北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

ある時期から、ほとんどテレビを見ることがなくなった。しかしそれは、別に、自分に限ったことではないであろう。多くの人がそうなのではないか。まあ、厳密に言えば、日本代表のサッカーの試合はたまにはテレビで見ているし、コンテンツとして、ドラマやアニメを見ないかといえば、そんなことはない。ようするに、あの

  • チャンネルをがちゃがや

やって、まったりとテレビを見るということは、本当になくなった。
そもそも私が理解できないのは、なぜ、アナウンサーが読み上げる原稿、そのアナウンサーの声や姿を眺めていなければならないのかな、というのが分からなくなっている、と言えるかもしれない。
そのように考えたときに、私はこういった行為を行うことによって、何を選んでいるのかな、といったことを考えさせられる。つまり、私が拒否しているのは、

  • エリートたちが、なんらかの「操作」として、テレビ視聴者の感情を操作しようとしている

ことに対する違和感と言えるのかもしれない。テレビは、一貫して、頭の良い大学出のエリートが、「印象」を操作しようとコンテンツを作って、テレビ視聴者という大衆を操作しようとしてきている。つまり、なぜその操作に乗らなければならないのかが意味が分からなくなった、ということなのかもしれない。
例えば、掲題のの本は、全共闘における、赤軍派の「総括」についての総括から始まっている。しかし、言うまでもなく、当時の60年代の大学生とは、今とはまったく違って、ほんの選ばれた一部しか大学に入学していなかった。

近代人の条件としての反省は、もちろん自分に対して否定的な形でなされる場合もあるが、基本的には積極的・肯定的なアイデンティティの獲得につながるものであった。自己否定は、それとは対照的に、唾棄すべき自らの内面を直視することによって、否定的なアイデンティティの自覚を目指す反省の形式である。ある意味自虐的ともいえるこの反省のスタイルが、六〇年代末の学生「闘士」たちのトレンドとなっていた。

全共闘は確かに、マルクス主義を運動の主体とする「左翼」と呼ばれる運動家の学生が中心となって行ったものであったわけだが、その運動の形態は、マルクス主義の全体理論としての性格から、運動主体ひとりひとりの

  • 内面

を問う形式にまで向かっていく。そういう意味では、全共闘はどこかオウム真理教に似ている。

たとえば「父が労組の幹部だった頃、酒を飲んで窓から飛び降り自殺した。馬鹿な父だ。母が苦労して私たちを育ててくれた。それでいつか母を仕合わせにしてやろうと思って、階級闘争をやってきた」という遠山美枝子の、それなりに感動的な「自己批判」は----彼女への総括要求で問題化された指輪も、母親からもらったささやかなプレゼントであった----、「父を馬鹿だというが、そんなことをいう資格がおまえにあるのか」という森の「論理」によって一蹴されてしまう。唯一「存在」を肯定された森の繰り出す「論理」は、ほかの者が提示する「自己批判」をことごとく「自己欺瞞」へと変換する----要するに、自己批判を無限の反省=総括に転換させる----アルゴリズムとして機能しているのである。

こういった性格はどこか、キリスト教における教会での「告白制度」に似ている。つまり、「懺悔」する主体のその懺悔が

  • 神並みに完璧

だったなら、そもそもその罪人は罪に問われることはない。つまり、絶対に赤軍派の左翼戦士の「自己否定」は報われないわけである。その自己否定は絶対に成功しない。成功してはならないのだ。

しかし、文芸批評家のすが秀実が指摘するように、いかに総括を突きつけたとしても「その者がはたして死を賭しうる主体であるか否かは、絶対に証明され」ることはない、つまり死への近接度を検証することはできない。というのも、「もし真に死を賭したとすれば、その者は死んでおり、生き残った者は、結果として死を賭しえなかった存在以外の何ものでもない」からである。
生きながらにして「死を賭している」と認定されうるような主体は、まさしくゾンビと呼ばれるべきだろう。

当時の学生は、そもそも、大学生というだけで、一種のエリートであった。しかし、エリートの弱点とはなんだろう? 一言で言うなら「数が少ない」ということである。人数が少ないから、その一部さえ抑えてしまえば、もう代替する人がいなくなる。代わりがいないのだ。よって、その少ない何人かが狙われて、共同体に囲い込まれて、

  • 信者入信の勧誘

のための攻撃が過激になる。上記のような「告白」を強いるような、非常にクローズドな合宿の形態のような集団リンチを、何日にも渡って一カ所に押し込められて受けることになる。そもそも他者が、相手の

  • 内面

に介入してきている時点で、この人間関係はおかしいのだ。他者をその「不透過」な存在のまま認めようとしない一切の関係は非倫理的である。それはマルクス主義がなんだろうと、エリート主義がなんだろうと、たとえそれで、この世界が終わろうと、ありえないわけである。
そういった視点でこの本を読むと、ようするに、

  • エリート本

なのだ。上記のような全共闘世代が大学闘争を止めて、アマデミズムやジャーナリズムや産業界にちらばって行って、おのおの、その「課題」を別の形で繰り返すことになろうとも、基本的にその行動様式は変わらない。
テレビの「中の人」たち、つまり、制作側は、コマーシャルであれ、番組制作であれ、

  • それ

を大衆に見せることによって、なんらかの大衆の「操作」を意図する。つまり、一部の、数えるほどしかいない、特権的な大学出身のエリート出身の製作者側が、この日本を「操作」する、なんらかの「記号」的な操作を、テレビなどのマス媒体を通して、繰り返されてきている、それが

  • 日本の知的なメディア

なんだ、というわけであろう。ところが、そこにある「変化」があらわれる。

「八〇年代的なもの」あるいは「バブル的なもの」----本当はその両者はずれているにもかかわらず----に対する反省が、そのまま「戦後民主主義」「戦後左翼」への懐疑に繋がっていく(はずだ)という言説の回路。それは戦後の保守論壇が愛用してきたものであったわけだが、この短絡とも映る言説のフォーマットが知識人共同体の境界線を超えて共有されるようになったのが、九〇年代(以降)であった。本節では、「ポスト八〇年代」における反省の形式----「無反省」への反省としてのロマン主義----について考えていくこととしたい。中心的にとり上げるのは、大月が次のように説明する電子掲示板「2ちゃんねる」である。

......この「悪場所」、熱い議論や論争、まじめな論戦などが日々展開されている場所でもあります。とりわけ、表のメディアで未だにタブーとなっているいわゆる戦後民主主義的なイデオロギーに対する違和感は、びっくりするほど素朴かつ直截に表現されています。朝鮮半島情勢であれ、朝日新聞その他のマスメディアの「偏向」ぶりであれ、ヘタな総合雑誌や言論誌などよりはっきりと臆することなく、この「2ちゃんねる」に日々集う匿名の<名無しさん>たちは言及していく。

掲題の著者が注目するのは、例えば一方で、今では「ネトウヨ」と呼ばれるような、かなり差別的な内容を多分に含んだ右寄りのネット書き込みがある一方で、電車男のような、かなり

  • 素朴

な「感動物」の内容の書き込みが、純朴さとアイロニーの両方を兼ね備えたような文体で書き連ねられる、その二つの一見矛盾したような姿を示す「2ちゃんねる」のような媒体を、どのように理解すればいいのか、といった一種の

  • メディア論

として「2ちゃんねる」を考える意味だ、ということになるのであろう。
しかし、その仮説的な論考は、その意気込みに反して、現在のSNSが全盛となった視点から見ると、なんというか、思い込みに強すぎる感想をもたざるをえない印象が強い。つまり、私の文脈で言わせてもらうなら、「2ちゃんねる」で書き込みをしている人も、一種の

  • エリート

なのだ。おそらく、その書き込みのほとんどは、まあ、数えるほどの人数しか書き込んでいないのではないだろうか。つまり、確かに「2ちゃんねる」はスレッドとしては膨大であるが、結局は、そのヘビーな執筆者というのは数えるくらいしかいなかったはずであるし、そういう意味では、今のツイッターのようなところで、ヘビーに記事を増やしている人がそれほどいないということも、同じ現象に思われるわけである。
近年のシールズを見ていても、彼らが比較的にリベラルであり、安倍政権の戦争に前のめりなことに反対を明確に主張して、多くの学生のデモの動員に成功している様子を見ても、果して、

と呼ばれるような勢力というのは、一体、国民のどれくらいの割合を占めているのだろうか。そういった人たちの政治的な「影響力」とは、言われるほどの大きさをもっているのだろうか。私には、もうしわけないけど、それほどの動員に成功するくらいのボリュームがあるとは思えない(そのことは、近年の在特会のデモがまったく、小規模なことと通底しているであろう)。
私が言いたかったことは、この掲題の本が本質的に抱えている「エリート主義」に対する、違和感であったと言えるであろう。この本は、全共闘の理論的支柱であった、数人の思想家から始まって、何人かの限られた時代を牽引する「思想的リーダー」たちの「英雄譚」を辿ることで、最後は「2ちゃんねる」まで行く。しかし、「2ちゃんねる」がたとえ「ネトウヨ」に代表されるような、媒体としての様相を呈しているという整理がフェアなものであったとしても、それも一種の「エリート」なんじゃないのか(実際に、数えるくらいの人数しかヘビーな執筆者はいない、という意味では)。
なにか、右翼的なマインドや電車男のような「感動話」が、一つの時代の表象として一見矛盾した形で、アイロニカルに提示されているとしても、結局その主張が、なんらかの意味での「エリート主義」の

  • 延長

として解釈されている限り、結局、掲題の著者がやっていることが「見たいものを見ている」というトートロジカルな反復にしか思われないわけである...。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)