ミシェル・ウエルベック『服従』

自民党小泉政権が、小泉首相という党内になんの基盤もなかった一匹狼に政権が移ったとき、彼は一本釣りで、党内の「若手」から、後継者候補として自らの側近として、何人かを置いた。
その一人が安倍首相であったわけだが、この人選の特徴は彼らが「極端」な右寄りだったことであろう。つまり、新しい教科書を作る会といったような、かなり

  • 原理的

に保守政治を実現していこうといった動機をもった勢力だったということであり、それは、彼らが実質的な自民党の「支配」勢力となっていった今に至って、小選挙区制による、党による活動費の「独占」の傾向が強まって行った過程とあいまって、自民党は以前のような、硬軟おりまぜた、バランスのとれた政党から、安倍首相のような、極右思想を原理主義的に実現していくような、

政治活動家の集団へと変貌していった。この状況をかんがみるに、果して、今後、自民党に代わりうる政権が誕生しうるのか、といった状況は、なかなか想像しずらくなっている、と言えないだろうか。
確かに、一次、民主党政権が誕生した。しかし、今の安倍政権の、党内閣僚のほとんどを日本会議のメンバーで構成しているような今の状況を考えると、もう二度と、民主党に政権を譲るなどということを行いようにないメンバーに思えるわけである。
なぜなら、彼らは一種の「革命家」である。日本の「革命」のために、政治を行っている人たちなのであって、その一環として、日本中の子供たちの歴史教科書を、育鵬社のものに変えようとしているわけで、そういった連中が本当に、政権を手放すのだろうか、というのが疑問なのである。
つまり、彼らは、たとえ選挙で野党に負けても、もう二度と、政権を手放さないのではないだろうか?
つまり、それはどうやって、実現するのか? 軍隊を使って、である。もしも、安倍政権が「非常事態政権」として、永久革命政権を宣言したら、どうなるか? どんなに選挙で負けても、「選挙に不正があった」とかなんとか、言い訳を繰り返して、二度と、野党に政権を譲らない、というわけである。
まさか、そこまではやらないだろう、と思うかもしれない。甘いんじゃないだろうか? 今回の安保法制にしても、最後の参議院の保安可決までの手法は、とても民主主義国家の行いとは思われない強引さがあった。つまり、もう、彼らには民主主義の体裁を整えなければならない、という矜持さえない。民主主義など、どうでもいい。戦前の天皇独裁の軍事独裁国家に戻ればいい、と考えている政権中枢のメンバーに官邸をハイジャックされている、と。
しかし、それが国家の「保守化」ということの意味なのであろう。
掲題の小説は、フランスの近未来において、イスラーム教の政権が誕生し、フランスが変容していく姿を描いているが、その変容の過程は、どこか一般的な「保守派」の政権と似ている印象を受ける。

「それにしたって、ベン・アッベスはイスラーム教徒ですよ......」ぼくはうろたえ、漠然と反論を試みた。
「そうです! それで?」
彼は勝ち誇ったようにぼくを見た。
「彼は『隠遁』なイスラーム教徒で、それが本質的な点なのです。彼は耐えずそれを強調していますし、それは嘘ではありません。彼をターリバーンとかテロリストとして考えるのは大きな謝りです。ベン・アッベスはそういった連中には軽蔑しか抱いていません。『ル・モンド』紙の『論壇』欄に彼が書いた文章には、そこで明示した彼らに対する道徳的な非難以上に、強い軽蔑が現れています。本当のところ、彼はテロリストたちをアマチュアと見なしているのです。ベン・アッベスは現実には極度に抜け目のない政治家で、おそらくフランソワ・ミッテラン以来、フランスに存在したもっとも巧妙で狡猾な人間でしょう。そして、彼には、ミッテランにはなかった真の歴史的なヴィジョンがあるのです」

これは一般的に、多くの民主主義国家と呼ばれてきた国々で起きている現象なのではないか。彼ら「非中道」の決定的な特徴は、リベラリズムに興味がない、というところにあるであろう。つまり、リベラリズムの理念を共有していないから、リベラリズムの破壊の

  • なにが悪いのか?

といった反応になる。事実、掲題の小説では、一見するとフランスは「平和」でさえある。街の治安はよくなり、若者は不良にならなくなる。人々は以前より暴力の不安におびやかされることもなくなる。そういった意味において、「非中道」政権は、大衆の支持を得やすい、ということなのであろう。
不思議に思うかもしれないが、これが一種の「ファシズム」なのだ。ファシズムは大衆に「迎え」られる。つまり、ファシズムは決して、最初からファシズムではない。大衆の支持を得て、圧倒的な人気の中、不人気な政策を「まさか」と思われている間に実行していく。そういう意味において、これは「トロイの木馬」に似ている。徐々に、だれも気がつかないくらいに徐々に、癌細胞は増殖していき、いつの間にか、もはや手遅れになっている。
この小説の世界において、なぜフランスにイスラーム政権が誕生したのか。この小説の文脈を考えたとき、それはフランス国家の「人権」意識が、イスラーム圏の人たちのもっている低い人権意識、たとえば、女性は専業主婦として家にいるべきだ、といった規範によって、逆に、人口増加の比率において凌駕したために、民主主義な「多数決」で勝てなくなった、といった整理と考えられる。
リベラリズムとはつまりは、「お金持ちを尊重しよう」という思想だと言えるであろう。お金のある人の「利己主義」を社会が、非難しない。そしてそれは、特に、税制のシステムにおいて、決定的となる。税金を「平等」に徴収するため、必然的に貧乏な家庭は生活が苦しくなり、家族をもてない。これが、日本などを含めた、人権国家が起きている

であろう。お金持ちの家庭は子供も多く幸せであるが、貧乏な家庭は税金が苦しく、子供を最初からあきらめている。しかしこれは「人権」思想が、お金持ちから高額のお金を国家に貢がせるのは「不当だ」といった、リベラリズム思想が、強いた、一種のイデオロギーだと理解された。
この結果として、何が人権国家において起きているか。まず、お金持ち勢力は、自分たちの「権利」を守るために、以前から存在した「極右勢力」に接近を始める。「極右勢力」は基本的に、日本国民に対してしか、なんらかの便益を供与する動機をもってない。しかも、彼らは「国家」の便益を最大化させることに関心があるわけで、そもそも、国家の最底辺に、なんの関心もない。その論理的必然によって、彼らは富裕層の便益の最大化が、

だといった理屈に簡単に導かれてしまう。
富裕層にとっての問題は、「民主主義」による多数決は、貧乏人に負けてしまう、というところにある。つまり、富裕層にとっての最大のプライオリティは、どうやって「民主主義」を止めるか、に移ってきているのが、世界的な傾向だと言えるであろう。
こうやって、世界の先進国と呼ばれてきた人権国家は、一つの「モデル」が形成されてきた。低福祉かつ逆進性の強い「新自由主義」国家と。この国家システムは確かに、富裕層にとっては理想的な国家システムに思われた。自分たちの税金が少なく抑えられ、いくらでも稼いだお金が、通帳に増えていく。
しかし、このシステムには一つの欠点があった。それは、

  • 貧乏人が子供を産まなくなる

という国家の「衰退」という傾向が。国家の衰退というのは、ようするに「日本人の慣習をもった人たちの衰退」のことだと考えるべきであろう。ようするに、日本のお金持ち勢力は、

  • 日本人が嫌い

だった、というわけである。彼らは「勝利者」である。だから、いくらでも「敗者」を虐げていい、と考えた。貧乏人をさらなる貧困に貶めることが、彼らの「娯楽」であった。彼らは、そもそも自分が「日本人」であることを嫌っていた。彼らは求めていたのは、名誉白人の地位であって、毎日鏡を見て考えることは、俺の顔のここの部分は白人に似ている、といったことばかりであった。
いざとなったら、海外に逃げて、名誉白人にさせてもらえばいい、くらいにしか思っておらず、ようするに

にしか彼らは興味がなかった。自分が貧乏人に商品を売って、さんざん儲けたくせに、貧乏人と自分が同列に扱われることを、穢らわしいと考えた。
しかし、そうすることによって、なにが起きたか?
日本人はどんどんいなくなった。国家が消滅した。もちろん、国家は消滅しない。じゃあ、何が起きるかというと、そこに「別の人」が占めることになる。それを、掲題の小説では、フランスを舞台にして、示している。
彼らイスラームの人たちは、たんに、非人権的であるだけでなく、同胞意識が高く、相互扶助に積極的であった。よって、必然的に比較的貧困の階層に所属する家族も子供を多く出産する傾向があった。そこから、必然的に彼らの

  • 民主主義(=選挙の多数決)

の発言権は増大していく。
さて、これが「日本の未来」である。日本の富裕層、左翼嫌いの高所得勢力は、その彼らの「左翼ファビア」「若者ファビア」な傾向によって、結果として、日本の人的リソースを破壊していることに気付かない。本来、国家が行うべきは、

  • 冨の平等政策

であるはずなのに、彼ら、富裕階級の「左翼ファビア」「若者ファビア」は、まったく生理的にそれを受けつけない。自分の売る商品が、そういった貧困階級が「買って」くれたから、自分が富裕層に入れたにもかかわらず、である。
例えば、伊東計劃の『ハーモニー』を読んでいたとき、私はツイッターなどで、富裕階層が貧乏人の生活の苦しさを、実にあっけらかんと、嘲笑し嗤っている「リア充」ぶりについて考えさせられた。伊東さんはあの小説の最後において、主人公が「復讐」を果たした後においてさえ、

  • 意識の消滅した世界

を描かさるえをえなかった彼なりの人間への「あきらめ」を示していたのではないか、と思っている。これからも人間の醜さが続くのなら、いっそのこと、すべての人間から「意識」がなくなってしまえばいい。その「すがすがしい」までの光景は、私たちを、どこか魅了する。醜い人間の自意識は、本当にこれからも続くべきなのか? それは言わば、彼の死んだ後も残され、生きていくことになる私たちへの、彼なりの「復讐」だったのではないか?

服従

服従