西垣通『ネット社会の「正義」とは何か』

言うまでもなく、東浩紀さんの『一般意志2・0』という本は

である。つまり、いわゆる「トンデモ学会」というところがとりあげてもおかしくないような意味でのトンデモ本であるが、どうもそう思っていない若い人が多いようである。そういう意味では、ぜひ、この本を読んでしまった若い人には、掲題の本を併読されることを希望する。それによって

  • 解毒

されると思うからである。もちろん「トンデモ」と言うとき、やっかいな側面があって、この本の「二元論」的な、つまり、前半(ルソー礼賛)と後半(ルソー否定)の両方が「トンデモ」なために、批判する側は、この両面攻撃を行う必要に迫られるために、面倒くさい議論を最初から考えなくてはならなくなり、その時点で、だれもがやる気をなくしてしまう、という罠に襲われるわけである。
どういう構造になっているのか。あらためて、簡単に整理すると、

  • 前半 ... ルソーの一般意志を、ネットの集合知によって「アップデート」することによって、未来の統治のあり方を模索する
  • 後半 ... 現実との妥協を模索する過程において「ルソーを否定」する(専門家同士の「熟議」に、ニコニコ動画のコメント欄による「大衆の意見」の見える化wによる代替)

この論理構成が「巧妙」なのは、まず前半は、

  • 人々の「つぶやき」をコンピュータが一般意志を「計算」する、という意味で、この「民主主義の否定」社会を、まるで「希望社会」であるかのように構想する

のだが、しかし、今のテクノロジーにおいては、この一般意志システムが機能すると考えることは現実的でないという判断から、後半で、

  • 「前半の理想」の代替としての、選良同士だけによる意志決定(つまり、民主主義の否定)を正当化する

という「もう一つの民主主義の否定」を構想する、という構成になっているところであることが分かるであろう。この二つの民主主義の否定が、まさに、アクロバティックに、まるで「しょうがない」ことのように、議論が展開されていく。
そもそも、なぜ東さんは民主主義は「駄目」だと言っているのだろうか?

東の著書『一般意志2・0』を貫いているのは、現在の情報環境のなかで、従来の人文学的な思想が無力化し、とくに言語的コミュニケーションにたいする信頼感が失われているという痛切な危機感である。従来思想の代表例はハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスお政治哲学である。端的には、コミュニケーションを重ね、熟議によって公共的な問題を解決していこうという考え方だ。そこには、言葉の意味が間主観的に共有され、理性的なコミュニケーションが成立するという前提がある。
しかし、今では処理すべき情報があまりに増え、「人々のコミュニケーションは日常的に麻痺し、アーレントハーバーマスの前提は現実には成立が難しくなって」しまう。とすれば、「データの海のなかで溺れかけている公共圏の思想」よりも、一般意志2・0の思想のほうがまだしも生産的なのではないか、と東は考えるのだ。

これに対して、掲題の著者は、上記の引用にある「データの海のなかで溺れかけている」という比喩に対して、二つの概念の混同について、読者に注意をうながす。

「この分厚い本を読んだけれど、情報量は少なかった」というぼやきを耳にすることは少なくない。ぶ厚ければページ数も文字数も多いから、機械的に処理される記号の量つまり「データ量」当然多くなる(もし一文字を二バイトで表せば、本全体のデータ量は「全文字数かける2」バイトとなる)。だから、このぼやきにおける情報量とは、データ量とは異なるものを刺しているはずだ。平たくいえば「この本の内容は、全然わからないことか、もう知っていることか、どちらかだったので、役に立たなかった」と述べているのである。つまり、ここでいう情報量とは実は「読み手にとっての意味内容の量」に他ならない。まったく同じ本を別の人物が読んで、「ああ、本当に面白い本だった。刺激をうけた」ということも十分あるだろう。

言うまでもなく、実際のビット量としての情報と、私たちがそういったものから解釈する「意味」の情報は違う。インフレーションしているのはビット量にすぎず、そのことの何が問題なのか、その例が提示されているわけではない(そういう意味では、東さんは「詩人」なのだ)。
私がこの本を読んだときの、根本的な違和感は、例えば、この本の最初で集合知についてのイントロダクションが紹介され、そこでは、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』についても言及されているのだが、ここで言う「集合知」が具体的になんなのかを、ほとんど説明していないことにある。それは例えば、以下のような形の説明がない、ということなのである。

[クイズミリオネアというテレビ番組において]さて、どちらの選択肢が有利だろうか。クイズ番組の視聴者代表というのは、割合に暇な人びとである。第一線の専門家などまずいないだろう。クイズに興味があるというより、歌手かタレントの顔を見たくてスタジオでの視聴に応募した人びとも少なくないはずだ。頭の良い知人の助言をもとめるほうが確かだというのが常識ではないだろうか。しかし、スロウィッキーによれば、第二の選択肢のほうが有利なのである。なぜなら、知人の助言の正答率は六五パーセントでさほど悪くはなかったにせよ、視聴者代表集団の平均の正答率はなんと九一パーセントに達したというのだ。いったいなぜ、こういう結果になるのだろうか。

正解を知っている人の割合がたった一〇パーセント、曖昧にしか分からない人の割合が五〇パーセント、全然わからない人の割合が四〇パーセントというのは、まさに素人集団である。にもかかわらず、集団平均としては正しく解答をえることができるのである。だが、これは一見不思議なようでも、よく考えてみれば当然のことなのだ。鍵は「ランダム選択」という仮定にある。もし、全員が何も知らなければ、ランダム選択の場合、四つのうちどの選択肢も平均二五人が選ぶことになる。いずれかのメンバーが少しでも正解に関する知識があれば、その選択肢の値だけがわずかながら突出し、残りは同一値になるあろう。これは、ランダム選択という仮定んもとでは、偏りが相殺されるためである。

この例がよく示しているように、そもそも、集合知は「民主主義」がなぜ、比較的に「まとも」に機能するのかをよく示している例であるわけである。この例について、十分に知悉していたなら、そう簡単に民主主義を否定するような議論にはなっていなかったんじゃないのかと思うわけである。
例えば、前半の一般意志2・0マシーンが、たんなる「多数決」の人数を計算するだけの機能しかもっていなかったとしよう。それって、ただの民主主義だということになるであろう。この場合、それは「コンピュータ」でもなんでもない。たんなる、電卓にすぎなくなる。
また、後半の、選良同士による「対談」にしても、上記の例を想定しているなら、なぜ、選良同士の「対談」が、民主主義のオールタナティブとして、「わざわざ」提示されているのかが、論理的に説明がつかないわけであろう。なぜなら、そういった「専門家の意見」よりも、集合知の方が信頼性があるというのが「集合知」の主張だったのに、なんの理由の説明もなしに、また、選良の「意見」に戻ってしまっているわけですから orz。なぜ、集合知がたんなる「ニコ動のコメント欄」になったのか。この論理的

  • 飛躍

が、一体どこからわいてきたのか。こういったところを考えたときに、そもそも、最初から、彼の頭の中には「答」があったんじゃないのか。子供の頃からの「持論」として、民主主義はダメなシステムだと思っていて、エリートでなくちゃダメという持論があって、その答えに合わせて、「集合知もそういうものだ」というストーリーに合わせて、物語をでっちあげたんじゃないのか。そんなふうに推測するわけである...。