リアリティと「方法」

幕末の頃に、写真機が全国に普及し、今でも私たちは幕末の志士たちの姿をその写真で確かめることができる。ところが、西郷隆盛だけはなぜか写真が残っていないことが幕末の謎として今でも話題になる。彼がなぜ写真を嫌ったのかは諸説あるようだが、そもそも、当時、日本では写真によって「魂が吸われる」などとして、なかなか普及しなかった、という状況があったと言われている。
この話はどこか、福島第一原発事故による低線量放射線の人体への影響を考えるとき、どこか似ている印象を受ける。世の「ニセ科学批判」派は、言わば、

  • 写真機によって「魂を吸われる」などということは<非科学的>だ

と言っているのと変わらない。しかし、そもそも当時、写真機が日本で流行し始めたばかりの頃で、海のものとも山のものとも分からない新参者を前にして、多くの人が「警戒」したのは当然の話だったのではないか。
原発事故も同じことで、人類はまだ、余りにも原発事故の経験がない。なにが起きるか分からない、と思うのは必然であったわけであろう。
それに対して、世の「ニセ科学批判」派は、そういった大衆の「選択」を「非科学的」だと言って、非難した。
そういった姿を見て、私は思ったわけである。
こういった大学教授たちの多くは、国立大学の教授であって、言わば、「本当かどうか」を、

  • 国から俺たちが払った税金を巻き上げて

いくらでも「実験」をして、彼らは確かめられる、と言いたかったわけであろう。自分はそういった「特権階級」だから、なんでも、国からお金を巻き上げで「確認」ができる。だから、なにが「科学」で、なにが「非科学」かを言うことができる。
フェアじゃないよねw
だったら、大衆にも「実験」をやらせてもらえませんかね。自分は確かめたから、「何が正しいか」を自信をもって言えると言ってみたところで、大衆はそれを確認する手段をもっていないんですけどね。そういう非対照的な立場にいる人に対して、「非科学的」とは、どの口が言えますかね。
原発事故については、あまりに人類の経験値が低い。だったら、なんだか分からない「から」警戒する、というのは、十分に理性的なんじゃないのか? つまりは、

  • 確率論は科学に「先行」する

のだ。
私は日常会話で「現実的」だとか「リアリティ」という言葉を使う人が嫌いだ。それは、なんらかの「自明性」を主張しているのであって、「他者」、つまり、自分が自明だと思わない人には共有されないからだ。
そもそも、こういった問題はすでに、近代以降の、デカルトの時点で、一つの「懐疑」として共有されていた問題意識だったはずである。つまり、彼の著書のタイトルにもなっているように「方法」がここでは問われていたわけである。
よく考えてみてほしい。
なんらかの「事実がある」と私たちが言うとき、その主張と、なんらかの「方法」は、常にワン・セットになっていることを。つまり、なんらかの「主張」は、その主張を導き出すための「論証方法」を抜きには、絶対に導かれないわけである。なにかを主張するということは、その主張が正当であることを、なんらかの手段によって「担保」しなければならない。それが「方法」なのである。
このように考えたとき、デカルトにおいてすでに、こういった「懐疑」であり、違った場所からの「差異」による批評性がかなり意識されていたことが分かるであろう。
ではデカルトは何を批判したのか。それが「神学」である。神学において、「現実的」という言葉は、一種のバズワードだと考えられる。「現実的」という言葉は、「存在」と関係している。しかし、「存在」とはなんだろう? ここで、

  • 神は存在する

という命題を考えてみればいい。まず、この場合の、それを証明する「方法」とはなんだろう? そんなものがあるわけがない。しかし、あろうがなかろうが、「神は存在する」と言えなければならない。それは、問答無用に、「信仰」が私たちに強いてくる態度だ、ということになるわけである。
この延長にヘーゲルを考えることができる。デカルトが伝統的なスコラ神学を批判したとするなら、ヘーゲルはスコラ哲学的な「御用神学」の伝統に、御用学者的に、踏襲した、と考えられるであろう。例えば、歴史が「このように」あるのは、言わば、神が「そのように」あらしめたから、というわけであるから、この歴史の「このような」性は、一つの「現実」として理解されるわけである。この世界がこのようにあることは、たんに「そのようにしかありえなかった=神の意志がそうだった」としか言えないのであって、その自明性を生きることが「大人である」というわけである。
そして、この延長に、ハイデガーの哲学がある。ハイデガーにおける「存在」は、その「隠れてある」ところに特徴がある。その隠れ無さは、「存在しない」ことを意味しない。それは、歴史的に「現れる」というわけである。それはまさに、今、この瞬間に、ナチスヒットラーが「私たちの前」に現れ、ドイツの「総統」になる、といったような、彼の「ヒロイズム」として結実する。
しかし、こういった延長において考えたとき、ヘーゲルハイデガーは、言わば、デカルトの「批判哲学(=その延長にカントがいるわけだが)」に対する

であったことが分かるのではないだろうか。
デカルトが行っていることはなんなのだろうか? それは一種の「大衆化」だということになるであろう(カントの判断力批判が、一つの大衆論として読める、というのがハンナ・アーレントの晩年の主張であったことは繰り返さないが)。プロたちが言う「シロートには分からない」というのは、ヘーゲルハイデガーが言うような、一部の「世界の秘密を、この世界にもたらす者(=リチャード・ローティの言う「詩人」)によって「真実」がもたらされる、と言う。つまり、この世界には「選ばれた者」と「そうでない者(=シロート)」がいる、というわけである。これに対して、デカルトもカントも

  • 存在
  • 現実

といった言葉に、なんの興味も示さない。彼らは「方法」の話しかしない。つまり「存在」「現実」といった言葉は、一種の「比喩=形容詞」なのだ。ポエムなのである。
例えば、2ちゃんねるのスレッドは、ニュース板が特にそうだが、まず「ソース」の記述から始まっている。これも一種の「方法」である(福島の人たちが低線量被爆を忌避しようと選択的に振る舞う、その確率論も一種の「方法」の問題だと考えられるであろう)。
ハイデガーの「隠れ無さ」が、ある「選ばれた詩人」の前に「現れる」現実というのは言わば、神が、その「選ばれた詩人」の前にだけ、わざわざ選んで現れる、と言っているのと変わらない。ハイデガーにしてみれば、そういう意味で、ヒットラーは「選ばれた詩人」であり、アーリア人は「選ばれた民族」であり、ユダヤ人はそうではない、となるわけであろう。
それに対して、デカルトやカントは、そもそも、そういった議論にまったく興味をもっていない。彼らは、最初から

  • 「存在」「現実」「世代」

といった言葉に、なんの興味ももっていない。彼らが考えているのは徹底して

  • 「方法」「懐疑」

であって、つまりは彼らは最初から「大衆化」を前提にしている。そういう意味では、デカルトやカントは言わば、終始、「倫理的」に生きていたわけである...。