ある年代以降の知識人というのは、ようするに「新左翼」嫌いの知識人がその事実を「前提」に、基本的な会話を行うようになった、というのが事実のように思われる。
つまり、ここで新左翼と言っているのは、中核派や革マル派のことではあるのだが、つまりは、広く「左翼」嫌いということである。このことは、つまりは、全共闘の70年代が終わって、高度経済成長が本格化した頃から以降の、もう学生運動の時代が終わっているという事実と、しかし、そうはいっても、大学に入学してみて「中の人」になると、けっこう、新左翼というのがその存在感をもっていたという印象が重なって、なんらかの
- ウザさ
を感じ、その「実感」を、いわば自分の「右翼」的な特性の(どこかしらファッション的な)特徴の「言い訳」として、日常的な会話の「ネタ」として使っているうちに、自分の左翼批判と、そういったものとの区別がつかなくなっていった、ということなのであろう。
こういった人にとっては、それなりの学生時代の新左翼との「いきさつ」があって、自分が彼らを嫌いなことには「理由」があると思っているわけだが、しかし、こういった生理的な反応を私たちは
- いじめ
と言ってきたわけであるからして、なんらかのその「凡庸」さが、そいつの「限界」を示しているようにも思われる、ということなのであろう。
60年代、70年代を学生時代として経験した全共闘世代と比べて、それ以降の高度経済成長以降の世代の特徴は、とにかく「左翼嫌い」というところにあるのではないか。それは、バブルが象徴していたわけだが、左翼思想に関係なく、経済的に日本は世界の頂点に立ったということで
- 自信
をもった、ということなのではないか。そこから、左翼という「指導」的な役割を担ってきた人たちを軽蔑するようになる。みんな、自分のことは自分でなんとかなる、と思い込むようになる。そして、それと反転する形で、全共闘世代を
- テロ世代
と解釈するようになる。つまり、「反体制=悪」という価値観である。政党で言えば「<親>自民党」ということである。とにかく、体制側に自分がいないということに「不安」になる。この自らの内面からわきあがってくる不安を回避する方法は、
- 常に自分が「反体制」を「攻撃」し続けるという「踏み絵」をおこない続ける
ということである。自分が「どっち側」なのか、が「生きる」ことと同値になる。全共闘世代の赤軍派による浅間山荘事件は「テロ」として、人間が「正しい」存在として
- 成長
するためには、克服しなければならない「悪」として定義され、全共闘世代は「悪い例」として、嘲笑の対象になる(ここであえて私は「成長」という言葉を使ったが、経済学における「成長」という言葉が、どこかしら「進化」の意味を含んでいることを示唆している。つまり、彼らはいわば「左翼や反体制なしで<善>」を実現すること、体制が「そのまま」善であることを「証明」することへの興味へと移る、)。
自分が「国側」であること、その「国」との
- 一体感
が彼らの「承認欲求」の実現と同一視される。私がこういった思考を「ナイーブ」だと思うのは、自分がたまたま
- 全共闘のない時代に生まれた
ことを考慮して思考していないからだ。そういう連中に限って、戦争中だったらイケイケドンドンの戦争少年になって、60年安保の時代だったらバリバリの全共闘少年になって、現代だったら、冷めたポストモダン「反左翼、反反原発」のネトウヨになる、というわけである。
一度、冷静に考えてみたらどうなのだろうか。あなたの「本性」を。もしも自分が全共闘の時代に生まれていたら、学生運動にのめりこんでいたんじゃないのか、と。逆に聞きたいわけである、どうしてそうじゃない、と言えるのか、と。
だとするなら、今、自分が新左翼を公安の監視対象であるのだから「悪」だと言っている、その自分の判断が、どこまで「まとも」なのか、と。それは、一体、どういった
- 自明性
から言っているのか。本気で深く考えたことがあるのか、と。
たとえば、こう考えてみないか。あなたが中卒や高卒で、大学に進学していなかった、と。いや、そんなはずないって? 俺、頭いいし、家も裕福だから、大学に行かなかったなんてことは、ありえないって? そうだろうか。もしも、家族がサラ金に手を出していて、膨大な借金がたまっていたら、どうなっていたか。勉強のある箇所が分からなくなって、自然に授業を聞かなくなっていたら。
本当にそんなことはない、と言えるのだろうか?
この二つが、ほんのささいな差でしかなく、まったくその人の「アプリオリな才能」とか、そんなものとなんの関係もないということを分かった上でも、そんなふうに言えるのだろうか? そちら側のパラレルワールドでは、中卒や高卒で大学に行かなかった「自分」がいるとして、そいつにあなたは「なんて」声をかけるんですかねw
世の中に冷たくされて 一人ぼっちで泣いた夜
もうだめだと思うことは 今まで何度でもあった
真実(ホント)の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから
逃げだしたくなったことは 今まで何度でもあった
(ザ・ブルーハーツ「終わらない歌」)
中卒や高卒の人たちが学生時代から考えていたことは、自分が試験でいい点数をとらないことから派生して、「世の中に冷たくされて」いるという感情なわけであろう。これは「しょうがない」ことなのか? 本当にそうなのか? いろいろな「いきさつ」によって、勉強をやらなくなるなんて、子供の頃には、いくらでも考えられることではないのか?
そして ナイフをもって立ってた
(ザ・ブルーハーツ「少年の詩」)
多くの場合、こういった傷害事件を起こすケースは、ちょっとした「きっかけ」にすぎず、本当になんでもないようなことで、さまざまな「なりゆき」がつみ重なって起きているにすぎず、本当にこのことが「悪」なのか。「心の闇」なのか。「狂気」なのか。つまり、だれだって、ちょっとしたことで、なんだかわからないまま、犯罪をおかしてしまうのではないのか。そんな「他人事」みたいに言っていいのだろうか?
本当に「表面的」なことは「正しい」のだろうか。まるで「マニュアル」のように、「正解」を口ばしる。そつなく、なんでもこなすのであろう。しかし、そんな連中の言っていることが、どうして「本音」だろうか。見た目の社会人としての「飾り」をはぎとった下にある、そいつの「本性」はまったく別なわけであろう。例えば、長く一緒に生活することになる結婚において、その長期的な同居生活を続けるためには、どう考えても「表面的」な見た目など、なんの意味もなくなる。大事なことは
- もっと別のところ
にある、というわけなのだろう。
明日保健所が来たら 捨てられちゃうよね 僕たち
(ザ・ブルーハーツ「レストラン」)
私が言いたかったのは、いわゆる「学歴社会」に対する不快感だということになるだろうか。「学歴社会」とは、私の言い方をさせてもらうなら、「学歴」のない連中を
- (社会から)「捨て」て当然
だと思う連中の社会だということである(この社会で、人々は学歴エリートによって「周縁」化されている、というわけである)。それに対して私が目指す社会は「<非>学歴社会」ということになるであろう。それは、学歴のある人が生きられない社会ではなく、学歴のある人が
- いばってなく
当然のように、お互いが「同じ」仕事をすることになる社会なのだが、そのことは学歴エリートが「差別」をやめれば、自然に実現されると思っている、とだけ言っておこう...。