腐れビッチな謝罪文

それにしても、この70年談話って、なんて言うかな。読めば読むほど、相手をいらつかせる、腐れビッチな文章だよな。
ひどすぎる。
なんというか、こういうものを否定する倫理として、日本の多くの子どもたちはそれを、少年ジャンプ的な倫理として、子どもの頃から学んできたんだと思うんですよね。
この文章をまあ、ゴーストライターがいるのが当然だとして、一応、安倍総理が書いているものとして表明しているんですよね。だったら、安倍総理がここで、謝っている相手が具体的に誰なのか。誰に対して、申し分けないと言っているのか。そして、そういう一人一人に対して、具体的に、どういった賠償をするのか。
謝っているんですよね?
だったら、こういった最低限の、自分が謝っている「内容」をはっきりさせることが、そういった少年ジャンプ的なモラルっていうか、ダチに対して、隠さず、ありのままを、相手にぶつける倫理なんじゃないですかね。
というか、それ以外を書いちゃダメでしょう。謝っている文章なんだから。いや、謝ることを「やる気がない」と言いたいんなら別ですよ。でも、だとしたら、ここで謝られる対象になっている方々にとって、侮辱ですよね。
そして、さらに恥かしい文章が後半に続くんだけど、驚くべきことに、「恩讐」という言葉が使われているんですよね。つまりは、例えば、菊池寛の短編小説の「恩讐の彼方に」を想起させるわけです。柄谷行人が以前どこかで、この「恩讐の彼方」を、日本人の特徴として書いていたのを思い出すけど、日本では、なんでも「恩讐の彼方」にしてしまう性格があるっていうのを、むしろ、

  • ネガティブ

に批判していたわけですよね(韓国の方でも、ヨーロッパの方でも、まあ、人間ならだれでも、そういった「大事なことを忘れてはいけない」っていう倫理があるわけですよね)。
菊池寛の短編小説の「恩讐の彼方に」を読んだことのある方もいると思うけれど、あれ、感動話として読んでしまって本当にいいのかな、って。これ、日本人のどこかダメなところを指摘しているんじゃないのか、っていう懐疑が、どこかしらにないと、どうしようもないと思うんですよね。
だから、言いたかったことは、「恩讐の彼方」で

  • 美徳

っていうのは、そもそも「日本人の慣習的な作法」の側からの<理屈>だということなんですよね。それを、日本人の側の、この70年談話の側が、

  • 相手の被害者(外国人)の方々も「恩讐の彼方」でありがとう

って、一方的にこちら側で、相手を「定義」して、

  • お前のこと知ってるぜ

みたいな文章を書いている時点で、ちょっと倫理的にありえない感覚なんじゃないですかね。こういうの、加害者側が、まるで、学者が歴史法則を発見するみたいに上から目線で書くことじゃないよね。
つまりさ。
謝罪って、相手がどうこうって、関係ないことなわけでしょう。相手が「恩讐の彼方」で、許してくれているかそうでないかに関係なく、自分が謝る必要があると思っているなら謝るし、そう思っていないなら謝らないし、そういうことをはっきりさせていくのが倫理ですよね。
だから、こういった基本的な人間として当然の在り方みたいなもの(まあ、徳倫理ですよね)からして、右とか左とか、こういうの関係ないんですよね。こういう文章を書く奴って、本当に人間のクズだと思うわ。