魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』

近年、「集合知」ということがよく言われるようになった。その場合、その意味はいわゆるビッグデータといったような「統計」処理によってあらわれる、なんらかの「一般意志」のようなものを意味するといったような「ネット情報論」による解釈が一般的ではあるが、しかし、本来の意味を考えてみると、必ずしもそういったものだけではなかったはずである。
つまり、そこでのポイントは「多様性」にあったはずなのだ。
なぜ多様な考えが共存することになるのか。それは、一人一人の経験自体が「多様」であるからである。それぞれが一つの答えなのであって、その多様な答えを「そのまま」受け入れることが、社会のレジリエンスを高めることになる。
どうしても、学校テストや、エリート教育においては「答え」というのが重要視される。つまり、点数である。しかし、そういった序列化は、この社会の多様な「適応」であり、イノベーションへの、さまざまな角度からのチャレンジによる「競争」の重要さを考えたとき、ほとんど意味のない序列であることが分かってくる。
例えば、ハイデガー以降の哲学は基本的に「不安」を巡る社会学が中心となっている。どのようにして、そういった社会不安に手当てをするのか。これに失敗した例として、第二次世界大戦の戦火を考えることもできる。相手に先に攻められる「不安」から、こちらが先に攻めることの「合理性」「正当性」をその

  • 不安

をベースにして主張することは、今の安保法制においても変わっていない。
こういった不安の手当てという意味では、ジョン・ロールズ以降の現代西洋の正義論においても、その手当てに成功していない印象を受ける。このリベラリズムの特徴は、基本的には、この「社会」の中で生きる一人一人の「思想」を統制しない、というところにある。つまり、多様性を自明の前提にしている。しかし、ここで言う「多様性」は、本当の意味における多様性ではない。それは、

  • メタ統一性

における、「統制された」多様性と言うべきであろう。つまり、リベラリズムは各思想に対して、具体的に介入してこない。というか、興味をもっていない。彼らが関心があるのは、それらの思想は、ある一般ルールに対して「逸脱」してきたときだけである。各自がどんな思想をもつかは自由である。その自由を担保した上での、なんらかの「平等」を目指すのがリベラリズムであって、問題はこの「平等」原則にそれらの思想が背反してこない限り

  • 興味をもたない

というのが、正確な言い方だとわかるであろう。
つまり、ある意味における「皮肉」がそこにある。リベラリズムの本をいくら読んでも、人はどのように生きるべきかとか、どうやって不安を回避すればいいかとか、一切、でてこない。リベラリズムは、人々を「不安」にしたまま、放っておく。彼らに興味があることは一つだけで「自分は間違ったことをやっていない」というだけにすぎない。私たちがお金持ちのリベラリストの説教に辟易するのは、そういうところだということになるであろう。
ある意味において、西洋思想は袋小路に入っている印象を受ける。つまり、ハイデガー問題というもので、現代社会を生きる人々は、結局のところ、自らの内面から湧き上がってくる「不安」を、どう扱っていいのかが分からないのだ。前回紹介した、「自由からの逃走」もそうだけど、現代という資本主義社会において、なに一つとして確かなことはない。明日、一文無しどころか、一生かかっても返せるわけのない借金を背負わされていることになっていたとしても不思議ではない。現代はさまざまな「自由」を制度として内包させ、人々を巨大な流動性の中に定着させる

  • 都市化

を実現したがために、だれもが、なんらかの「不確実性」の中を生きることになった。つまり、

  • なんのために生きているのかが分からなくなった

のである。
例えば、プラグマティズムにしても、結局何が書いてあるのかと考えてみると「家族」なのではないだろうか。子供は大人になって、結婚をして、子供を産む。その子供を育てることが、結果として、国家の「国力」となる。
しかし、そう考えるなら「コスパ」を上げるということは、子供を育てない人間は不要だ、ということになる。余計なエネルギーを使い、社会に「無駄」を生み出すわけであり、子供を育てない人間たちは、早く、この社会からいなくなってしまえば、国家は「余計な財産を穀潰しに奪われずにすむ」わけで、

  • 国家のためになる

というわけである。
こういった考え方が私などには不十分に思えるのは、そこに「多様性」がないからである。多様性のない国家は滅びる。フラット化された社会は滅びる。徹底してフラット化に抗うことのない社会は、そもそも、その存続を続けることができない。私がいわゆる「ポストモダン」と呼ばれていた連中を軽蔑するのは、そういったところにある、と言ってもいいであろう。

経典には、「衆生とは業を自らのものとし、業の相続者であり、業を母胎とし、業を親族として、業を依りどころとするものである」とも言われているが、仏教の立場からすれば、衆生というのはまさにそのように徹底的に業に条件付けられたものであり、そうした業と縁起によって形成された枠組み(世間)の中で、条件付けられた欲望をもち、条件付けられた欲望の対象を見出して、それらを次から次へと追い求めながら、鼻先に人参をぶら下げられた馬のごとく、終わりのない「不満足」の生を繰り返しの中を、盲目的に走り続けるものである。

仏教の特徴は、言ってみれば、上記で挙げた「不安」に、その創始者であるゴーダマ・ブッダの最初から取り組んできた、というところにあると言えるのではないか、と考えている。そういった意味で考えたとき、西洋観念論の、ヘーゲルニーチェがすでに、仏教に対して、少なからず「意識」していたということは、一つの示唆になっていると思われるわけである。
仏教は一種の「形而上学」になっている。つまり、私たち衆生の人間においては、あらゆる欲望はすでに、なんらかの「物語」によって「構造」化されている。それを、ヘーゲルは「欲望」と言い、彼はそれを「他者に媒介された欲望」と定義した。これに対して、仏教は言わば、その「構造」から、

  • 抜け出す

ことを「修行」の過程において実現させる、という構想(プログラム)になっていることが分かるであろうが、問題はその形而上学的な説明の「意味」なのである。仏教においては、この「意味」は実践的にしか示されない。つまり、「概念」的に説明されることはない。だったら、仏教は無意味なのだろうか?
仏教が無意味かどうかを考えるとき、私は上記における「多様性」を重要視する。この社会の問題は何度も言っているように「不安」である。それに対して、少なくとも仏教はそれを「形而上学的にであろうと」、なんらかの解決を示そうとしている。ここで、問いを変えてみるわけである。

  • そういった人たちが一定程度、社会にいることは多様性の観点から「健全」なのではないか?

と。私たち衆生を生きる人間は、言わば「ステマ」的な欲望に媒介され続ける存在である。つまり、私たちの思考は、すでにその時点で、なんらかのステマ的な意図に媒介されているエア御用的な発言であることを否定できない。これが「ポストモダン」的な人間の定義であった。この社会自体が「ステマ」化されているのだから、その「外」はない、というわけである。あらゆる言説は「商品」であって、それを「売る」人のステマ的な意図に媒介されている。もはや、なにが真実で、なにが嘘かを考えることは無意味だ、というわけである。
しかし、それは一つの「リベラリズム」的な、社会の「一様」性が強いてくるプラグマティックな、悟性だということにならないだろうか。こういったポストモダン的な認識は、社会の資本主義化を礼賛し、「これ以外の選択肢はない」という認識を強要してくる。しかし、社会の「多様化」が、そういった凡庸な功利主義の延長で、説明することで担保できるのかは、まったく別の話なのではないか。
そもそも、なんらかの「ステマ」的な嘘への「汚染」は、最初から「相対的」な問題であるはずだ。つまり、多様な人々の存在を許容し、実際に社会の多様さを担保しているかどうかが、こういった「ステマ」汚染から、社会の健全さを守るのであって、それ以外の可能性など、そもそもありえない。
そういう意味で、別に、世界中の人が仏教徒になる必要はないと思うが、一定程度に仏教の「実践」に興味をもつ人があらわれることが、必ずしも、社会の「健全」さを意味しない、とまでは言えないんじゃないのか、程度には考えるわけである...。

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

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