責任者は誰か?

今回の安保法制は、まさに佳境にさしかかっており、この後の展開がどうなるかは予断を許さない。
しかし、そういったことと関係なく、今回の、シールズなどのデモによる国会前などでの反対運動や、野党による国会ので反対行動は、非常に重要だと思っている。
というのは、それによって、今回の安保法制の正統性が著しく低いことが白日の下にさらされるだけでなく、おそらく、アメリカは、日本へのさまざまな「要求」を行うときに、非常に

  • 躊躇

するのではないか、と思われるからである。ようするにこれは「正統性」の問題だ、というわけである。これから、この安保法制を政府が実行しようとするたびに、国民は今回の一連の「国民の意志表示」に対して、なんらかの

  • 言い訳

を常に求められる。そういった意味で、私は今回の安保法制は、結果としてまったく実質的な運用が行われないのではないか、と考えている。
おそらく、もしも法案が成立するなら、違憲裁判が連発するであろう。それは、当事者である自衛隊内からも行われることが予想される。
今回の展開は、六十年安保における運動と非常によく似ている。最初、この安保闘争は、その法案の中身を巡る意志表示であったが、途中から、岸信介首相の民主主義を無視した、議会の運営に主眼を置いた反対運動に、様相が変わっていった。今回も、安倍政権の議会運営のあまりにもの無法ぶりに、次第に国民の反対の声が高まって行った傾向にあったと言えるであろう。
大事なことは、こういった「パフォーマンス」を

  • 子どもっぽい

と言って、さかしらに、「高等住民」をきどっている連中に、鉄槌を下すことだと思っている。幼稚でなにがわるいのか。幼稚でいいのである。私たちは

  • ありのまま

を示す。本当を示す。それを馬鹿にする奴は、それによって馬鹿にされるのである。大事なことは、国民が「意志」を表明して、それを

することであるこの姿が、さまざまな政府の行動の「正統性」に疑義を生じさせ、彼らの行動を否が応にも規制していくのである。
日本の戦後の歴史は、こうやって政府と

  • 戦ってくれた

民主主義者たちの勲章の歴史である。私たちは二度と戦前を繰り返さないために生きているのであって、「普通の国」になるために生きているわけでも、なんでもない。日本が普通の国になるべきだと言う連中は、頼むから、勝手に日本から出ていってくれませんかね。
中国政府は、日本の戦争責任は、一部の指導層によって引き起こされたものであったのであって、パンピーには罪はなかった、といった線で「手打ち」をした。つまり、これが「A級戦犯」問題であるが、それはアメリカも同様なのである。
しかし、このことは一般の「軍人」が「平和」的だったことを必ずしも意味しない。なぜなら、軍人の行動は一般的には、指導層の「命令」だからである。
ところが、である。日本の議論は、一般に「一億層懺悔」になりやすい。つまり「責任者」はいなかった、というわけである。しかし、もしも責任者がいないのなら、どうして日本は勝目のない戦争を行い、多くの犠牲をだして、敗戦したのであろうか。もしも、責任者がいない、ということにする、すると、どうやってこの敗戦は起きたのか、となる。考えられる仮説は一つしかなくなる。つまり、

である。あるモル現象があるとする。つまり、国民の一人一人は「励起」状態になったりならなかったりしているが、その濃度が一定程度を超えると

  • 暴走

し、相転移を起こし、戦争に突入する、ということになっては、じゃあ日本人は

  • 自分で戦争を始めてしまっても、自分で止められないんだね

ということになり、「危険な国民」だということになってしまうであろう。
例えば、今回の安保法案における、与党議員の態度を考えてみてほしい。その中に、いかに主体的に安保法案について考えている人が少なかったか、を。彼ら与党議員の態度は

  • 自分は「これ」の専門ではない

という「逃げ」の態度だった、ということを。つまり、彼らは一切の責任を「安倍首相」に一任しているわけである。つまり、そういう

  • 立場「主義」

をとっている、ということなのだ。この法案が成立することにおける、一切の責任は「安倍首相」がどうせとるのだから、自分には一切関係ない。自分は、それ以外の、自分にとって重要な「法案」について考えたいので、文句の一切は、安倍首相に言ってくれ、という態度だ、というわけである。
(これは「原発」再稼動についても、同様に言えるであろう。)
これが与党議員である。一切の責任は、安倍首相にある。しかし、お前らが賛成票を投じるから、この法案が成立するわけであろう。これこそ、安冨歩先生の言う「東大話法」であり「立場主義」であろう。私たちは、いわゆる「エリート」たち使う

  • 奇妙なレトリック

に注意をしなければならない。彼らの「責任逃れ」を許すな。ちゃんと責任のある奴に、責任をとらせること。これを、一つ一つ積み重ねていった先に、始めて、意味のある民主主義があるわけである...。