保阪正康「安倍首相 空疎な天皇観」

有名なマルクスの言葉を紹介すれば、

  • ヘーゲルはどこかで言っている。あらゆる世界史上のいだいな出来事と人物は言わば二度現れると。彼はこうつけ加えるのを忘れていた。「一度目は悲劇(トラジック)として、二度目は茶番劇(ファルス)として」

となるわけだが、これが、岸信介を「一度目」としたときの、安倍総理の「二度目」というのが分かるであろう。
なぜ今回の日米ガイドラインの議論は、しょうもない、不毛感しか伝わってこないのだろうか。それは、早い話が、安倍総理という一人の人間の

  • オナニー

を私たちが見せられている、という感想があるからであろう。
今回の安保法制は、早い話が「憲法違反」ということに尽きているわけであろう。

「今まで歴代、安全保障に関わる法制に取り組んできた内閣は、必ず支持率を落としています。ある程度支持を削るのは覚悟の上です。我々は支持率のために政治をやっているわけではありません」
(赤坂太郎「「安保と談話」 安倍が拘った二つの悲願」)

安倍首相はこれを、「支持率」の問題に還元している。しかし、安倍首相はこれまで内閣法制局やNHK人事を自分の意のままになる人物をごり押しして、もぐり込ませて、押し通している。結果として、国内のほとんど全員の憲法学者によって違憲または違憲の疑いと言われる事態になっているわけで、今回の問題は、解釈改憲というより、その解釈改憲が「違憲」である、というところにある。そこが、安倍総理のおじいちゃんにあたる岸信介による60年安保との大きな違いになっている。
例えば、自衛隊は実質、軍隊なのだから違憲である、という議論がある。しかしその場合に、そこで言われる「違憲」と今回の「違憲」では、質が違うんじゃないのか、という違和感なのである。

長谷部 憲法解釈が変わったことがあるというお話ですが、たしかにあります。ただ私の知る限り、真っ黒だというものを白に変えたという例は、ないと思います。靖国神社公式参拝についての解釈の変更の例(注4)がよく挙げられますが、あれは、できるのかできないのかよくわからないという問題について、ここまでならできるという形で憲法の解釈を変えたということです。今回の例と類比可能なものでは、ないだろうと考えています。
礒崎 憲法制定議会では、吉田茂総理は、自衛権は当然有するのだが、戦力を持たないので、行使できないと答弁していたのです。ところが昭和29年に自衛隊が発足する。こういうこともあったのでして、憲法制定当時からは大分話が変わってきています。
長谷部 その点も、戦争はできない、戦力は持てないというのは、今の政府でも立場は変わっていないはずだと考えています。
礒崎 それは変わっていないです。
松本 長谷部さんは昨年7月6日付の朝日新聞朝刊で、解釈改憲が「終わりのないプロジェクト」だともご指摘になっています。従来の政府の解釈を変えてもかまわないのだということが今回明らかになったことで、今度は後の、別の政府が「集団的自衛権は行使できない」とひっくり返す可能性も生まれた。その意味で「閣議決定による解釈改憲は大問題だが、これで日本が新たな局面に入ったかというと、入っていない。今回政府は極めてあやふやで不安定なものしか得ていない」と述べておられます。
長谷部 これは2通りの考え方ができるのだろうと思います。おっしゃるとおり、去年7月1日の閣議決定による解釈の変更は、あれは間違っていたのだ、そもそもこんな変更ができるはずがないのだという立場を、後の政府がとるということは考えられる。その場合には多分、元に戻すことになるだろうと思います。
しかし、去年の7月1日のような閣議決定もありで、今まではできないと繰り返し明言してきたこともできるようになると、政府による有権解釈というもの自体のステータスが根本的に不安定化したのだということになる。これからは政府が「憲法でこれができる」「これができない」と言っても、「今の政府は今のところはそう言っているね」という、ただそれだけの話になってしまう。そういうことになってしまっているのではないかと思います。
(「切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上)」)
切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) - 礒崎陽輔 柳澤協二 長谷部恭男 小村田義之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

上記のポイントは、長谷部教授は明確に、「戦争はできない、戦力は持てないというのは、今の政府でも立場は変わっていないはずだ」と述べていて、その含意は、必ずしも、自衛隊が「憲法違反ではない」と憲法学者たちが判断する余地があった、というところにあったわけであろう。
そこがポイントのはずなのに、安倍首相の側近であるはずの磯崎氏は、ずっとピントのずれたことを言っている、というところにあるわけであろう。
つまり、磯崎氏は今回の安保改正が「憲法の安定性」を無視しなければできない、ことを自覚しているわけである。
つまり、どういうことなのか?
今回の日米ガイドライン改正から、閣議決定衆議院通過、今の参議院での審議とつながってきて、一つはっきりとしてきたことは、安倍総理が自分の回りを「イエスマン」で固める戦略、つまり、内閣法制局長官の人事への介入や、NHK人事への介入を介して、非常に質の悪い

  • ブレーン

によって回りの配置をしたことによって、そもそも無理筋の国会運営を、これら質の悪い、「頭の悪い」連中によって手配され、その結果として、

  • 想定以上に無理筋の国会運営を強いられている

ということが言えるのではないか。つまり、今の国会は一種の「失敗」なのではないか、ということなのである。
安倍首相は今、「妄想」の中を生きている。そして、彼とその妄想を共有する連中が、彼の回りを固めている。その妄想に対して、現実の「リアル」が今さらながら、彼に牙をむきはじめている。
つまりどうも、安倍首相を含めて、彼の回りの「お友達」たちは本気で、この法改正が「憲法違反」であるという「意味」が分からなかったのではないか。つまり、ここまでの反発の意味を理解していなかった。
しかし、その反面において、こういった「手法」をナチスが使って、ファシズムを実現した、という、その手法自体に対する、「ナチスを真似た」という自覚はあるわけである。
安倍首相は新国立競技場のゼロベースでの白紙撤回に追い込まれた。しかしそれは、安保法制を通すための隠れ蓑と考えられた。しかし、今回の磯崎氏の辞任問題は、実質的な、

  • 今回の安保法制の白紙撤回

と同様の意味をもってきているのではないのか。なぜなら、実質的に、今回の安保法制を推し進めたのが、この磯崎氏なのであろう。この磯崎氏が安倍首相に「大丈夫」と言い続けてきたから、ここまで来たのであろう。ところが、この磯崎氏自身が大丈夫じゃなかったことが判明したのだから、もう、この法律自体が終わりなのだw

たとえば、二〇一三年四月二十八日に行われた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」である。この式典は歴代内閣で行われたことはなく、その後の二〇一四年、二〇一五年にも行われていない。何か奇妙な印象を与える国家行事なのである。

この式典挙行までの経緯やその裏側を取材していた、宮内庁担当記者はこう証言する。
「この式典は土台無茶な話で、六十一周年という中途半端な節目のときに安倍さん主導による、世界に誤解を与えかねない式典だった。はっきり言えば、安倍さんは、日本国憲法アメリカからの押しつけであるとのイメージをつくりたかったのです。一九五二年の主権回復までの政治的な出来事は、すべて占領下の押し付けとしたかった。安倍さん周辺の若手はそういう言い方をしていました」
なんのことはない。きわめて政治的かつ理想的式典だったことになる。だから自民党のどの内閣もここまでは手をつけなかったのである。

この式典が政治的と言われる第二の理由は、その背景に、ある歴史館が感じ取れるからだ。それは、刑死者七人を含むA級戦犯を合祀した靖国神社松平永芳宮司が語っていた歴史館である。松平元宮司は、戦争には軍事と政治の両面があり、一九四五年八月十五日は軍事の戦争が終結した日、一九五二年四月二十八日は政治の戦争が終結した日との考えをもっていた。
つまりアメリカを中心とする連合軍は、六年八ヶ月にわたり日本を占領したわけだが、これを「政治の戦争」と見るわけである。A級戦犯の刑死者七人は、この歴史観でいくと、「政治という戦争の側面での戦死」であり、靖国神社に合祀されるのは当然ということになる。
この見解は、松平元宮司をはじめ、右派系の学者や研究者、ジャーナリストなどによっても主張されている。安倍首相のいう「占領憲法」「押しつけ憲法」というのは、こうした思想てき 背景からの見解だということもわかってくる。

さらに付け加えれば、両陛下が退場されるときにテレビカメラの前で、「天皇陛下万歳」の声が起こったのも異様であった。こうしたことを行えば行うほど、「主権回復の日」を権威づけるための皇室の「政治利用」だと受け取られることもやむをえないだろう。
前述の高良前副知事は、「万歳が起こったことに私は驚いて、身体が一瞬すくみました。私たち沖縄県民は、とても万歳という気持ちにはなれません」と振り返る。
あの万歳三唱には安倍首相も加わった、という。
内閣には一定の節度が求められるはずだが、その辺りの線引きが安倍首相の頭の中で曖昧なままなのではないか、と私は危惧を覚える。

安倍首相の何が問題なのであろうか? 彼は今回の安保法制で、本格的に憲法違反を実行してきた。しかし、それが彼の「思想」において、本質的に重要で、国民との天下分け目の決戦をやるという覚悟で、

  • 今回の法改正で、この日本国民のあらゆる価値観を変えてみせる

くらいの覚悟でやってきている、というならまだ分かるわけである。つまり、それくらいに国民に向かって、自分の意見を理解して、賛成してくれ、と言っているなら、まだ分かるわけである。
ところが、そんなこと、まったくないわけでしょう。上記で最初に引用したように、そもそも最初から、国民を説得しようなんて気概がない。安保の話である限り、どうせ国民の過半数は反対するにきまっている。
じゃあ、やめればいいんじゃないんですかねw
説得するという気概もないわけでしょ(というか、説得できると思ってるなら、憲法改正国民投票をやっているわけですけどねw)
まあ、ヘタレっていう、一言に尽きるわけですよねw
そんなことより、国民にこそこそ隠れて、自分が「やったった」と思えるような、クーデター的「火遊び」を彼のお友達たちとずっと続けていたい。彼は国民を信じていませんから、そもそも「説得」という考えがないんですよね。正しいのは自分で、自分の考えに従うのが国民だと考えているわけで、自分が必死になって、なんでサヨクの国民を説得しなければならないのか、と思っている。

六年前、小沢氏が天皇陛下と中国首脳の特例会見を強引にセッティングし、それを「国事行為」だと記者会見で正当化したとき、安倍首相(当時は野党)は自身のメールマガジンで、<天皇の政治利用は、好きにやらしてもらうとの宣言といえる>と批判したことがある。
むろん、安倍首相にも政治家としての定見はあるのだろうが、小沢氏を批判しらときとは、皇室に対する姿勢が異なるのではないか。

安倍首相は結局、「自分」の人なわけでしょう。彼の口から出てくるのは、岸信介という「おじいちゃん」の話ばかり。でもそれって、つまりは、自分のことだよね。自分がどう思ったか、自分がなにが嫌か。そういう意味では、エヴァの碇ジンジ君と同じなのだ。

  • 憲法違反を行って、おじいちゃんを超えたオレ、スッゲwwwwwwwwwwwwwww

って思っているだけでしょ。上記の最後の引用は、自民党が野党時代の小沢氏への批判であるけど、そもそも、こういう言葉使いをしていること自体が、いかに安倍さんが天皇を「政治利用」という視点でしか考えていないことが、よくわかるんじゃないですかね。

  • 安倍首相って、憲法を破ることが<楽しい>んでしょうね

つまりは、この戦後憲法に必死になって従って、それを守ることに意味があると考え生きていた、天皇を「間接的」にバカにしているんだよね。安倍首相は、自分とその「お友達」が共有している「政治思想」が大事なのであって、天皇が今の憲法に従っている「事実行為」など、どうでもいいわけでしょう。つまりは、

  • 安倍首相には、天皇へのなんの思い入れ(人間としてのリスペクト)も感じられない

わけですよね。彼は最後まで、こうやって自分の周りで「よいしょ」してくれる「お友達」たちと火遊びして、国民を挑発して、「火遊び」しているコドモなんでしょうね。私たちはこの安倍首相という「碇ジンジ君」という「ファルス」の最後の結末を見続けていく、ということになるのでしょう...。