あっと『のんのんびより』

そもそも日本の人口において、どれくらいの人が、子どもの頃を田舎で過ごしていたのかは、過分にして知らない。しかし、そういった場合に、それが何を言おうとしているのかを考えることは、また、別の意味で難しかったりする。
この掲題の作品では、全校生徒が5人しかいないし、同じクラスだし、小学校中学校の合同だということになっている。さすがに、ここまで私の子ども時代も、小さな学校ではなかったが、少し外れの山の方の田舎に行けば、それくらいの場所が回りになかったかと言われれば、そんなこともなかったような気もしてくる。
つまり、言いたかったことは、そういうことではなくて、なんというか、この作品に描かれているような、子どもたちの「時間の流れ方」のようなものの違いといったらいいのだろうか。
こういった感覚は、つい最近もアニメ化されていた「ばらかもん」に似ている。あの作品の場合は、その田舎は、「外れ小島」といった特徴があったわけだが。
田舎は、なんというか、まあ、「なにもない」というのが一つの特徴なのだが、ここで「なにもない」ということが何を言っているのか、というのは、なかなか感性として伝わりにくいものがある。それは、例えば、自分たちが縄文時代に生きていると考えると分かりやすいのかもしれない。この場合の、回りに「なにもない」と言うのは、いわゆる「都会」的なモノがない、という意味で、ビルがないし、車がないし、ショッピングモールがないし、コンビニがないし、といった一連の「ない」ということを言っている。
しかし、宇宙が真空に覆われているからそこに「なにもない」というのが嘘であるように、なにもないから、なにもない、というわけではない。言わば、そこには「自然」がある。縄文時代の人たちが、その自然にさまざまに介入することで、自分たちの暮らしやすい生活空間を形成していたように、田舎に生活する子どもたちは、その田舎の「自然」に介入することで、言わば

  • 遊ぶ

というわけである。しかし、それが具体的になんなのかを説明することは意外に難しい。
こういった感覚について、例えば、掲題の作品を読むと、なんとなく伝わってくるものがあるんじゃないのか、といったことは感じなくはない。なんというか、そもそも田舎は「情報」が氾濫していない。そのため、あらゆる一つ一つが、どこか

  • 丁寧

に<存在>している、という感じなんじゃないのか、と思うわけである。まったりと、一つ一つのことが、そこにある。時間にせかされて、なにかを急いで「通過儀礼」を終えていかなければならないかのように思わされる都会の作法とは、そこが違っているように思われる。
漫画の第二巻の第17話は、小学校1年生の、れんげが夏休みになり、近所で遊んでいると、見知らぬ女の子が写真をとっている場面に出喰わす。びっくりして、少しずつ近づいて声をかけてみると、その、ほのかちゃんは、近所のおばさんのお孫さんで、夏休みに里帰りで、何日か、こちらにいる、ということらしい。そして、なんと、れんげと同じ、小学校1年生であることが分かる。
ここには、ある非対称性がある。そもそも、れんげの回りには、同年代の子どもがいない。みんな上級生で、学校には同じ小学校低学年の子どもがいない。他方、ほのかちゃんにしてみれば、夏休みが終わって、都会に戻れば、嫌になるほど、同級生がいる。つまり、この関係にとっては、れんげにとっての「それ」が重要だった、ということが分かるわけである。
れんげは、ほのかちゃんを毎日毎日、朝から晩まで、町のいろいろの名所を案内してあげる。そうやって遊んでいたある日。ほのかちゃんは、父親の仕事の関係で、なんのあいさつもできずに、都会に帰ってしまう。
ショックを受けたれんげが、ほうけた毎日を過ごしている、ある日、ほのかちゃんからの手紙が届き、そこに二人でとった写真が入っていることを確認するところで、この話は終わる(ほのかちゃんは、来年も、この時期に来ることを、れんげはその手紙で知る、というわけであるが)。
この非対称性は、とても象徴的に、この差異を表しているように思われる。私たち、今、都会に住んでいる人にとって、この状況を「ほのかちゃん」の側から想像することは容易である。ほのかちゃんには、都会の「学校」があり、そこには多くの同年代の「友達」がいる。彼女にとって、自分の回りに

  • 常に

そういった同年代の子どもが「たくさん」いることは、いわば、「当たり前」の、普通のことに過ぎない。つまり、彼女にとって、それは、なんの「驚き」ではない。あまりにも「自明」のことなのだ。
他方において、れんげにとって、その「事実」は

  • 想像を超えている

わけである。つまり、これが「なにか」が彼女には分からないのだ。れんげは、ほのかちゃんを「媒介」として、それが何を意味するのかを想像する。同年代の多くの子どもたちが、言わば

  • 同列

に、この日本という国に<存在>するとは、なんなのか、なにを意味しているのか。田舎とは言わば、こういった「感覚」だと言ってもいいのかもしれない。田舎は、こういった形で、言わば、一つ一つの諸関係が「丁寧」に存在する。大量に存在しないからこそ、「それぞれ」が、いわば、

  • 滞留

する。それら一つ一つが丁寧に処理される。人間が機械的にオートメーション的に「処理」されない。しかし、そのことは、もしかしたら、本当に「大事」なことが、そこにあったんじゃないのか、ということを考えさせられるわけである。都会のマスの機械的処理の中で、流されて、捨てられた一つ一つに、本当はそうしてはダメなものがあったんじゃないのか。そんなふうに扱ってはいけなかった「感情」があったんじゃないのか。人間には、それだけの価値があるんじゃないのか。そういった、丁寧で、細やかな何かを、こういった作品は教えてくれるのかもしれない...。