今の日本に「ステマ」でない言論はあるのか?

そもそも、安倍首相のおじいちゃんにあたる、岸信介元首相が、アメリカのCIAのスパイであることは、周知の事実であるわけで、どう考えても。彼はA級戦犯であるのに、裁判で死刑にならなかったのは、アメリカと手打をして、アメリカのスパイになったからなのだろう、といったことは誰でも分かりそうなものだが、なぜか、だれもそのことを言わない。
しまいには、スノーデンの暴露によって、ISのシャリフのバグダディが、イスラエルのスパイだという話まであるのだから、なんともまあ、また、アラビアのロレンスをやっているのかと思うと、うんざりさせられるわけだが。

CIA元職員のエドワード・スノーデン氏によると、イスラム国の指導者バグダディ氏は実はサイモン・エリオットという名のユダヤ人で、イスラエル諜報機関モサド工作員であることが暴露されています。
なぜ、イスラム国の指導者がイスラエルの工作員であることに触れられないのか? - まぐまぐニュース!

イスラエルがISを誕生させたとしたら、そのメリットはいっぱいある。アラブ人同士で戦争させて弱体化させることがイスラエルのメリットなのは誰でもわかる。さらに、人質の処刑映像を公開することで、イスラムの野蛮なイメージを世界に広げられる。敵側から入り込んだ工作員が、組織を過激な方向にもっていくというのは、3つの理由で常套手段だ。1つは、過激にすることで組織内の穏健派と対立させ、つまり、組織内を対立させる。もう1つは先述したイメージダウン。3つ目は、自分が急進派になることで潜入工作員である疑いを持たれづらくするため、などなど。
なぜ、イスラム国の指導者がイスラエルの工作員であることに触れられないのか? - まぐまぐニュース!

例えば、このネット空間においても、かなりアクティブにネット上に書き込みをしている連中の正体は、自民党と政府の連合軍による、

だと思っている。つまり、「バイト」である。自民党と政府が、お金で雇って、ネトウヨ的なことを書かせているわけであろう。もともと、自民党とは、上記の岸信介がそうであるように、CIAによる、日本をアカ狩りするとための、「宣伝」費用として、アメリカから膨大な資金が自民党に渡り、その活動費で、国内のマスコミを、さまざまな形で、お金で買ってきたのが、自民党の歴史なわけであろう。
基本的に、日本の言論空間は、

に覆われている。なにかを話している人がいたら、たいていは、自民党にお金を握らされていて、話している内容は(一見、自民党批判をしているようなニュアンスをかもしながら)実質的には、自民党応援団の主張をしている。ようするに、お金で魂を売った連中ばかり、ということである。
こういった連中を、3・11以降、「御用学者」であり「エア御用」と言ったわけであるが、このように考えてみると、お金で、文章を売っている連中は、なにかしら

をやっていると考えるべきなのであって、これをまぬがれている人間など、考えられないわけである。
ようするにさ。日本の言論空間って、全部

なんじゃねえの? 一体、どこにそれを免れた言説があるのだろう? 一体、誰がそういった「ステマ」を介すことなく、言うべき「正論」を言っているのだろうか? 放射能安全だって、それ言えば、東電から裏でお金もらえるんだろ、とゲスのかんぐりを日本中のだれもが行うようになったのが、3・11以降の日本の言論空間なのであって、実際にそれだけの

  • あぶく銭

を3・11以前、マスコミから広告代理店からにばらまき続けて、そのお金でリッチな生活をしていたのが、こういった御用言論人だったわけでしょう。そして、その構造は、別に、3・11以降も変わっていない。変わったのは、そういったゲスな人間を見る、国民の軽蔑した視線だったわけであろう。
今週の videonews.com では、伊勢崎さんによる「新9条」がとりあげられているが、それを見ると、まずもって、自衛隊武力行使

  • 日本国領域内に限定する

となっている。つまり、PKOの南スーダンへの自衛隊の派遣も、イラク戦争時の自衛隊の派遣も、この改憲案ではできない、ということになる。
伊勢崎さんの主張のポイントは、国連の「機能の変化」にある。

伊勢崎 国連平和維持活動(PKO)自体の考え方が、ここ10年でガラッと変わりました。政治交渉の末、停戦したところで、第三者として中立な武力を入れる。その状態を長続きさせ、和平に繋げる。昔はこれが主要任務でした。
しかし、1994年のルワンダのジェノサイドのように、PKOの目の前で停戦が破られ住民が虐殺される。当時は、国連が中立性を失い「紛争の当事者」になることを恐れ、撤退し、100万人の住民を見殺しにしてしまった。この教訓から「保護する責任」という考え方が生まれ、それが実行されるまでに10年以上の時間がかかるわけです。
だって、住民の保護は、そもそもその国家の役割ですので、国家に代わって、住民を傷つけようとする勢力に対して「武力の行使」をする、つまり、国連が「紛争の当事者」になる。今では、国連は中立性をかなぐり捨てて、住民を守ることを決意したんです。
「紛争解決請負人」が語る安保関連法案 / 伊勢崎賢治×荻上チキ | SYNODOS -シノドス-

つまり、それ以前の国連はまだ、役割が「曖昧」だった。そして、その頃に最初の日本の国連軍への参加が始まる。つまり、その頃であれば、まだ、日本の軍法をもたない(交戦権をもたない)自衛隊にも、やれることがあるんじゃないのか、と思われていた。
ところが、日本の法律が、そういった状況で派遣を決めた、すぐ後に、国連の役割はがらっと変わってしまった。
このように考えたとき、日本の憲法にしても、その法律にしても、作られたときは、まだ、その当時のリアリティがあったのだが、時間が進むにつれて、いろいろと変わってしまったために、いろいろと「用語」が、一般的な意味と乖離していってしまう。

  • 言うまでもなく、憲法第9条戦争放棄も、当時のGHQの占領下においては、アメリカが代わりに日本を守っている、というのは自明のことであった。守っているというか、日本を「監視」している、という表現の方が自然であった。ところが、時代が下がるにつれて、アメリカの側が日本に、自衛隊を作ってほしい、と依頼をするようになる。そして、そういった状況の中で、自衛隊が、9条と、なんらかの「意味」における、整合性をもちながら、作られる、という事態が発生する。しかし、細かく見てみれば、交戦権がなく、軍法がない自衛隊というのは、さまざまに勝手が悪く、自衛隊員個人にリスクを押しつけている性格がある問題がクローズアップされるようになる。
  • 同様に国連治安維持活動への自衛隊の参加も、始めた当初は、国連の役割もまだ曖昧であったわけで、なんとなく、この時限立法による自衛隊の参加は、それなりに合理的に説明できるレベルのように感じられていたわけだが、ルワンダ大虐殺を境に、国連の性格がガラッと変わったわけで、その時点で、日本はもう一度、たちどまって、自衛隊の参加の是非について考えらればよかったのに、それができなかった。

伊勢崎さんの主張は、日本は日本国領域内に限定した、専守防衛にてっした、「普通の軍隊」になろう、という主張である。
では、PKOへの参加をなぜ日本は止められるのかということでは、現在のPKOでは、ほとんどの現場の軍人は「周辺国」からの傭兵で十分にまかなえられているし、彼らの方がモチベーションがあり、現実的に機能している、ということと、こういった平和維持活動においては、必ずしも、軍人が重武装をして部隊を派遣することだけが役割ではない。軍人として、ある種の「事務方」としてやれる仕事は多くある、と。
あと、イラク戦争のような場合の「後方支援」というのは、そもそも、前方と後方の区別など無理なのだから、そういった活動に、自衛隊が参加することは無理がある。むしろ、そうやって参加することによって、実質的な「兵站」を行うことによって(言うまでもなく、兵站は戦争の勝敗を実質的に左右する活動であり、最もテロの標的となりやすい場所でもある)、

  • 敵は弱い所をついてくる

わけであって、つまり、「アメリカの同盟軍」として実質的に活動をすることによって、軍法ももたない自衛隊が、弱いがゆえの、かっこうの

  • 敵の狙い目

にされてしまうリスクが大きいわけで、そんな危険なことは止めるべきだ、というわけである。
ようするに、伊勢崎さんの新9条のポイントは、「交戦」をともなうような、遠い国外への自衛隊の派遣は行わないし、アメリカの同盟軍として、遠い国外への「後方支援」(という欺瞞的な兵站活動)もやらない(というか、新憲法が禁止しているから「やれない」)となるわけだが、しかし、だとするなら、そもそも、いわゆる「サヨク」的な人たちの多くは、そもそも、

  • (括弧つきの「後方支援」であれ、なんであれ)遠い国外への自衛隊の派遣

に反対してきたわけであるから、あとは、日本の周辺事態の状況の緊迫度において、より日本自体の重武装化が必要なのかどうか、といった話に限定されてくるように思われる。
(もちろん、アメリカの「同盟」と世界から見られていることによる、アメリカに敵対している勢力の「矛先」が日本に向くリスクがあることは言うまでもないが。)
いずれにしろ、伊勢崎さんの新9条にもとづいて改正するにしろしないにしろ、

  • どっちにしろ

この話の延長からするなら、日本のPKO派遣もアメリカの戦争の「後方支援」も、どっちも、一刻も早く止めましょう、という理屈なんだから、どっちにしろ、これをさっさとやった方がいいんじゃないんですかね? つまり、これを止めるという「決断」に関しては、別に、憲法を変える必要はないわけで。
しかし、ね。そのどっちも、自民党政権下だけでなく、民主党政権下においても進められた政策なわけでしょ。まあ、大政翼賛会と言ってもいいけど、どちらかというと、アメリカの意向に従順なわけですよね。つまり、自民党にしろ民主党にしろ、

に従って、いくらでも自衛隊を「普通の軍隊並み」にしたいわけで、つまりは、伊勢崎さんの言う、今の9条の精神でもある、「専守防衛」を超えて、まあ「普通の国家」である、なんでもできる

  • 9条削除論

こそ、求めているところなわけですよね。つまり、これについては、自民党民主党も変わらない。まあ、求めるのは「天皇の軍隊」ですから、そうなりますよね。そういう意味では、原子爆弾にしたって、なんで日本がもっちゃいけないんだ、となるわけでしょう。
ようするに、基本的には、明治以降の、吉田松陰フレームで、「経済復興」を果たした後の、

なわけで、結局は、この東アジア地域の「軍拡」リスクを拡大させる、今のインドとパキスタンのような「軍事緊張」の増大を意図せざるをえない、というようにしか聞こえないわけですよね。
しかし、例えば、「天皇主義者」たちにとってみれば、それのなにが悪い、という感想にしかならない。天皇を守るためには、日本国民は自らの命を犠牲にして、お救いしなければならないのであって、そのための「手段」としての武器など、いくらあっても足りない。そもそも、なんで戦争を避けなければならないのかが分からない。敵が天皇に牙をむこうとしているなら、命を投げだすのは「当たり前」、というわけであろう。
そもそもの原因が、吉田松陰フレームにおける「経済至上主義」が、その果ての「重武装化」を前提にしているから、そういった「エコノミック・アニマル」が倫理的に、肯定されうる、というロジックになっているのだから、つまりは、日本という国は、どうしたって、好戦的な「民族」で、日本人が日本人であるためには、何度でも戦争をして、何度でも日本を滅ぼさないと「分からない」んじゃないのか、という印象が強いわけである。
なんとかして、東アジア地域の「軍事的緊張」の高まりを防ぐ方法はないのか、という方向で誰も考えない。ようするに、日本人はだれもが「天皇主義者」だから、ハーメルンの笛吹きのように、日本人は集団自殺をしないではいられない。どうも、そういう構造になっているようである。
何年ぶりかで、小林よしのりの漫画を読んだのだが。私にはどうしても、この人に「知的な誠実さ」を感じられない。
従軍慰安婦の話にしても、だったら、さしで、何時間でも、意見が対立している人たちと議論をすればいいではないか。そうして、お互い、理屈でやれるところまで徹底して、やった上で、自分の持論だとかなんとか言えばいいのに、あきらかに、そういった細部に、本気で向き合おうという姿勢がないでしょ。なんか、3・11の低線量被曝の安全厨が、恣意的に議論の内容を狭めて、自分が答えたくないおととは向き合おうとしない欺瞞的な姿勢と非常によく似ているよね。
(まあ、お互いに、上記の意味での「ステマ」的な日本の文筆屋という意味で、非常に日本的な「エア御用」なんでしょうね。)

中江や頭山が活躍した時代には「右翼」「左翼」という用語など日本には定着しておらず、本人たちが自分を右だの左だのと認識したことは一切ないのである。
頭山と中江が友人だったというだけでなく、来島恒喜ら玄洋社員も中江の仏学塾に入り、ルソーの民権思想を学んでいたという経緯がある。

小林が左翼を毛嫌いするのは勝手だけど、彼はじゃあ、日本国民の貧富の格差を、本気で漫画の主題にしたことがあるんですかね。明らかに彼は、逃げてるでしょう。日本にいる、多くの貧困層をどう考えているのか。どうしたいのか。曖昧だよね。なぜか小林の左翼の定義には、この「格差問題」が抜けるんだよね。
そういう意味で、小林よしのりって、やる気あるのかな?

苅藻 ここの女はみんな親に売られた娘でありんす。
頭山 親を恨まないのか?
苅藻 とんでもない、飢えで苦しむ弟や妹のために、山に木の実を採りに行って...帰る途中でひもじさに耐えられず...ほとんど食べてしまい...その夜、妹を死なせてしまったあちきでありんす。その罰を受けなければならないのに...翌朝、お父もお母も、泣いて私に頼んでくれなんした。これしかない吉原に行っておくれと。そしてあちきを手放すとき、お父もお母もあちきに向かってありがとうと手を合わせてくれたんでありんすよ。親に感謝してもらえる嬉しさと、吉原に行けば、たらふくおまんまが食べられる、ムシロじゃなくて綿の布団で寝られる...希望に胸を膨らませて、あちきはクニを出て参りました。妹を死なせたあちきが、親に感謝されてクニを出るなんて...飢えないこの暮らしに不満を言ったら、死んだ妹に申し訳ありんせん。
頭山 うーむ...
苅藻 頭さん、いかがしなんした?
頭山 もう、ちんこ立たんぞ! かわいそすぎ...
ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇

まあ、ここも典型的だと思うけど、そもそも、こういった貧富の差の問題は、戦前において、一般的だったわけでしょう。かわいそうって言うけど、そういった例は、いくらでもあったわけでしょう。だとするなら、それを「かわいそう」といったような「感情」の問題にして、思考停止していいのか、という問題なわけでしょう。そして、むしろ、戦前戦後と、こういった貧困問題にとりくんできた人こそ、左翼運動家だったんじゃないのか。そういう意味で、小林よしのりに欠けているのは、むしろ「左翼へのリスペクト」なんじゃないのか?
だいたい、この頭山満伝も、最後が典型的なように、来島恒喜による「テロ」行為と、それに伴う「自刃」による自殺がメインの話になっている。しかし、こういった来島恒喜のような「テロ」は、江戸から明治への以降にともなう「武士階級」の終焉と非常に深く関係している。江戸時代における武士にとって、お家に諫言することと、その責任をとって、腹切りすることは深く関係していた。そういった自分の一つ上の世代の「作法」を継承していた、この世代において、こういった身の処し方は、自然であった。だとするなら、頭山満が人間的に漫画のキャラとして「おもしろい」のは分からなくはないが、この作品は、純粋に来島恒喜と向き合う形で描かれるべきでなかっただろうか。つまり、ギャグに逃げるな、真実から逃げるな、と思うわけである...。