半藤一利 保阪正康『賊軍の昭和史』

日本の近代政治は、鳥羽伏見の戦いで、徳川幕府薩長に負けたところから始まっていると言える。しかし、そのいきさつはあまりに奇妙であるだけでなく、滑稽ですらある。

半藤 (中略)ただ、幕末の戦争では天皇陛下は直接には関係ないんですよ。薩長対反薩長の戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いのとき、薩長軍が立てた「錦の御旗」は作りものですからね。
薩長方についた公卿の三条実美が、「南北朝の昔は、錦の御旗というものが立ったものだ」といって古文献を見せ、「これを真似て作れ」ということになった。旗を作る反物を長州の桂小五郎の愛妾だった幾松が京都で買い、品川弥二郎がそれをかついで長州に帰り、文献を見本に偽の「錦の御旗」を三旗作ったんです。そういわれています。
鳥羽・伏見の戦いで、薩長と敵対する徳川軍は、兵力から見ればはるかに優勢だった。ところが、「敵方に錦の御旗が立ちました」と聞いたとたんに、総大将だった徳川慶喜は戦意を喪失しちゃったんです。

半藤 (中略)水戸光圀の頃から藤田東湖を経て、慶喜さんも子供の頃から天皇を崇拝する教育を徹底して受けていたんじゃないでしょうか。
だから、敵方に錦の御旗が立っていると聞いて、腰が抜けちゃったんですよ。戦えば勝てるものを、賊軍になるのが怖くて戦えなくなった。歴史にそう残りますから。大坂から軍艦に乗って江戸に逃げ帰っちゃったんです。

こういうリーダーに率いられた国家は、まあ、滅びますなあ。簡単にニセモノに、ひっかかって、それをなにも疑うことなく信じるリーダーw すげーよな、ニセモノにひっかかって、この国を滅ぼしたって。
しかしさ。
それ以前に、この話。そもそも、慶喜が、そういった「水戸学=皇国史観教育」を受けていなければ、こんなことになるはずもないわけですよね。だって、徳川幕府はとにかくも、建前上は、何百年も天皇家に日本国家の統治の正当性を委託された「将軍」家として、統治を続けてきたのであって、その正当性がそんな簡単になくなるわけがないわけでしょう。
徳川慶喜が水戸の出身のため、変な、皇国史観の洗脳教育を子供の頃から、骨身に叩き込まれていたという「それだけ」のことによって、こんな意味不明の下剋上が実現されてしまった。
なんだんだろうね、この国って orz
こんな簡単に権力の移譲が起きてしまうんだ、と考えると、だれだって「神の御心」みたいなことを信じちゃいたくなるんじゃないですかね。相手のリーダーのしょーもない「教育」が、たったそれだけの理由をもって滅ぼしちゃうって、なんなんでしょう?
しかし、この話、逆にも考えられますよね。
こういった文脈を見ても、薩長天皇をリスペクトしているって、ありえないよね。だって、偽の旗をコピペで作っちゃうんですからね。こんな連中が、天皇をリスペクトするはずがないじゃないですか。自分たちが勝ちさえすれば、あとはなんでもいい。彼らが天皇を「玉」と呼んでいたのは、本気で

  • 将棋の「玉」

という意味ですからね。つまり、「ゲーム感覚」だと言っているわけです。天皇がどのように処遇されなければならないかは、最初から彼らにとってはこの「ゲームの駒」をどこに置くのかと、同列の重要さでしか考えられていなかった、ということなわけです。
では、こういった連中が作った「靖国神社」って、なんなんでしょうね?

半藤 戊辰戦争で亡くなった奥羽越列藩同盟の人々は靖国神社ん祀られていません。賊軍だからなんでしょう。しかし、彼らは国家に、いや天皇に反逆したわけではない。つまり、賊軍であるという汚名が、死んでからも永遠について回るということなんですよね。
----靖国神社の起こりは、戊辰戦争の起こりは、戊辰戦争の官軍側の戦死者を慰霊する招魂社で、長州の大村益次郎がつくったんですね。だから、西南戦争の西郷軍も靖国神社には入れられませんでした。西郷軍も賊軍だったからですよね。
半藤 ところが、幕末の禁門の変で死んだ長州藩の兵は入っているんですよ。禁門の変で長州は賊軍だったのに、すごく長州寄りにひいきするんです。
保阪 これはひどいと私も思う。もうこうなると靖国神社は、薩長史観の代表的な空間なんですね。靖国神社なんて、そんな大げさなものじゃないと、みんながいえばいいんですよ。
半藤 そう思いますよ。もちろん、戊辰戦争から後は天皇陛下のために戦死した人をお慰めする社であるということになっているんですけれど、そもそものその起こりは、薩長の藩兵を慰めるための場所だったんですから、露骨に差別が出ているんです。
だから面白いのは、清河八郎靖国神社に入っていることです。なぜなんだろうと思ったら、清河が幕末に京都見廻組佐々木只三郎らに斬られて死んだからなんです。要するに、賊軍である幕府方に殺されたから靖国に入れるんですよ。
ところが、佐久間象山靖国神社に入らない。なぜかというと、長州系の攘夷派に斬り殺されたからなんです。
人物の功績なんか無視して、ただ幕府方は賊軍、薩長方は官軍という理屈だけで押し通しているんです。

靖国神社、つまり招魂社は、あくまで、長州藩の関係者の戦死者の慰霊のための施設でしかなかった。つまり、

  • そういう理屈

で最初を始めてしまっているので「つじつまが合わない」わけである。本当にこの施設は「国家のためのもの」なの? よく考えてみてください。最初が、長州藩のためを理由に始まっているわけです。それが、どういう理由によって、途中から「実は国家のためでした」と宗旨替えをできるのでしょうか? それをやるためには、そもそも、今まで祀られてきた一人一人を見直して、

  • 本来は祀られるべきだったが、今まで祀られなかった人を祀る
  • 本来は祀られるべきでなかったが、間違って今まで祀ってきた人を祀るのを止める

という二つの作業に取り組まなければならない、ということになるのではないか。そうでなければ、人々はこの神社に参拝に行けない、ということになるのではないか。
戦後、靖国神社は民間の宗教施設となる選択をした。つまり、国営の戦没者の慰霊の施設としての立場を一貫させることを選ばなかった。政教分離の戦後憲法の思想から、この方向を選ぶ限り、靖国神社がその宗教的な色彩を維持することができず、そうなるくらいなら、民間施設となる方がまし、と考えたから、ということになる。
しかし、だとするなら、ある一つの問題に直面することになる。国立の戦没者を慰霊する施設が必要なのではないか、と。今は一般には(千鳥ヶ淵がその代替となってはいるが)。
この靖国神社の「矛盾」に直面したとき、人は二つの立場のどちらかの選択を迫られている。

  • 靖国神社に代わる、国営の戦没者の慰霊の施設を作る。
  • 靖国神社の上記の「矛盾」を矛盾ではないと、なんとかして解釈する。というか、もっとラディカルな立場としては、「日本=長州藩」であると「開き直る」。上記の「官軍」「賊軍」の区別を、正当化して、例えば、奥羽越列藩同盟の人々、東北の人々が差別されることは「当たり前」の国家を作る。

という、この二つのどちらかになる、ということではないだろうか。しかし、そもそもそういった後者の立場を、どうして、長州藩となんの縁もない日本人がとることができるであろうか。そもそも、靖国神社に、そういった人たちがなんらかの崇拝の対象と考えるには、そういった意味で、最初から、無理がありすぎるわけである...。

賊軍の昭和史

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