郭舜「憲法第9条削除論」

法哲学者の井上達夫が、憲法第9条削除論を、昨今の安保法制反対の国民的な盛り上がりに、棹を指すかのように、煽りぎみにマスコミにとりあげられているが、どうも世間のその受けとめかたは、井上氏の議論が、アイロニカルには、一種の逆説的「安保法制賛成論」として受け取られているから、ということになるのであろう。

第9条をめぐる護憲派改憲派自己欺瞞については、他の論者も認識を共有している(大沼2004)。井上の見解の独自性は、その立憲主義理解に基づいて、同条の端的な削除を提唱している点にある。しかし、第9条の削除がもつ意味についての詳細な検討は、これまでのところ井上自身によってはなされていない。

井上氏は「憲法第9条を削除すべきだ」とは言うが、それは、その方が「ベター」なんじゃないのか、といった提言レベルの議論なのであって、絶対に削除しなければならない、という論拠をあげているわけではない。
そういった意味において、ここでの井上氏の議論は、どこか不可解な印象を受ける。
井上氏は、昨今の安保法制反対の国民的な関心に、正面から答えているわけではない。安保法制賛成派も反対派も「自己欺瞞」だと言うわけである。しかし、そのオールタナティブが「第9条の削除」という

であることは、人々の理解を超える議論と言わざるをえないのではないか。
少しアイロニカルな議論をさせてもらうなら、そもそも、井上はなぜ「自己欺瞞」ではダメだと言っているのであろう。「自己欺瞞」は「正義」に反する、とでも言いたいのだろうか?
安倍首相が、毎年、8月15日に、靖国神社に参拝しない代わりに、「まさかき」なるものを、奉納しているが、私には今だに、あれがなんなのかが分からない。
そもそも、こんな慣習を始めたのは、歴代の総理大臣の中でも、安倍首相くらいしかいないのではないか。
私がここで「意味が分からない」と言っているのは、やっていることが、具体的に何をしているのかが分からないのではなく、その「行為」が結局のところ、なぜ安倍首相は行っていて、

ということなのだ。ここで、安倍首相はどうやら、さまざまな世間の摩擦がなければ、彼は8月15日に靖国神社に参拝したいわけであろう。そして、そうすることを「願っている」、一部の日本の保守派勢力が存在している。しかし、安倍首相は「それ」を行っていない。
しかし、この総理大臣が8月15日に靖国神社に参拝すべきと考えている人たちは、たんに安倍総理がその要望に答えていないことに、素朴に文句を言えばいいのではないか。つまり、「まさかき」なるものは、なんの関係もないのではないか? これは言わば、サッカーの試合の前に、野球のキャッチボールをするようなもので、一体、なんの関係があるのか?
今回の安保法制についても、おそらく多くの人が思っていることは、別に今回の安保法は、今までの内閣法制局集団的自衛権は認められないという主張を「変えて」、解釈改憲集団的自衛権は認められるようにします、ということをやらなくても、実質的に、ほとんど同じことができるんじゃないのか、ということであろう。
つまり、どういうことか?
安倍総理は、今回の安保法制の修正を、一つの機会として、

  • 自分が歴史の扉を開いたんだ

といったような、保守層向けの「アッピール」がしたいだけなんじゃないのか、という印象が強いわけである。
ある意味において、集団的自衛権の「一部」を、今回から認めるようにする、といったケースは決して考えられなくないと思われる。それは、「内容次第」なわけである。
憲法の制約とは何か? それは、第九条が「存在する」というところにある。ということは、この条文には「意味がある」ということにしなければならない。ところが、今回の安保法制では、

の両方を「解釈改憲」で行えるようにする、と言う。しかも、今回の新三条項を見てもらえば分かるように、今回の改正でも「やってはならない」集団的自衛権が、なんなのかが記されていない。ということは、実質的には、どんな「集団的自衛権」も行使できる、というふうに政府だけによる「政策判断」で、どんな「集団的自衛権」も行える、というふうに解釈せざるをえない。
ということは、「どんな」自衛権も行使可能だ、ということを意味している、ということになる。
さて。じゃあ聞くが、憲法第九条はなんのためにあるんですかね?
そこに、憲法の条文があるということは、その条文には、なんらかの「意味」がなければならない。
以前紹介したが、樋口陽一教授によれば、明治憲法にある「天皇神聖にして侵すべからず」といった表現は、欧米憲法では慣用的に使われているようで、

  • 王様の民事、刑事の、免責。民事裁判所、刑事裁判所に引き出されない

といったことを表す表現として一般化していた、というわけです。
おそらく、それと同じような「意味」が、この第9条には、日本に対して

  • 日本の周辺国

が、戦後、日本を国際社会の一員として受け入れる「条件」として機能してきた意味があったはずなのである。

日本国憲法の制定過程を踏まえるならば、平和主義が明示的に規定されることは、それが「押しつけ」であったかどうかはともかくとして、新憲法に基づく新たな国家体制の正統性が国際的な承認を得るための条件だったと論ずることはできるだろう。

井上の議論が、異様に思われるのは、彼が「敗戦直後」に、こういうことを言ったのなら、まだ分かるわけである。しかし、今ごろになって、長年、内閣法制局が、ずっと集団的自衛権は「違憲」だという、政府の「公式見解」を続けてきた歴史がある中で、第9条は削除「すべき」って、言っている意味が分からないんですよね。彼の理屈からいけば

  • 敗戦直後の、戦後憲法制定時から第9条は含まれてはなからなった

と言っているわけですよね。じゃあ、それで、周辺国がずっと、今に至るまで、日本の国際社会への復帰に反対し続けていたら、どう思うのだろうか。それは、日本は悪くない、と強弁するのだろうか。
つまり、さ。
明治憲法において、「神聖にして侵すべからず」という表現が、欧米憲法における、慣習的な用法として、「王様の民事、刑事の、免責。民事裁判所、刑事裁判所に引き出されない」といったインプリケーションのものと、当時の有識者

  • だれでも知っていた

というのと同じように、第9条が「あった」ことで、結果として、今、日本は国際社会に復帰している、ということなんじゃないんですかね。それを、今になって、

  • 敗戦直後の、戦後憲法制定時から第9条は含まれてはなからなった

と言うことの意味が、私には、さっぱり分からないんですよね。ようするに、井上氏が「なぜ第9条が削除されなければならないのか」を、体系的に論証的に、今の段階では、説明に成功しているとは、とても言えない、ということが、まあ、一つの現段階の帰結だ、ということなんだと思うわけです...。

逞しきリベラリストとその批判者たち―井上達夫の法哲学

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