視差の倫理

私の前のブログの記事ではよく、東浩紀さんの発言について、とりあげていたのだが、最近はあんまり興味がなくなってきた。
それは、彼が改心して、まともになってきたから、というより、彼の「構造」がはっきりしてきたので、そもそも発言している内容に新しみがなくなった、というところなのかもしれない。
お金をとってニコニコで対談を行っているようであるが、まったく興味がない。まず、自分で会社を作って、その会社の社長という立場で、対談相手を連れてきて、その報酬を払うのも、社長である彼なわけで、普通に考えて

  • 報酬を払う相手に「本音」で話すのかな

という疑問が浮かぶのは、当然なわけであろう。お金をくれる相手に、厳しいことを言うだろうか? 「おべっか」を使うんじゃねえの、と誰だって思うんじゃないのか。
それは、彼の会社の出版物についても同じわけであろう。彼が出版している雑誌に投稿する人が、その出版社に厳しいことを書くだろうか? 「おべっか」を使うんじゃねえの、と誰だって思うんじゃないのか。
こういうお友達同士で、褒め合っている姿を、視聴者は見て、楽しいんですかね?
3・11のとき、多くの有識者が「利益相反」の話をしたわけだが、なんらかの批評性を自らの発言にもたせようとする人にとって、どこかしら、他者との「緊張感」をもって、一線を引いていないと無理なんじゃないだろうか? だれかの「ファン」になったり、だれかの「友達」になって、お互いで金銭的な繋がまでできてしまったら、なんらかの、つきあい上の

  • 褒め殺し

みたいな態度を、お互いに宣伝的に求められるようになるわけであろう。でも、そうなった時点で、それってもう、ただの

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なわけでしょう。なんの批評的な緊張関係もない。つまりは、東浩紀さんのニコニコの番組も、彼の作っている雑誌も全てが

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になってしまっている。だから、だれも読まなくなっている。
例えば、柄谷行人の今までの仕事を見ても、そういう「一線」はきちんと守ってきたんじゃないのか、とは思うわけである。彼は一貫して、執筆者であって、そちら側としての、良質の記事を書こうという倫理があった。自らが出版社側になったり、編集者側になることは、まずなかった。例外として、批評空間があるのかもしれないが、あれも、会社の運営は別の人に任せる立場だったわけで、基本的には執筆側のスタンスを貫いてきた、わけであろう。
執筆者と編集者には、一種の「緊張関係」がある。執筆者は自らが書いた原稿によって、編集者側からお金をもらう。しかし、それは編集者によって、執筆者の原稿に「価値」を見出されたから、お金を払うのであって、編集者側は今度はその原稿によって、市場に勝負を挑むわけであろう。ここには、この勝負が成功するかしないかの、お互いのぎりぎりのところでの、勝負がおこなわれている。どっちも品質を落とすわけにはいかない、という。
そう考えると、この二つの立場の両方を兼ねるなどというのは、普通に考えて不可能なのではないか。必然的に、そこには「利益相反」が起きて、質が劣化する。
そのように考えてみると、世の中というのはよくできているもので、多くの職業は、そういった「対立」が自然に、さまざまな現場で実現されている。相互の「チェック」が働くような人材の配置が行われていて、日々、切磋琢磨するようになっている。
そういう意味で、こういった環境作りに失敗してきた彼の近年の仕事の成果は、なんとも残念な感じの凡庸な主張と、無意味に過激な挑発で、炎上マーケティング的に耳目を集めようというステマといった「色モノ」でしかない、といった評価になっている、ということなのであろう...。