伊東計劃『ハーモニー』

よく日本には宗教がない、と言われる。つまり、ほとんどの日本人が無宗教だ(無宗教な生活をしている)と。そして、そのことに、日本以外の国の人は

  • 不思議

に思う、というわけである。なぜ日本以外の国の人がそのことを「不思議」と思うかというと、そのことが人間「定義」に反しているんじゃないのか、と思っている、ということなのであろう。
つまり、どういうことか?
つまり、宗教は多くの国において、たんに「存在する」というだけの問題ではない。そうあることに、なんらかの人々の生活の「納得」が関係している。つまり、ここで日本人の宗教がないことが「矛盾」だと言っている人にとっては、それは日本人には「納得」がないと言っているように聞こえるから、おかしいんじゃないのか、と言っていると解釈できる、ということである。
そう考えてみると、日本人は無宗教だといった表現は、どこか間違っているんじゃないのか、と思われてくる。それは日本語として間違っている、ということではなく、日本以外の人が「日本人は無宗教は矛盾なんじゃないのか」と言っている、その「表現」によって彼らが意図していることと、この日本語の慣習的な表現が合っていない、ということなのである。
つまり、どういうことか?
日本人は宗教がないのではない。日本人は宗教に「代替」するものによって、その「納得」を補填している。もちろん、それで納得しているかどうかまでは分からないけど、つまりは、常に、そうすることで、日常を「格闘」しているんじゃないのか、と。
そう考えてみると、一つ、非常に重要な日本国内にある「存在」について、浮び上がってくる。

  • 病院

である。なぜ、日本において病院が重要なのか。それは、そこが多くの人にとって「ターミナルケア」を生きる場所だからだ。
言うまでもなく、日本において医学部は、ほとんどその地域の子どもたちの中でも、学校の成績の頂点を競っていた中の勝利者に与えられる特権的階級であり、いわば、日本の

  • 知性

が集まっている場所と考えられている。そういう意味で、日本においては医者は大衆にとっての「リスペクト」の集団といった感覚がある。しかも、日本においては、かなり手厚い医療介護制度が整っており、多くの人にとって、病院に通うことは、国民の

  • 権利

として行うといった意識が強く、それはまさに「公共」的な存在として意識されていることを意味している。
掲題の作者も、長い癌との闘病生活の末に、2009年に亡くなっていて、この長編SFは彼の遺作とされている。
私も、なんだかんだで、40歳をとっくに超えて、もう人生の晩年を迎えているんだな、といった意識が強い。そういう意味では、別に、どうでもいいことを時間つぶしに繰り返すのではなく、なにか意味のあることをやって、残りの一日一日を生きたいなあ、と思うわけだが、なかなかうまくいかない。
しかし、掲題の著者にとっては、それは抗いがたく、目の前に迫っていた何かだった、ということなのであろう。その「来たるべき日」に向けて、やれることを徹底して考えた毎日だったのであろう。
前作の『虐殺器官』は、3・11以降のアメリカの「暴走」を一つのリアリティとして描こうといっった意図がクリアにされている一方で、その作品の中においては、いわゆる「イスラム教」の

を生きる一人一人の問題があまりクローズアップされていないことが、つまり、「歴史」として作品を描けていないことが、正直に言って、私にとっての不満点だということになる。つまり、彼らアメリカが「誰」と戦っているのか。具体的に「誰」なのかが、徹底して示されない。言わばそれは「妄想」の体系といったようなもので、思考の中から「排除」されている。
こういった「他者」が示されないスタイルは、いわば「ゼロ年代」作品の傾向なのかもしれない。もちろん、それによって原理的にシンプルにされることによって示される何かがあるのかもしれないが、逆に、掲題の著者は、イスラームにおける「旧客聖書」や「コーラン」の読解の歴史などには、どこまで文献学的な関心をもっていたのだろう、といったことは詳しい人には調べてもらいたいものだ、と思ったわけである。
他方、掲題の『ハーモニー』はどうかと思うと、興味深い存在として、「零下堂キアン」という登場人物が描かれる。
医療制度が発達して、ほとんど病気がなくなった高度に発達した管理社会。女子高生の主人公の霧慧トァンには二人の、いつもつるんでいた友達がいた。御冷ミャハと零下堂キアン。ある日、ミャハは他の二人に一緒に自殺をしようと提案をし、三人で自殺をすることにする。

キアンはそこで不安を感じたのか、かすかに眉を寄せ、
「だから自殺するっていうの......。攻撃の一環として自分で死を選ぶわけ......」
ミャハはあっけらかんとキアンにうなずいてみせ、
「わたしたちが奴らにとって大事だから、わたしたちの将来の可能性が奴らにとって貴重だから。わたしたち自身が奴らのインフラだから、奴らの財産となってしまったこの身体を奪い去ってやるの。この身体はわたし自身のものなんだって、セカイに宣言するために。奴らのインフラを傷つけようとしたら、それがたまたまこのカラダだった、ただそれだけよ」

こういった解釈はとても日本的だと言えるのではないか。または日本的医療、と。というのは、日本の手厚い福祉医療においては、単純に病院は「福祉」を与えるとも言えないんじゃないのか、と思うわけであるからである。例えば、大学病院は言うまでもなく

  • 研究機関

である。本来の目的は「研究」の方なのであって、往々にして医者の行動は「実験」的側面をもっていると考えられる。もっと言うなら、日本の医療福祉は、その境界線がはっきりしていない。実際に、大人はかなりの高額の医療保険料を毎月、給料から払っている。しかし、これらが「どういったお金」なのかは、よく考えてみると説明されない。国がこういった医学の「研究」への投資に、このお金は使われているんだろうか? つまり、私たちは

にお金を払っているのだろうか?
ミャハがなぜ、いらだっているのか。それは、この病気という概念がほとんどなくなった高度管理社会において、自分には

  • 病気になる自由

が与えられない。病気に「なってはならない」わけである。そのために、「監視」をされる。常に体内には WatchMe と呼ばれている医療監視ソフトウェアが体内の「情報」を国家に報告され、緊急時には、「治療」がされる。そしてそれは「優しさ」と考えられる。しかし、本当にそうなのか? 近年、ビッグデータと称して、国家が国民の情報の収集に興味をもち始めている。あの、ばかばかしい消費税還付騒動も、その一環と考えられる。しかし、それは本当に

  • 国民のため

なのか? むしろ「国家」は、国民を「管理」の状態においておくことで、

  • 自分が安心したい

だけなのではないか? ミャハのいらだちは、現代の私たちのいらだちだとも言えるであろう。マイナンバー制度が始まり、国家はよく分からない理由で、さまざまな「個人情報」の収集に着手し始めている。おそらく、その動機の一部には、『虐殺器官』において描かれたような

  • テロ

への国家自身の「恐れ」もあるのであろう。
そして、三人は一緒に自殺をするのだが、結果として死んだのはミャハだけであった。
時がたち、十三年後、あの事件からまったく音信をとっていなかったトァン、たまたま仕事の関係で日本に戻ってきたとき、キアンと出会い、一緒に食事をしているとき、意外な事実を知らされる。

「わたしね、途中であの薬、飲むのやめたの。怖かった。自分が痩せていくのが、弱っていくのが本当に感じられたから。子供の頃だって、WatchMe こそインストールしてなかったけど、親が健康コンサルタントと一緒にライフデザインしてくれてたでしょ。家おメディケアがすぐ予防薬とか出してくれてたし、病気とか頭痛とか、そういうのって経験のある子はほとんどいないじゃない」
「そうだね。わたしもそうだった」
「だからね、わたし、カラダが生きてて、変化するもので、永久とか永遠なんてんものはなくって、生きるって苦しくて痛いものなんだ、ってはじめて実感したの。これが生きていることなんだって。この苦しさが、人間が生命である証なんだって。そう思うと、突然怖くなったの。自分が命であることが、自分が生命であることが」
「わかる、ような気がする」
「だから怖くなって薬飲むの止めちゃったの。ミァハやトァンにはとてもそんなこと、言えなかった。だから誰にも言わず、ずっとずっと黙ったままで、わたしがようやく親に告白したときには、ミァハはもう駄目になってた」
うっすらと、キアンの瞳に涙が溜まっているのが見える。十三年間、これを抱えているはどんなに辛かったことだろうか。

この女性が十三年間抱えてきた苦痛の一端に、わたしははじめて触れたような気がした。キアンがこれほどののもを背負っていたと思えば、さっき「わかるような気がする」などと言ったのはとんでもないおためごかしだ。キアンの苦痛はとても厳しくて、深くて、この女性はそれを十年以上もずっと自分ひとりで背負ってきたのだ。
ミァハの腰巾着、それはとんでもない誤解だった。あのときあの場所にいた少女は、たぶんミァハよりも、勿論わたしなんかよりもずっとずっと強くて、気高くて、誰に助けを求めることもできない孤独の場所に建っていたのだ。たったひとりで。

そもそも、この作品には「零下堂キアン」は必要ない。それは、例えば、、『虐殺器官』にはそれに対応する存在がいないことによっても分かる。一人の脇役である。だとするなら、なぜ作者はこの人物を登場させなければならなかったのか、と考える必要がある。
「零下堂キアン」は、いわば「他者」である。主人公のトァンはキアンは、いつもミァハと一緒にいる「腰巾着」にすぎないと思っていた。いわば、「モブ・キャラ」だと思っていた。十三年経った、この日。始めて、彼女は「他者」だったことに気付いたわけである。
これは、おそらく、作者の病院での体験でもあるのであろう。ターミナルケアを生きる、その病院の人たちには、一人一人に人生がある。そして、一人一人は、それぞれ、孤独を抱え、立派に生きてきた。こういった風景を作者は、「宗教がない」と言うには、違うと思ったのかもしれない...。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)