「津波てんでんこ」のあの日

3・11のあの日、津波が東北の海岸際を襲った日。津波てんでんこの子どもたちは高台に向かって走った。後ろから津波がやってこようとしている、まさにそのときに。
他方、大人たちは渋滞の中で動くはずのない車にしがみつき、わが家への執着に後ろ髪を引かれ、

  • きっともう少しなら大丈夫の「はず」だ

と言っている間に、津波にさらわれ、帰らぬ人となった。
もちろん、だからといって大人たちが間違っていたと言いたいわけではない。彼らはもしかしたら倫理的だったのかもしれない。家の中の足の悪い老人を連れて避難するには、車しか手段がなかったのかもしれない。しかし、だとしても、一つだけはっきりしていることは「津波てんでんこ」の子どもたちは助かり、そうでない大人たちは亡くなった、ということである。
私は頭の中で想像する。あの日。一目散に普段は走らない道路の上を、まるで、毎日体育の授業で走っている土のトラックの上であるかのように、まるで百メートル競争のように、

  • なんの後ろ髪を引かれることなく

高台に向かって、一目散に走っているその姿を。
私がここでこだわっているのは「なぜ」大人たちは走ることをためらったのに、子どもたちは力強く走れたのか、なのである。つまり、私はそこに、

  • (フランス的文脈における)野生の思考

を考えたわけである。
子どもたちの目線の先には何が見えていたのか。
普段の彼等は、毎日グランドを走る。徒競走をさせられている。かけっこをさせられる。彼らはここで気付いたのではないか。「この日」のために、それらのトレーニングをしていたことを。運動会でのかけっこは「ビリ」を決め、イジメ対象を公開の場で選別するための「アリーナ」ではない。3・11のとき、道路を走る彼等は「全員」が勝利したことを理解する。かけっこは、走ってゴールに到達したことが勝利なのだ(なぜなら、みんな生き残れたのだから)。もっと言えば、この勝負に負けたのは「津波」だった、ということになる。
大人たちの「ためらい」は「それ」に傾けてきた彼らの「時間」に比例していると考えられる。それだけ、それに思い入れがあるため簡単には手放せない。
例えば、部屋の整理法として「断捨離」というのがあるそうである。つまり、一年間使わないものは、どうせこれからも使わないのだから捨ててしまえ(現世への我執を捨ててしまえ)といったようなことのようである。しかし、そうであっても「思い出」のものは残しておいていい、というわけである。つまり、ここでは「思い出」のものは限定されている、という考えなのだ。
しかし、私たちにとってそういった「判断」は、常に曖昧に思えている。なにが自分に大切なのかは、常にその時点において「曖昧」なものである。そういった意味において、これは「えいや」と決めろと迫られている印象を受ける。
私たちにとって大事なことは「がんばらない」ことである。なにも、やる気が起きなければ、やる気にならないのであれば、やらなければいい。それでも可能な「秩序」だけが、持続可能だ、ということになる。
このように考えたとき、「デジタル・アーカイブ」化は、一つの代替策だ、ということになるであろう。
時間のある暇なときに、こつこつと、

  • 本の自炊(=電子書籍化)
  • その他の書類も自炊
  • 形のあるものは、画像・動画、3D計測(CAD化)

にしてしまう。つまり、一切の思い出は「デジタル情報」にしてしまう。そのモノ自体はこれをした後捨ててしまっても、こういった情報さえあれば、けっこう私たちの記憶は満足する、という側面があるからだ。もちろん、こういったデータは一箇所に固めておいては、それが破壊されたときこそ、一切の「無」となるわけで、複数箇所でのバックアップ、クラウド化が必要ということになり、なかなかデータ量は膨大になることは避けられないであろうが。
なぜ大人にとって、こういった「デジタル・アーカイブ」化が必要なのかは、それだけ私たち大人は現世に執着してしまっている、ということを意味する。非常に長い時間をかけて働いて稼いだお金で買ったものは、そう簡単に手放せない。なぜなら、そんなに簡単に手放したら、まるで、その間に行って自分の「労働」は、それだけの無意味な行為だったということを認めるように思われるではないか。私たち大人は、自分が今まで生きてきた間に行ったことには、すべて意味があったのだと考えたいのだ。そうでなければ、死んでも死にきれないわけである。
この問題は、もう一つ別の方向から考えることができる。大人はある意味において、この世界を

して見ている、ということである。例えば私的所有権というのがある。これはリバタリアンにとっても、欠くことのできない概念だが、つまり、リバタリアンアナーキストでない、ということを意味する。
リバタリアンにとって、この世界のモノは、「誰のモノか」という問いと離して考えることはできない。あらゆるモノは、すべて「誰かのモノ」なのだ。これによって、リバタリアンにとって、世界は次のように見えていることが分かる。

  • リバタリアンの世界を構成しているもの:人の集合
  • 所属:人 --> モノ

このリバタリアン世界には、人しかいない。つまり、人と人の関係しかない。そういう意味では、非常にスッキリしている。では、モノとはなにか。それは、誰かに、集合論的な意味において属している、というわけである。よって、そのモノについて考えるときは、その所有者の問題に還元すればいい、ということで段階として、スッキリしてくる。
私的所有とは「契約」的な概念である。つまり、法的な概念である。つまりこれは「社会契約」論の範囲の話だということが分かる。ということはどういうことか。3・11において、今まさに、津波が襲ってきて、この街は木っ端微塵に壊されることが分かっているとき、私たち大人は、この街を眺めて、恐しい禁忌の感情が湧いてくる。というのは、私たちは、たとえ自分が行うわけではないとしても、これらの町並みを壊しては「いけない」と思っているからだ。なぜなら、もしも、それと同じように

  • 自分の家が壊されたら困る

と考えているのだから、その「相等」性において、これらの町並みも壊されてはいけない、と思っているからだ。これが「社会契約」の考え方である。
しかし、そんなことを「自然」に向かって言って、一体なんになるというのであろうか。つまり、なぜこんな「理不尽な思考」に私たちが囚われているのかは、私たち大人の、この社会に対する

が、こういった「極限状況」においては、適合性を失い始めている、ことを意味しているわけである。
上記では大人にとっての、この世界について記述した。では、これが「子ども」にとっては、どうなっているのかについて描いてみよう。

  • 子どもの世界を構成しているもの:人、モノの集合

これだけである。つまり、これは何を意味しているのか。人とモノが区別されていない、ということである。子どもには私的所有という概念がまだ、よく分かっていない。街の中にビルがあっても、これが誰か特定の人に「所属」しているということを、まず、考えない。そのビルは、たんにそのビルであって、それ以上でも、それ以下でもない。

「われわれは動物が何をしているか、海狸(ビーバー)や熊や鮭やその他の動物が何をもとめているかを知っている。それは、むかし人間の男は動物と結婚し、妻とした動物からその知識を得たからである。......白人はこの土地に暮らすようになってからまだ日が浅い。したがって動物のことをあまりよく知らない。ところがわれわれは何千年も前からここに住んでおり、ずっと昔から動物に教えてもらっている。白人は何もかも本に書きとどめて忘れないようにする。ところがわれわれの祖先は動物を妻とし、彼らの習性をことごとく覚え、その知識を代々伝えてきたのである。」(Jenness 3, p. 540)

野生の思考

野生の思考

言わば、子どもの世界は、大人の世界にとっての概念ではなく、「比喩」の世界だと言ってもいい。このアニミズムの世界に対して、レヴィ=ストロースは『野生の思考』において、サルトルエスノセントリズムを批判する形で、

  • 「比喩」の世界の「合理性」

について語るわけである。

サルトルのもう一つのゆきかたは、譲歩して「発育不全で畸形」(Sartre, p. 203 ---- 邦訳第一冊一四五頁)の人類をともかく人間の側に入れることである。しかしその場合にも、人間としてのその存在は、固有のものとしてその人びと自身に帰属するものではなく、歴史ある人類がどう扱ってくれるかによってきまるものであることをにおわせる。つまり、植民地の状況に置かれて歴史なき人類が歴史ある人類の歴史を自己のうちに取り込み始めるとか、もしくは、民俗学そのもののおかげで、歴史ある人類が、意味を欠いていた歴史なき人類に意味の祝福を与える、ということによってきまるとするのである。
野生の思考

例えば、次のように考えてみよう。私たちは今、生きている。ということは、今から昔は、今の科学の到達していない時代だということである。そういう意味で、今の私たちの視点から、過去を見たとき、「すべての人」は、今の科学の到達を知らないで思考しているという意味で

  • 無知

である。同じことは、文化人類学におけるフィールドワークの対象である未開民族や、子どもたちの生態についても言えるであろう。これらは、現代の大人の「作法(=概念的作法)」を踏襲していない。しかし、だからといってそのことがサルトルの言うような意味で、「無能」的な存在ではない、ということである。
レヴィ=ストロースは、「彼ら」も現代人と「同じ」ように、論理的だと言う。つまり、彼らの論理は「比喩」であるが、その意味は、現代の大人社会も、「ある意味において比喩」だということである。
このように考えてみよう。なぜ私たちは今、ここにいるのか。それは先祖が「滅びなかった」からである。そういう意味で、先祖は「合理的な計算」をして生き残った、と考えられる。先祖たちは、今から見て、十分な知識がないにもかかわらず、

  • 徹底した思考

によって、合理的な理性を生きていた。その「思考」は現代から見れば「野生」そのものであるが、たとえそうであっても、現代に劣ることのない合理性、つまり、現代と変わらない「思考」であった、ということである。
子どもたちの世界は、人とモノの区別のない世界である。つまり、アニミズム的世界であり、モノがまるで人であるかのようにあらわれる世界だと言える。このことが何を意味しているのかを考えたい。
アニメ「プラスティック・メモリーズ」の世界において、アンドロイドが実現され、人々はアンドロイドとの共存を生きている。人間たちは、まるで、今のペットとして、犬や猫と一緒に毎日を生きているように、アンドロイドと何十年も生死を共にする。
しかし、この世界のアンドロイドの特徴は、耐用年数がある、というところにある。何十年か経過すると、アンドロイドは経年劣化により、OSのクリーンインストールを必要とする。つまり、人格の消滅である。もちろん、再度、OSのインストールをし直せば、見た目はまったく「同じ」存在との、継続して生活は可能であるが、この「専門家」から見たとき、これはまったくの「別人」となることと同値と解釈される状態であることを否めない。
第8話において、ある裕福な家のおばあちゃんは、自分と長い年月を共に過ごしてきた、アンドロイドの経年劣化を向かえ、彼女は、OSの入れ替えによる、契約の継続を選ぶ。業者は彼女に、OSの入れ替えが終わった後、このアンドロイドがまったく<別人>となることを注意するが、それに対して彼女は

  • 私は同一人物だと考えています。

と言うわけである。
このケースの特徴は、このアンドロイドの「見た目」は、まったく、OS入れ替え前と変わらない、というところにある。つまり、ここで<別人>という意味が、このアンドロイドの専門家にしか、技術的なその「意味」を理解できない、ところにある。おばあちゃんにだって、OS入れ替えという、ある種の「儀式」が行われた後、確かに、このアンドロイドの「性格」が変わっていること、過去の記憶が引き継がれていないことぐらいは、すぐにわかる。
しかし、こんなことぐらいなら、別に、人間にだって起きないことであるわけではない。しかし、だからといって、そうなった人を「他人になった」と私たちは思うことができるだろうか?
ここには、「人」と「モノ」を、果して人間は、区別できるのか、が問われていると考えることもできる。
例えば、このことを逆に考えてみよう。おばあちゃんは、このアンドロイドをOS入れ替え前の彼女と「同一」に扱う。そうしたとき、このアンドロイドは自分を「どう」考え始めるだろうか? このおばあちゃんは馬鹿だな、と思うだろうか。低能だ、と思うだろうか。というか、このアンドロイドは、もしかしたら、自分はOS入れ替え前の「自分」と

  • 同一

なんじゃないか、と考え始めるのではないか? これはどこか、人間の「遺伝子」に似ている。ある子どもが交通事故で死んだとき、その細胞から、同じ遺伝子の子どもを「コピー」したとき、そのコピーされた子どもは、回りから、「以前」の自分自身の影を、読み取られていることに気付く。これは、アメリカ大陸の黒人たちが自分たちの

  • ルーツ

を求めて、アフリカ大陸での祖先たちの生活に思いをはせることに似ている。
このアンドロイドはきっと、このおばあちゃんのことに「思いやり」を深めるにしたがって、なるべく、以前の自分のように、自分をふるまいたいと思うようになるのではないか。そうすることで、おばあちゃんが「喜ぶ」ことを知り、この知的なミームは遺伝していくわけである。
もちろん、アンドロイドは人間ではない。アンドロイドに人間を読み取る態度は、大人の契約社会、リバタリアン的な私的所有権に反する。しかし、そういった「野蛮」な、「野生」の「思考」が、その考えに考え抜いた、究極の思考の果てに、人とモノの大人の社会を超えた

  • 倫理

が生まれるのかもしれない。私はそういった「可能性」を、津波てんでんこの、あれだけの被害をもたらした、3・11の地震津波の街中を、

  • 無意味

に、まるで学校の土のグラウンドの上で毎日行っているように、かけっこを、道路の上で行っているという、その、ドロドロとした人間関係のしがらみをふりはらった「透徹さ」を、どこか読み込んでしまうわけである...。