ネット「集合知」論

今回の佐野研二郎氏のオリンピックエンブレム問題を考えるとき、近年の一連の「集合知」問題として、どうしても印象づけられる。この問題は、明らかに「この問題」に限られた問題ではない。この問題が象徴する、もっと広くて、構造的な諸関係が、なんらかの形として提示している問題であることを、どうしても考えないわけにはいかない。

  • 小保方
  • 佐村河内
  • ザハ&安藤
  • 佐野

この一連のネット上での、匿名の「集合知」的な「嗤う」集団による、さまざまな「攻撃」を受けてきた事件の構造には、非常に興味深い点が幾つかある。

  • 客先 --> 国家 --> 大手代理店 --> 各界のクリエーティブなスター

もしも、これらの一連の事件が、この世界の上記のサーキットの中で「閉じて」いれば、このようなワイドショー的なネタにはなっていなかった。こういった問題がなぜ「フレームアップ」されるかというと、一つには、

  • 国家の巨額の税金や、NHKスペシャルなどでの「フレームアップ」での公共的な関心となることで、大衆的な耳目を集めてしまう

があるであろう。そもそも、私企業間でなにをやっていようが、その中での損得の話で、大衆には関係ないと言える。小保方のSTAP細胞は、アベノミクスでの「再生医療」の先陣として、iPS細胞の話があっただけに、言わば、第二の原発として

  • 国策

として、国から怪しいお金が次から次へと、投入されることになる。つまり、そもそも巨大な国家のお金が、この論文を巡ってうずまいた時点で、もはや、一人の科学者が制御できるような話ではなくなっていた、ということであろう。
佐村河内の例は、もしも彼のCDが鳴かず飛ばずでずっとろくに売れていなければ、だれも注目しないまま、だれにも気付かれずに、そのまま負わっていたのであろうが、NHKスペシャルでとりあげられ、しかも、それを契機にCDが売れたりもして、いつまでも、演技をし続けることの限界にぶつかった、ということなのであろう。
ザハ&安藤と佐野の例は非常に似ている。つまり、彼らの「ビジネスモデル」がここでは問われている。そして、よりティピカルな象徴性を、この佐野のケースは示しているといえるであろう。

グラフィックデザイナーのSNSでは「何をいまさら・・・」っていう感想らしいです。この佐野っていう人は大手博報堂出身スキル、人脈を最大限利用して仕事を獲ていた政治的業者です。ある程度 実力をつけて企業コンペに望んでも、競合参加業者リストに「佐野」の名前を見つけたら「ああ・・ だめか」って思ってしまう奴なんです。いわゆる「業界既成スターデザイナー」プロデュース バイ 博報堂。あくまで博報堂の専属部外デザイナーです。必要以上に下駄をはじめからはかせてあるので敵わない。パクリは彼だけの責任でもありません。そうゆう空気を許してきた大手が悪いのです。
今回の件 単純ではありません。何しろ彼らのクライアントは大手上場企業ばかり。いまさら佐野を切ってもすみません。万が一流れが企業からの損害賠償などにつながったら、業界始まって以来の大惨事になります。なので全力で防ぐでしょう。なので絶対にパクリは認めません。もし佐野さんが謝れば業界追放、宣伝担当部局の幹部ごと首が飛び、株価暴落、企業からの訴訟・・・日本国の国家事業であるオリンピックへの影響・・・確実に死人が出る案件になるでしょう。
だ・か・ら・  絶対に パクリは認めません。
オリンピックエンブレムは出来レース?博報堂コネ疑惑のコンペ審査に問題点を指摘する声も - ニュースランド

佐野のデザインを採用したのは、どこも大企業であり、そこから次々と損害賠償などということになれば、ものすごい血の雨が流れることになる。つまり、大手広告会社側は「どんな手を使って」でも、パクリを認めない。おそらく、オリンピックと刺し違える覚悟で来ることが予想される。
なんか、どこかで聞いたことがある話でしょう。
小保方事件では、実際に、笹井さんという自殺者まで出している。
つまり言いたかったことは、こういった「スター」タレントを「中心」にして、巨額なお金が動く

  • ビジネス・モデル

が、大手広告代理店を中心として、さまざまな業界で常態化している。そういったビジネス・モデルがそのままのヤバさのまま、国家のお金に牙をむいてくるので、最後は悲惨なチキンレースになる。
ここからは、どうしてこういった「ネットの集合知」問題が発生するのか、その構造を考えてみたい。
まず、そもそも「ネットの集合知」を止めることなんて、できると思う方がどうかしている。それは「クレーマー」問題と言えば、その通りだが、だからといって、巨大権力が極小の大衆の情報発信を、言論弾圧するとか、現実離れしている。
つまり、大事なポイントは、こういった

  • パクり

だとかなんだとかは、基本的になくならない、と考えるべきだ。これからも、いくらでもでてくる。大事なポイントは、たとえ、そういうものが出てきても、

  • 全体としての「被害」を少なくする

そういった、社会的なプロトコルを成立させていく、という方向に社会が向かわなければならない、ということになるであろう。ようするに、巨大資本側が自らの「リスク」を最小化するために、そういった「スター」タレントに、性善説的な「権限」を与えることによって、この「スター」タレントというポジションのところに非現実的な「リスク」を一点に集中させることによって、全体的に「ありえない」ような、巨大なお金を動かそうとする。つまり、「スター」タレントを、非現実的な「神」の領域にあがめたてまつっていって、社会の非現実的「信用」を調達しようとする。
個人なんだから、どんな「できごころ」も、必ず、確率論的に起きる。それは、どんな才能のある人でも同じ。だから、そんなところが問題なのではない。たとえ、そういった人があらわれても、社会が「比較的に損害を最小にできる」そういったプロトコルを形成していくことの方がずっと重要だと。
ところが、である。
上記に記述してきたようなケースにおいて、もう一つの非常に興味深いアクターが、あらわれるわけである。だれか?

  • エア御用

である。上記の佐野さんのケースを考えてほしい。彼は、大手広告代理店の博報堂の「お得意」である。つまり、博報堂と長くビジネスをやってきた人や、お得意さんは、佐野さんに被害が及ぶことを言及でもしたら、自らの「お得意先」である博報堂

  • 実害

を与えてしまうわけである。しかし、今どき、博報堂とビジネスをやったことがないというのは、そもそもそういないんじゃないのか(こういった大手広告代理店は、つまりは、大企業は「ほぼすべて」関係しているわけで、そういう意味では、日本中のだれもが関係していると言っても過言ではない)。
よって、何が起きたか。
佐野さんがネットで疑われ始めるやいなや、「佐野さんがそんなことをするはずがない」、ネットのチンピラたちが、才能のあるスターをインネンをつけて、潰しにきやがった。という、

  • ネット有害論

に走ったわけである。それも、一人や二人じゃない。わらわらと、なんかそれを言わないと、これから仕事をもらえなくなるという悲壮感をただよわせて、有名有識者がぞろぞろと、がんくびならべて、佐野さん擁護の論陣をはる。
日頃は、反知性主義批判とか言って、大衆をバカにしたようなことを言っている連中が、こういうときに限って、「反知性」主義並みの非論理性で、こういった問題が佐野さん一人の問題でないことぐらい分かっているはずなのに、非論理的に佐野さんを血祭りにするネット世論の「野蛮」さを、非難する。
まあ、その後で、佐野さんもサントリーのトートバッグで、一部、パクりは認めちゃってるわけで、エア御用たちも守りがいのない相手と思っているかもしれませんけどねw