石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』

私は、いわゆる3・11以降における、日本の言論空間における「エア御用」的なものを、一種の「エリート」主義の問題として考えていた。このことは、一部の有識者による

  • 民主主義の否定(=エリート主義の民主主義に対する「優先」)

に対して、その言説が実際のところはさまざまな「利益相反」によるポジショントークによって、その品質が担保できていないんじゃないのか、と問題提起をしてきたつもりなのだが、こういった意見はあまり、一般には理解されていない印象を受ける。
人間はだれでも、他者を自分の言説でマインドコントロールしようとしている。つまりはそれは、「エリート」だって変わらないんじゃないのか。学者であろうが、政治家であろうがそうなんじゃないのか。それは、ポストモダン的な意味での、一種の「不可知論」として言っているのではなく、単純に、みんな自分の「得になる」ように発言をするんじゃないのか。それを、哲学者や文学者といった「エリート」

  • だから

免れうると考える方がどうかしているんじゃないのか、といった意味だと理解できるのではないか。
私にはどうも、ことこの日本の言論空間において、そういった問題意識を、まず基本的な前提として、それをベースにして話そうとしている人が少ないんじゃないのか、と思っている。つまりは、どうも

  • 自分だけは例外(と思ってほしい)

といったような意識をまざまざと感じてしまうわけである。なにかに「超越」して話すことなんてできない。どんな場合も、「自分という世俗の基準に引き戻して」、あらゆる解釈は行われる。
そういう意味で、私は、あらゆる「エリート主義」は、たんに「堕落」するのだと思っている。むしろ、それが坂口安吾が言っていたことであろう。
こういった違和感は、今回の安保法制においても、まったく同じような印象を受ける。そもそも、戦後の日本の国会は、まあ、軍事費など防衛庁に関する問題で、与党が批判的な姿勢を示すことはなかった。防衛庁から防衛省に変わったときも、ほとんどなんの反対もなしで、国会をスルーした。つまり、自衛隊に関する国内の議論は等しく

  • タブー

なんじゃないのか、と思っている。
そもそも、日本の知識人は徹底して「エリート・ホルホル」なんじゃないだろうか。というのは、彼らは東京の出身で東京のエリート高校に在籍して、そのまま、東大に入って、彼らの友達がみんな、国の官僚になっているわけで、最初から

  • 友達感覚

なんじゃないだろうか。だから、国の官僚は「批判の対象」ではない。あくまで「ダチ」の友情の延長なのであって、彼らがむしろ dis の対象として、一緒に盛り上がるのは

  • 大衆というバカたち

というわけであろう。
そしてそれは、「自衛隊」についても変わらない。
しかし、戦前の帝国日本軍の暴走を考えたとき、本当にそんな「ナイーブ」な信頼感情は、成り立ちうるのだろうか、といった不信感は免れないんじゃないのか、と私は思っている。満州事変にして、2・26事件にしても、こういった暴走を、いろいろさのぼって「ポピュリズムが悪かった」と言うのは簡単だが、ようするに

ことは間違いないんじゃないのか。そういった状態がもし、この戦後の今、復活することの危機感は、そんな杞憂と考えられるようなレベルなのだろうか。つまり、そんな「担保」は一体、どこにあるというのだろうか?

間違いであると思っていたら、実は「あえてそうしていた」ということがある。狡猾でしたたかな話だ。「逆オオカミ少年」とでもいおうか。
自衛隊法で、「武器等(航空機、艦船も含む)防護」の条文における「武器使用」の主語は、「自衛官」であることは、すでに見た。「自衛隊」を主語にしてしまうと、組織的な武力行使となり憲法9条1項に違反してしまうから、そうしているのだろう。
さらに本改正自衛隊法案では、122条の2という条文が新設された。これは、従前、雑駁にいえば上官の命令に違反した場合や、また、これらを共謀したり、唆したり、扇動した者に、それぞれ3年以下の懲役が科される、という罰則を日本国外で犯した者にも適用するものだ。これにより、自衛官憲法違反の海外派兵をされても命令にも違反できず、罰則を科せられてしまうという強固な管理体制が構築されたわけである。
ところが、不思議なことに「武器の不正使用」の条文には、この国外犯処罰規定がない。「武器の不正使用」とは正当防衛など、武器を使用することが許容されていないのに、武器を使用することである。自衛隊の海外活動では危険が伴う。武器使用を前提とするのであれば、あって当然の規定がないのは一見、法の欠陥に見える。
しかし、これぞ逆オオカミ少年で、あえて意図的に規定しなかったのではないか。そんな疑念を持っている。
<第13回>この法案はルービックキューブでつじつまが合わない|日刊ゲンダイDIGITAL

日本の知識人の特徴はこの「逆オオカミ少年」にあると思っている。彼らは大衆をバカにしているのだが、それは「操作の対象」として大衆を見ているからであって、その姿勢を終始一貫させているから、ということになるであろう。
今回の安保法制の議論における「中心」は、間違いなく中谷防衛大臣であろう。しかし彼は言うまでもなく、元自衛隊員である。つまり、「中の人」である。こんな人が本当に「シビリアン・コントロール」を行えるのであろうか? 明らかに彼の発言は、挙動不審である。非常に不自然である。それは、安倍総理がトンデモだという意味とはまた違った意味において、

  • 安倍総理とも関係なく、自衛隊と「一緒」になって暴走している(=クーデターを行っている)

とさえ受け取られるような態度に思われる。
今の国会の安保法制においては、熟議民主主義が成立していない。なぜか。この安保法制が結局は与党の賛成多数で成立することは、最初から、与党が国会の多数を占めていることから決定している、ということになるだろう。そこから、どうも防衛省の態度は、どこまでも「秘密主義」の印象を受ける。まったく、法案修正の議論が積み上がっていかない。まったく、法案の修正という話になっていかない。
こんなことがありえるのだろうか?
というか、私は素朴に思うわけである。日本の知識人は日本の自衛隊が暴走したと止めようとするのだろうか。各国の軍隊がクーデターによって、軍事独裁政権になっているのは、アジアにおいては、少なくない。けっこうな国々で、アジアでは軍事独裁政権になっている。どうしてそれが、こと日本において「だけ」は起きないと思えるのだろうか。日本は「先進国」だから、そんな野蛮なことは起きない、とでも言うのだろうか(嗤
軍事クーデターという、軍事独裁政権は、言うまでもなく、

  • 軍隊のエリート

によって起こされる。彼ら知識人の「ダチ」であり、「エリート・ホルホル」によって。

一九一四年八月、ヒトラーミュンヒェン第一次大戦勃発の報に接する。そしてドイツ帝国バイエルン王国陸軍の志願兵として従軍した。ヒトラー、二五歳の夏のことだ。
ヒトラーの配属先となった第一六予備歩兵連隊(連隊長の名前からリスト連隊と呼ばれる)は、二ヶ月間の速成訓練を行った後、西部戦線のフランドル方面(フランス北東部)へ向けて出陣した。ヒトラー一等兵もその年の一〇月末、前線で砲火の洗礼を浴びた。ヒトラー上等兵に昇進し、同時に連隊司令部付きの伝令兵となった。

重要なポイントは、ヒトラーが若い頃、「軍人」になっている、というところだと思っているわけである。つまり、彼にとって、シビリアン・コントロールになんの関心もない。基本的に、軍隊が

  • なにもかもをやればいい

と考えているわけであって、なぜ政治家が必要なのかと本気で考えている、というわけであろう。基本的にあらゆることは「暴力的」に進めればいい。それで「うまくいく」。民主主義も不要。あらることは、国家の「エリート」が全てを決め、コントロールする。

第一条 国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。
第二条 政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる。
第三条 政府が制定した法律は、首相の手で認証され、官報に公示される。
第四条 外国との条約で立法の対象となるものは立法参与機関の承認を必要としない。そのような条約の遂行に必要な規定は政府が発令する。
第五条 本法律は、公示日をもって施行される。1937年4月1日をもって失効する。現在の政府が取って代わられたときにも失効する。

つまり、政府(=エリート)は、あらゆることを決めて、あらゆることを行動に移せる。そうした場合、どうしてその政府(=エリート)が、国民の願う方向に、政策を行ってくれるだろうか。彼らは権力をもっているのだ。自分の「やりたい」ようにやるに決まっているではないか。
よって、世界は二つの勢力に分かれることになる。

  • 犬タイプ...政府(=エリート)のあらゆる命令に誰よりも最初に尻尾を振って「従い」、恭順の意を示すことで、反政府的な他者「より」政府に優遇されることによって、その「特権」の「おこぼれ」を享受する連中
  • 猫タイプ...徹底して政府(=エリート)の意向に対して、「デタッチメント」を貫く連中

例えば、今の日本が、ある日、自衛隊による「クーデター」が起きて、今の北朝鮮のような「軍事独裁政権」となったとしよう。次のように考えてみようではないか。

  • どうやったら、「そこ」から、今のような民主主義の国に戻せるのか?

と。この命題が非常に難しいことは、例えば、なぜ北朝鮮がWW2以後、ずっと今の軍事独裁から抜けられないのかを考えても理解できるのではないか。しかし、こういった懸念を示す知識人がどれほど少ないかを考えてみてほしい。おそらく彼らはそれを「自分の専門でない」と思っているわけであろう。自分は経済学の学者なので、軍事のことは知らない。社会学の学者なので、軍事のことは知らない。政治学の学者なので、軍事のことは知らない。哲学の学者なので、軍事のことは知らない。しかし、そう言っている彼らも

っであることには変わらないわけである...。

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)