小林敏明『柄谷行人論』

全共闘における、その最終段階は赤軍派による、いわば内部テロのような形によって集結した。つまり、この「観念」的な彼らの「粛清」が総括されることなしに、それ以降の未来は考えられない、という認識が広まった。
ひるがえって考えてみるに、この問題が十分に総括されたのかといえば、いささか怪しいと言わざるをえないであろう。
むしろ、ポストモダンの議論の推移に伴って、論点はむしろ「消費社会」における

  • 作法

のような方面へと推移していったように思われる。それは言わば「御用学者」の作法であり、「エア御用」の作法であると言ってもよく、いかに「消費者」を「だまし」て、この資本主義社会を

  • サバイブ

するのかに論点が移っている、ということになる。こういったポストモダン的な「世紀末」的な認識の延長で、物語や「ゲーム」が、なにか「新しい」事態をもたらしているかのように、再注目される。それは一種の「炎上マーケティング」として、人々に動機付けを与えるのに有効と考えられたからであるが、むしろ、そういった「パフォーマンス」のうさんくささが、あらためて再認識されているというのが、3・11以降のSNS社会における人々の認識ではないだろうか。
人々が「繋がる」ということは、こういった「御用学者」的な需要にもとづいて、人々の「繋がり」が動機付けされていく世界を意味するわけで、その発言は「純粋」さを失う。人々がどんな「個人的な動機をもっているのか」は少しも自明ではなくなる。なにかを発言することが、それ自体として

  • だれかからお金をもらってしゃべっている

ということが普通に起きるようになる。そして、そういった事態に対する「責任」を一切とらないというのが、ポストモダン的な「現実法則」として一般化していく。

漱石や丸山が早くから警告を発していたように、明治以降の日本における思想形成はめまぐるしいモードの変転であり、伝統の「無常観」なるものもそのような皮相な風潮のレッテル程度に貶価されてしまった。だからこういう「伝統」のなかでは「思想」などといっても、たかだか消費される「流行商品」にすぎなくなる。日本における「ポスト・モダン」の論議なども、私の眼にはほとんど「思想」の劇画化、もっとはっきり言ってしまえば、資本主義化にしか映らない、

しかし、そもそもそういった態度に対する「倫理」性が問われたのが、全共闘的な活動の動機付けであったことを考えると、私たちにはどこか「うさんくささ」だけが残り、真面目に他人の話を聞く気を失わせる。
浅間山荘事件における赤軍派による「総括」は、言わば、

  • 観念

がそれそのものとして「暴走」する事態として認識された。これを「原理主義」問題として、ようするに「原理主義」をやめればいい、と考えたのがポストモダンだということになるであろう。そういった意味において、ポストモダンはどこか楽観主義だと言える。ポストモダンは、この「原理主義」を<やめる>という、どこか

  • 観念論的

な態度を「選択」することと、消費社会的な「非倫理」性を選択することとを、いわば「同一視」することで実践した。そういった意味において、彼らは「エア御用」的な態度をむしろ「積極的」に選ぶようになる。しかし、これのどこが「回答」だというのだろう。彼らの「繋がり」は、いわば人間関係が強いるものである。その人間関係には、

  • 大衆

は入らない。大衆はしょせんは「手段」にすぎない。大衆は、その「人間関係」を維持するために、いくらでも「だます」対象にすぎない。逆に言えば、この程度の連中はいくらでも「だませる」というのが、彼らの認識だということになるであろう。
それに対して、それがそんなに簡単な話なわけがない、と考え、思考を「続けている」のが、掲題の著者がこの本で論じている、柄谷行人の思索だということになるのかもしれない。
浅間山荘事件における「総括」は、一種の「宗教的な観念性」を問題にしている。そういった意味において、これは、

における「正統」問題に通じるし、この判型は、日本の戦中における「皇国史観」とも関係する。もっと言えば、こういった「観念」性は、まさに

  • いじめ問題

の典型的な様態だということになるであろう。

柄谷が「マクベス論」に連合赤軍事件を読みこんだことに関連して、もうひとつ思い当たることがある。それは西洋古典の読解に託して日本の政治事件を間接的に論じるという表現方法である。じつはこれには前例がある。それは吉本隆明の『芸術的抵抗と挫折』(一九五九年)に収められた「マチウ書試論」(執筆は一九五一年)である。私には、この吉本の「マチウ書試論」が柄谷に「マクベス論」に少なからぬ影響を与えているように思えてならない。

こういった、ある種の「観念」的な思考の「暴力」を、どのように考えればいいのか、について、私たちは今でも戸惑い続けている、と言えるのかもしれない。

ここには観念によってのみ結びついた同士たちの実行力がなければ、本当のところは何ごともなしえないような「一切の意味を拒絶した」自失の人物が書かれている。今となって思えば、これは当時報道でも盛んに書きたてられた男勝りで無慈悲な永田像おためにやや歪められた解釈であるように思われるが、たしかに当時の風潮は永田像のベンダントとしてこのような森像を可能にしていた。じじつ永田の手記にはこんなことが記されている。警官隊に包囲された二人が検挙される直前の場面であるこれを読むと柄谷のアナロジーがいかに鋭敏なものであったかがわかる。

この時、森氏が、
「もう生きてみんなに会えないな」
といった。私は、
「何をいっているのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ」
といった。森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうと思った。「もう生きてみんなに会えないな」という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。しばらくすると、森氏は、
「どちらが先に出て行くか」
といった。私は森氏に、
「先に出て行って」
といった。森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあろうなずいた。こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた。

明治日本以降の日本政治は、「キリスト教」のアナロジーによって行われた。いわゆる皇国史観であるが、そのことは「正統性」の問題と関連して考えられた。そして、そのことは、現在の安倍政権の中心的な人物たちにとっては、どこか「自明」な「宗教的原理主義」によって、営まれていることを結果している、とも言えるだろう。
なにをすべきなのかは、なにが「正統」であり、なにが「正当」であるかに関係している。つまり、一種の「観念」である。その観念は、いわば「意味」という「自明」なるなにかによって、人々を強いてくる。戦争中であれば、それは、天皇への「礼拝」の強制という形によって、日本の人々を「宗教」的に強制することを、かなり強力な形で「強制」することに象徴されていた、と言っていいだろう。この場合、この礼拝を「ちゃんとできない」ことが、体罰

  • 正当化

を与える。そういう意味で、戦中日本は「暴力」と「教育」を区別できなかった。日本は終始「暴力」的な組織であり続けた。
こういった延長において、現在においても問題となっている学校組織内における「いじめ」を考えることができる。「いじめ」は一種の「観念」の暴走である。それは「生理的」な嫌悪が、行うことを強いるわけだが、他方において、その「正当化」は観念によってなされる。「いじめ」は「正しい」から行われる。いわば「正義」のために行われる。
いじめにおいて問われているのは、「だれが正当=正統なのか」ということである。いじめる側は、いじめられる側の「不正義」を追求する。つまりは、いじめられる側を「異端」だと言っているわけである。正しくないから、彼らは「正義の制裁」を、私的に行うことになる。
しかし、この構造は、教師による生徒への「体罰」に非常によく似ている、と言えるだろう。教師が生徒に体罰を行うとき、それは「あなたのためだから」という「温情」を、動機としている。しかし、他方において、教師はその「暴力」の

  • 恣意性

について、自らによって自らを問うことはない。つまりはそれは、一種の「観念」だということを意味している。
頭のいい人が、議論に負けないというとき、それは議論のフェアな判定で負けたことがない、という意味ではなく、上記の「観念」によって、

  • 論点の先取り

をすることによって、一見すると「最初から結論が分かっていた」かのように、「理屈」を捏造するから、と言えるだろう。これが、一種の「ヘーゲル主義」である。あらゆることは、すでに「最初」から、決定していたと言うとき、歴史は「終わり」から語られることになる。これが「物語」であり「ゲーム」である。一見すると物語は、私たちの人生そのものを「マッピング」しているように思われるが、しかし大事なポイントはこれが

  • 最後から振り返って

まるで、「最初から、このように決まっていた」かのように、「しらをきり」ながら、<法則>を捏造するところにある。これが

  • 観念

である。観念の「意味」は、いったい「いつ」生まれたのか? いや、その問いは間違っている。意味など「ない」のだ。最初から、今に至っても。あるのは、常にその言葉に「意味」を与えようとする、人々の「今この時」の行為だけなのであって、それ以上もそれ以下もない、ということである。

売り手がある商品を売りたいと思っても、買い手がそれを欲しいと思わなければ売買が成立しないことは自明である。さらに両者の間に「売りたい - 買いたい」の気持ちができたとしても、まだ売買は成立しない。物々交換であれ、金銭による売買であれ、互いに交換されるものの間に交換比率が決まらなければ取引は不可能だからである。この交換比率は、むろん最初は手探りでおこなわれるだろうが、いったんそれが成立すると、その既成事実がひとつの(修正可能な)ルールを形成することになる。以後はそれに基づいて売買がおこなわれ、そこに一定の商取引、さらには商業システムが成立することになるだろう。マルクスはこの瞬間を「命がけの飛躍」と呼んだが、柄谷はこの関係を言語ゲームや人間交通一般にまで敷衍しながら、ここにひとつのパラドックスを見出す。

「意味している」ことが、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、"文脈" があり、また "言語ゲーム" が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる ------ 規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

ここで言われる「意味している」という事態は交換やコミュニケーションが成立していることとアナロジカルである。さきの「教える - 学ぶ」の関係で見たように、われわれはふだんルールが先行すると考えている。だからなによりまずそれを学ばなければならない。ルールを知らずしてゲームを始めることはできないからだ。それは一面において正しいのだが、しかし、この飛躍の瞬間から見なおしてみると、じつはその先行するかに見えるルールないしコードが「事後的」にしか成立しないということである。ルールに基づいた意味や理屈は遅れてやってくるのだ。

この本でも検討されているが、上記の全共闘に対する「考察」を見ても、柄谷さんの仕事は常に「状況」論的なものであったことを意味しているのではないか、と思われる。つまり、一見すると、彼の抽象的な考察は、その裏において、常にそのときどきにおける、なんらかの「(政治的)関心」と離れて考察されることは、結局はなかったのではないか。
しかし、そのことが彼の「批評」を、ビビッドな時代的意味を与えてきたように思われる。そもそも言葉が、その時代的な「指示」対象を離れて「意味」をもつはずがないわけであり、そういう意味において、言葉が「固有名」性を離れてなにかを与えうるという考えが

  • 観念

なわけであろう。そういった凡庸な哲学の「辞書」を作って、なにかを言った気になっている「研究者」とも「ポストモダン」的な資本主義的パフォーマンスとも違った方向から、一貫して考えているから、多くの人に柄谷さんの仕事は刺激を与えてきた、ということなのだろう...。

柄谷行人論: 〈他者〉のゆくえ (筑摩選書 111)

柄谷行人論: 〈他者〉のゆくえ (筑摩選書 111)