メタ謝罪談話

言うまでもなく、あらゆる「行為」には、その責任が伴い、その責任にもとづいて、結果責任を引き受けることになる。それが、アカウンタビリティであって、この諸関係を整理していく作業が政治の役割だということが分かる。
そのように考えたとき、今回の70年談話は、ほとんどノーメッセージのように思われる。

わが国は先の大戦における行いについて、繰り返し痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンをはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一環して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものであります。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00010001-seijiyama-pol

ここの最初と最後は、具体的には、河野談話村山談話といった、一連の日本の謝罪を「継承」すると言っている場所であると解釈されると思われる。だとするなら、今回の談話は、一体何が言いたいのか、ということになるであろう。
(ちなみに、上記の引用の真ん中は、多くの人には何を言っているか意味不明に思えるだろうが、ようするに、「賠償をやってきました」という事実を言っている、と解釈される。)
今まで通りであるなら、わざわざ「今まで通りです」と言う必要はないであろう。なにかが変わったから、それらに「追加」して言う必要が生まれた、と解釈しなければ、意味が通らない。
それは、具体的に言えば、「誰かが誰かに対する<責任>が、新しく生まれたから、そのアカウンタビリティが発生した」といったように。
さて。わざわざ、日本国家が行う「談話」であることを解釈するなら、この場合の「責任」者は、基本的に日本国家であることが分かるであろう。日本国家が、世界中の「誰か」に謝罪をする、その「責任」を認める、賠償を行う、ということになる。
さて。今回、新たに発生した賠償対象者は誰なのだろうか?
私が「ノーメッセージ」と書いたのは、そういう意味で、なにも言っていない、ということである。
だとすると、この談話には、<それ以外>のことが書いてあると考えなければならない。それが、いわゆる「歴史修正主義」と呼ばれている、安倍総理自身が深く関わっている日本会議などの人たちの政治的主張だ、ということになるであろう。

同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史が歪められるようなことが決してあってはならない。このとも私の強い信念であります。
ですから、談話の作成に当たっては20世紀構想懇談会を開いて、有識者の皆さまに率直、かつ徹底的なご議論をいただきました。それぞれの視座や考え方は当然ながら異なります。しかし、そうした有識者の皆さんが熱のこもった議論を積み重ねた結果、一定の認識を共有できた、私はこの提言を歴史の声として受け止めたいと思います。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00010001-seijiyama-pol

21世紀構想懇談会の提言を歴史の声として受け止めたいと申し上げました。同時に私たちは歴史に対して謙虚でなければなりません。謙虚な姿勢とは、果たして聞き漏らした声がほかにもあるのではないかと、常に歴史を見つめ続ける態度であると考えます。
私はこれからも謙虚に歴史の声に耳を傾けながら、未来への知恵を学んでいく、そうした姿勢を持ち続けていきたいと考えています。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00010001-seijiyama-pol

私たちが「ここ=70年談話」において問われているのは、「国家のアカウンタビリティ」であり「国家の新たな責任や賠償の有無」といった唯物論的なことだと思っていたら、そうれではない、という。そうではなく、

  • 歴史

なのだ、という。しかし、歴史という抽象的な表現が何を指示していようが、「国家のアカウンタビリティ」や「国家の新たな責任や賠償の有無」は、常に問われているのではないのか。つまり、この場合、日本国家は

  • 当事者

なのだから、<自分>が謝るのか、謝罪をするのか、賠償をするのか、といったことは、そういった「学問」とは別に、行為として実践されるものなのではないのか。
私がこの文章を「メタ謝罪」と言っているのはそういう意味で、つまりは、当事者性を欠いている。歴史なる、なにか抽象的な概念に、国家は従属する、と言っているに過ぎず、言わばそれは、当事者の言葉ではなく、

  • 世界法則を発見する評論家

の「世の中、こうなっている」的な戯言に過ぎない印象を受けるわけである。
よく考えてみてほしい。なんらかの無法な蛮行によって、損害を受けた人がいたとする。その人にとって、その損害の被害が回復されるかどうかは、非常に重要な、自らの人生を賭けた一大イベントである。この「被害者」に対して、その被害を与えた

  • 加害者(=この場合、日本国家)

が、まるで、評論家のような「歴史の法則がどーのこーの」と言い始めたら、あなたが被害者なら、どんなふうに受けとめるであろうか。そんな「説教」を聞きたいと思うだろうか? この場合、大事なことは

を加害者側がどこまで誠実に果たそうとしているか、そこ「しか」問われていない、そういうふうに受けとるんじゃないだろうか。私たちに問われているのは、「もし自分が被害者だったなら」という視点だ、ということである。
もしも<あなた>が、現代に、この時代の日本で産まれて、日本国家に育てられて、大学も卒業できて、大学教授や国家官僚になって、日本の「支配者側」になった視点で

  • 自分がいかに国家によって「大事にされているか」

という視点で、自分が国家の「応援団」になったような気持ちで、この談話を読んでは、なんの意味もないわけである。
もしも<あなた>が当時の戦前において、例えば、韓国や台湾の植民地時代に産まれて、

  • 上記の例のように、韓国や台湾の大学教授や国家官僚になっていたとして

それらの地位を日本人に剥奪され、自分の土地を日本の官僚に半ば非合法的に、だまされて奪われて、一家もろとも、ほうほうの体で、まるでユダヤ人のように流浪の民のように辺りをさまよい、なんとか命だけをつないで戦争を生き延びた。そういった<あなた>だと考えたとき、<あなた>は、日本国家に

と考えなければ、意味がないわけであろう...。