鬼怒川の決壊

ネット上では、またぞろ原発安全厨が、鬼怒川の決壊の件で、メガソーラーによって、決壊したから、今回の被害になったと騒いだ。ところが、実際の決壊した場所はずっと下流で、それをネットでは「デマ」ということで、否定がされた。
これで話は終わったと思ったら、周辺住民とそのメガソーラーはもめていたようで、実際に工事によって、自然堤防はある程度、削られていた、といった話があったことから、

  • だからデマじゃなかっただろ

といった主張がデマ拡散者によって騒がれた、というわけであるw いや、メガソーラーでは決壊しておらず、そのずっと下流だったんだから、デマはデマだろ、と思ったのだが、どうも彼らは納得してくれないらしいw
確かに、前回の台風のときは、あの程度の風で、ソーラーパネルが吹き飛んだことには、ソーラーパネルの立て付けについて、より厳しい法的な規制が必要なんじゃないのか、というのは納得がいったわけだが、少なくとも、上記の「決壊」している場所と違っているんだから、デマはデマであろう。
原発安全厨が、自然エネルギーを、自分たちの競争相手として、目の仇にするのは分からなくもないが、どうも原発推進派は、

  • 国家

の行動に対して、あまりに監視対象としての認識が低すぎないか?
そもそもここは、一級水系なわけで、国家が管理する川ではないか。洪水警報も国土交通省気象庁という「国家機関」が共同で発令するわけで、国家がこの川の「どこ」がどうなったら、氾濫するのかを管理している立場ではないか。
だったら、なんで、そのメガソーラーの工事を認可したんだよ。
河川のシミュレーションほど、典型的な流体力学の例はないであろう。だいたい、どの程度の雨がどれだけ、集中して、どこに降れば、河川の水量がどれだけになるかなど、一級河川なら、隅から隅まで国家は把握していたわけではないか。
実際、その個所は確かに周辺と比べると少し早く越水しているみたいだが、ユーチューブで映像を見ても、少しさらに周辺の個所では、ほとんど同時くらいに越水をしているわけで、ようするに、工事を認めた役所は、「その程度」のものでるから、どっちみち付け焼刃だという認識だった、ということなわけであろう。
業者がメガソーラーをあんなふうに、この一級河川の土手に建てたのも、別に隠れてやったわけではないし、ずっと前から、行われていたわけで、ようするに、

  • 国家の監視の中で

行われていた行為であり、つまりは、国家が「黙認」したんだろ。なんで、国家に文句を言わないのかねw もしもメガソーラーが問題なら、原発も問題なのであって、つまりはガバナンスが問題なんでしょ。そんなことは、反原発派であろうがだれであろうが、共通認識なわけで、いい加減、国家ホルホルはなんとかしてもらえませんでしょうかね。
私が子どもの頃住んでいた田舎の地域も、特に小学生くらいまでは、よく洪水が起きて、近くの小学校に避難をしていたのを覚えている(といっても、一階の床上近くまで程度で、あんな家が長されるのなんて、あってたまるか、であるが)。ところがそれが、中学校くらいから、まったく起きなくなった。早い話が、

  • もう一つの川

を作ったか、「繋げた」かして、そもそもの「水量」を、平常時から少なくなるようにしたことが決定的な解決になったようである。こういった対策が、今回の鬼怒川でも有効なのかは分からないけれど、私は少なくとも「メガソーラーが悪い」みたいな議論は、まったく、木を見て森を見ない議論だと思っている。
そもそも、この関東地域を「洪水」が起きなくできるのだろうか? この前、江戸時代の農業の本を、このブログでも紹介したが、江戸時代は、普通に当たり前に、日本では「洪水」が起きていた。巨大な堤防を作ることは可能だ。しかし、東日本大震災の堤防でもそうであったように、それ以上の「洪水」が来れば、より甚大な被害になる。結局は、洪水を人間が避けることなど、現実的な話なのか、という議論は当然ありうると思う。
そうなったとき、おそらく「国家の政策」は、どうやって、洪水を高級住宅街に向かわせず、貧困街に、その水を向かわせるか、という議論になるであろう。そうやって、どうやって「国家の資産」を守るか。どうやって、貧乏人の被害に対して、国家はその賠償を免れるか、という方向に議論は流れて行く。おそらくは、そういった一貫として、今回の「メガソーラー」騒動も

  • メガソーラー業者

に一見、その被害の責任があるかに見させるための目眩しとして使われているのであろう...。