アイドルと鬱

アニメ「デレマス」は、なぜつまらないのであろうか? もともとケータイゲームとして、アイテム課金制などにより、このアニメ制作自体は、他のアニメに比べても、比較的資金に余裕をもって、作成されているのではないか、と思っているのだが、とにかく、まったくおもしろくない。
このつまらなさは、アニメ「艦隊これ」ともどこか共通した、「つまらなさ」とは言えるのかもしれない。「艦隊これ」もケータイゲームとして、ゲームプレーヤーが「総督」という位置から、艦娘(かんむす)との関わりを、いわば「総督目線」で、ハーレム的に楽しむものなのであろう。
同じように「デレマス」も、それぞれのアイドルの卵との関わりを、プロデューサー目線で、ハーレム的に楽しむようになっている。
しかしね。
早い話が、「提督」だとか「プロデューサー」だとか、まったく、リアリティがないんですよね。
そもそも、アイドルって、子どもですよね。そういった子どもに、「人格」を要求するのには、それなりに限界があるんじゃないですかね。つまり、変に「ちやほや」されたら、勘違いしてしまうんじゃないですかね。お高くとまって、浮世離れした性格になるもんなんじゃないだろうか。
アニメ「デレマス」においても、それぞれ、一人一人のアイドルは、いわば「プロデューサー」が、

  • スカウト

して、集めてきている。つまり、そのアイドルの女の子たちは、

  • どうあればいいのか

を常に、プロデューサーに求めてしまう。つまり「答え」をプロデューサーの中に求めてしまう。そういう意味においては、ここには、常に、プロデューサーと各アイドルたちとの「一対一」の関係が意識されている。
つまり、どういうことか?
プロデューサーの「不安」の感情が、簡単に、それぞれのアイドルたちに「感染」してしまうわけである。
なぜ「デレマス」は、異様なのか?
それは、この作品においては、あらゆることが、プロデューサーと各アイドルたちとの「一対一」の関係に収斂してしまうため、各アイドルたちを「主体的」な位置に置くことができない。それは、作品の

  • 主人公

が「プロデューサー」であることを意味している。物語は常に、主人公の波瀾万丈の物語によって、快楽感情を導く。つまり、主人公である「プロデューサー」が、危機になったり、成功したり、といった作品のアクセントのために、常に、各アイドルたちが

  • 手段

として使われる、ということなのである。各アイドルは、話の展開の色付けのために、なんの文脈的必然性もなく、主人公の「プロデューサー」を危機に陥れるために、奇矯な態度を演じることになる。
こうして、アイドルたちは、「脚本」が要求する、「ただの人形」となっているわけである。
なぜ、おもしろくないか?
このアニメにおいて、そもそも「ファン」の存在が描かれていないわけである。つまり「ファン」が徹底して

  • モブ・キャラ

として描かれている。まったく、各アイドルとファンとの交流が描かれない。つまり、

  • 誰がファンなのか?(=なぜ、そのアイドルは「人気」があるのか)

が、各ファンの声として、まったく「説明」されないわけである。各アイドルは、最初から最後まで「プロデューサー」の方しか向いていない、つまり、「ファン」に興味がない。つまり、どういうことか?
各アイドルは、驚くべきことに、「なにが楽しくて、アイドルをやってるのか」が、まったく描かれない、ということになっているわけである。
こういった状況を、最も「悲惨」な形において体現しているのが、「うざみお」こと、本田未央(ほんだみお)の

  • 鬱回

が典型的なその状況を示している、と言えるだろう。CD発売記念のミニライブが、美嘉のライブにバックダンサーで出た時と比べて客数が少なかったことから、「うざみお」はブチ切れて、アイドルをやめてしまう。彼女の年齢を考えれば、こういったナイーブな反応は分からなくはないが、しかし、そういうことではないんじゃないのか、と思うわけである。
つまり、あんたまだ、デビューしたてで、どうして自分をだれかが「応援」してくれる、と思えるわけ? つまり、さ。なんか勘違いしてんじゃねーの、というわけであろう。
おかしい、でしょう?
ぽっと出のアイドルに、どうして、客がいんのよ。お前、お客様のために一体、なにを今まで、したんだよ、ってことでしょう。どこの会社でも、営業は、2年ドサ回りして、通いつめて、やっと一つ仕事を回してもらえるんだよ。デビューライブに人なんか来るわけがねーじゃねえか。
つまり、さ。
これは「うざみお」が悪いとか、そういうことじゃなくて、「こういう脚本を書いたバカ」が、他方に存在する、っていうことなんだよね、
じゃあ、なんで、こんな脚本を書いたのか、と考えると、つまり「プロデューサー」を

  • 危機

に追い込んで、作品を盛り上げようとして、なんですよね。でも、このアニメを見ている人にとっては、もうそういう話じゃないわけでしょう。「うざみお」は、どこか、精神的に鬱病の気配がある。そういった病的な兆候を、ひきづりながら、アイドルを続けている方が、ずっと問題なんじゃないだろうか。彼女は、いったん、この業界から離れて、ある程度の期間、ストレスのない生活をすることが求められているんじゃないのか。
最新話では、今度は島村卯月しまむらうづき)が、ナーバス・ブレイクダウンの兆候を見せているわけで、どうも、作品全体に、女の子たちにプレッシャーを与えて、どんどん

に落とし込もうとしている、脚本側の「意図」が読み取れる。そうやって「プロデューサー」を追い込むことは、制作側にとっては、一つの「テクニック」なのだろうが、そう行えば行うほど、作品全体に、

  • アイドルの「手段」化

の色彩が強くなっていく。日本の多くのアニメが「ヒロイン殺し」によって、

  • 主人公を「成長」

させるように。なにが、この悪循環をもたらすのだろう? 一つだけはっきりしていることは、アイドルは「プロデューサー」と話をしちゃいけないでしょう。会社側を向いている限り、それは「操り人形」でしょう。アイドルが、お客の前で、会社の顔色をうかがっている姿を見せた時点で、終わりでしょう。あんたの「ファン」を名乗り、あんたを「応援」しているファンの

を向いて、そいつと話せよ。徹底して「プロデューサー」との諸関係を「破壊」しろ。そして、自らの「意味」を、ファンとの「対話」の中に見出せ。このアニメが徹底して失敗しているのは、そのアイドルが「ファン」を媒介にして、存在していないから、と言うしかないであろう...。