言っている内容」がデマだ、というところにあるわけだがら、よく考えると、これの何が新しいんだろう、というのはよく分からない感じはするわけである。
なぜ、ラマルク的進化論、通俗的人種主義が、いつまでたってもなくならないのかは、私たちが貨幣を使うのをやめないことや、子供に受験戦争を強いるのを止めないことと、基本的には同値だと思っている。それは、カントで言えば

  • 啓蒙

の対象となるわけだが、いやむしろ、時代は啓蒙なんて無理なんだから、そんなことはさっさとあきらめて、共同幻想(=一般意志)のヴァージョンアップの時代だ、と言うのだから、なにをか言わんや、ナチス全体主義の時代はなかなか終わらないんだな、ということだろうか...。