表象文化論批判としての「ハーモニー」

アニメ化映画「ハーモニー」を見て、あらためて、この作品について考えないといけないかな、といった印象を受けた。
この作品は、女子高生の

  • 青春

の物語である。作品内においても、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」がでてくるように、彼女たち三人は「青春」ゆえに自殺をする。しかし、問題は「生き残る」というところにある。生き残るから、彼らは深く考えるわけである。
作品を見ると、主人公のトァンは、こうして生き残った後も、ミァハを非常に意識していることが分かる。言わば、彼女の人生は生き残ったがゆえに、ミァハにとらわれる。彼女の亡霊と共にあることなしに、自らの「今」の意味づけをできなくなっている。
そういう意味で、トァンとミァハは、非常に、

  • ペア

であるかのように、深く、対立させ、意識させられている関係として描かれていることが分かる。
女子高生時代の3人の自殺から13年後。トァンが再度、ミァハへの接近を図るとき、彼女は13年前の、3人での自殺について考えている。もしも、あのとき、この三人の自殺が成功して、三人ともが、その時に死んでいたなら。トァンは、ある「あるべき」状態について、深く考えている。そういう意味では、彼女は再度、ミァハに会うことで、もう一度、あの自殺のやり直しを行った、といった部分が強くあったことが分かる。
つまり、彼女の中には、一日として、「あの時、三人は死んでいるべきだったんだ」という強い感情が、この13年間、ずっと、心の中にあった、ということであろう。

「じゃあ、ミァハは戻りたかたんだ、あの意識のない風景に。自分の民族が本来はそう在ったはずの風景に」
ミァハは小さくうつむくと、そっとうなずいて、
「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」
「じゃあ、それを奪うことは、わたしのささやかな復讐になるのかな」
「え」
ふと投げかけられたわたしの言葉に、ミァハは予期しなかったというような反応をする。復讐。キアンの死と父の死とを抱えてここに辿り着くまでに、まるでその言葉をわたしが一瞬たりとも考えたことがなかったとでもいうように。
わたしはそんなミァハの身勝手さぶりが可笑しくてたまらなかった。やっぱり御冷ミァハだ、この女の子は。不思議な話だけれど、わたしはなんだかほっとした。
ねえ、御冷ミァハさん、あのお昼、零下堂キアンがカプレーゼに頭を突っこんでから、このチェチェンのバンカーに苦労してやってくるまで、何度わたしがあなたのことを殺そうと思ったか考えたことはなかったの。
「キアンは、死ぬ必要がなかった。だからあんなこと、ミァハはキアンに連絡したんでしょ。あなたは死ぬ必要があるなんて」
「......そう、なのかな」
「あなたの『意識』は自己正当化をする必要があった。あのときは。既に決定済みの、止めようがない事象に対して」
「そうなのかな」
わたしはうなずいて、そしてきちんと銃を構えようとした。
「だから、わたしはここでイアンと父さんの復讐をする」
「どうやって」
「あなたの望んだ世界は、実現してあげる。
だけどそれをあなたには、与えない」


ひゅーひゅーひゅひゅー。


そして、わたしは引金を引いた。


どっ、とミャハがコンクリートの床に倒れた。
口からやけに甲高くか細い気音が漏れている。ミァハは絞り出すように微かな声を発した。
「これで----許してくれる......」
「キアンと父さんのこと......」
「うん」
「わたしの復讐は、終わったわ」
わたしは倒れたミァハの髪を撫でた。唇の端から流れる一筋の血が、白い肌に美しく映える。瞳は力なく床を見つめている。かつて、人類の野蛮が存分に撒き散らされたこの床を。

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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この後、人類は、

  • 意識のない

存在となることが描かれる。そして、その世界は、ミァハが望んだ世界であり、そもそも、ミァハの生まれた少数民族は、そういった「存在」であった。ここは、重要なポイントである。なぜ、ミァハは普通の人間になったのか。それは、幼児の頃の彼女への、性的虐待<によって>であった。
つまり、どういうことか?
ミァハにとっては、私たちが生きているこの「意識のある」世界は、悪夢なのである。意識があるから、人間は「狂っている」。意識ある人間と、狂気は、深くつながっている。自分が意識あるなにかになったことと、自分が幼児の頃に、性的虐待を受けたことは、一対一に対応する。
このことを裏返して言うなら、ミァハにとっての「ユートピア」は、その幼児の頃の「意識のなかった」状態だ、ということになる。
しかし、このことをさらに逆にして言うなら、ミァハは、その幼児の頃の、性的虐待を受け、<意識>を獲得した時から

  • ずっと

彼女は、自分がいつ自殺をするか(=誰に自分を殺してもらうか)を考えてきた、ということになるのではないか?
これに対して、トァンが言っていることは、なんなのか?
彼女がこだわっているのは、13年前のあの日である。あの、三人が自殺をした日。彼女は、あのとき、三人は死んでいるべきであった、という気持ちがずっと離れない。問題はその関係である。13年前は、言わば、各自が自らを「殺す」関係にあった。しかし、13年後。キアンの自殺が、ミァハの言葉にうながされてのものであった関係から、今度は、そのミァハの「罪」に裁きを下す関係となるのは、トァンということになる。
ここでのトァンの態度は、ある意味において分かりにくい。というのは、ここで言う「復讐」が、あまりに形式的だからである。トァンはミァハの、その「意識の誕生」と、その時の「性的虐待」をどう考えたのだろうか? トァンのミァハが希望する「ユートピア」社会としての、意識のない人間社会に対して、トァンはほとんど一切のコミットメントをしてこない。つまり、これについての価値判断をまったく行っていない。もっと言えば、興味がない、に近い。
もっと言えば、「両義的」だと言えばいいだろうか。その「意識のない」社会は、あくまでも、ミァハが望んだ社会であるから、その実現を認める。そういう意味では、ミャハが望んだから、この社会の実現を目指している、と言えなくもない。しかし、その場合に、トァン自身の「価値」判断はそこには入っていない。
そういう意味で、彼女にとって、それはどうでもいいことだ、とも言える。彼女が最後までこだわったのは、その社会にミァハが生きるのは許さない、ということである。もっと言えば、彼女にとって、それ以外はどうでもよかった、と言ってもいい。
重要なポイントはどこにあるのだろうか?
ミャハの生まれた少数民族にとって、その状態はデフォルトの状態(劣性遺伝子)であった。しかし、ミャハは非常に残酷な仕打ちを受けることによって、言わば、「普通の人間」に

  • されて

しまう。そういった意味で、この構造は、どこか「原始共産社会」に似ていなくもない。または、聖書における、アダムとイブに。
ミァハは、確かに、「意識のある」人間を憎んでいる。しかし、そのことが、「意識のない」人間の全肯定を意味するのだろうか。ミャハのこの社会への憎しみは、「意識のない」社会がそんなにもいいものであることを保証するのだろうか。
私たちはここで、トァンがミャハの何にこだわっているのかを考えなければならない。例えば、トァンはキアンは「立派」だった、という。その意味は、彼女が13年間。自分がミャハやトァンを裏切ったことを言えなくて、苦しみ続けた。これだけの長い間、その「罪」の苦しみを抱えていたことについて、だと言う。つまり、ドァンから見てキアンは

  • 普通の人間

として、人間としての倫理的に許されないことに、個人的なその罪に「苦しみながら」生きてきたことへの、「人間としてのリスペクト」だと言えるだろう。そして、だからこそトァンはミャハがキアンを自殺にうながしたこと(=ミャハがキアンを殺したこと)が許せなかった(=形式的な復讐を行う口実となった)わけである。
トァンにとって、ここにある対応は明確である。ミャハがキアンを殺した。だとするなら、そのミャハをトァンが殺すこと、「復讐」をすることはクリアである。なぜなら、そうでなければ、キアンがむくわれない。キアンの、

  • 13年前の「あの時」、私は二人と一緒に自殺すべきだった

という、キアンが苦しみ続けた「何か」、人間的な何かには、なんらかの価値があり、その認識への侮辱には、なんらかの「対応物」が必要だとトァンは考えることになるのだから。
このように考えると、トァンはミャハとは違っている。ミャハのような、この「意識のある」社会の悪を滅ぼすために、「意識のない」社会への移行を絶対に実現させなければならない、といった境地にまで行っていない。つまり、トァンはまだ、「意識のある」社会の、なんらかの「善」の価値について考えている。それらは意味があると思っている。しかし、他方において、トァンはミャハの言う「絶望」を理解しないわけではない。というか、ミャハの言う「絶望」を共有したから、13年前、トァンはミャハとの自殺未遂を行ったのだから。
ということは、どういうことか? つまり、トァンはあの13年前。あの時から、ずっと変わっていないのである。彼女はずっと、あの時にこだわっている。言わば、彼女だけが、あの瞬間の呪縛から離れられないでいる。トァンが思っていることは、あの13年前。あの時、トァンとミャハは一緒に死んでいるべきであった。死ななければならなかった。そういう意味で、あの後を生きてしまったことは

  • 間違い

だったんだ、という意識がある。だからこそ、トァンはミャハに対しても、その「正しい状態」にもっていこうとする。そういう意味では、トァンの行動は一貫していると言えるであろう。トァンがキアンの、この13年間の苦しみの告白に、キアンへのリスペクトを感じたのと同様に、トァンは13年前のあの瞬間に、いつまでもこだわり続ける生き方しかできなかった。
トァンとはなんだろうか? トァンはミャハの完全な、「対応」関係にある。この作品において、このペアは形式的に対応している。いわば、ミャハのポジに対して、トァンの「それに対する」ネガが、この作品の構造をなしている。
この作品の構造は、作中に話される、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」にある。「若きウェルテルの悩み」はこの作品の主人公が自殺をするところにポイントがあるわけではない。この作品を読んだ、同じように恋の苦しみを生きていた多くの「青春」を生きる若者が自殺をするところにポイントがある。そういう意味で、ミャハが「若きウェルテルの悩み」で、トァンがこの本を読んで自殺をする若者という対応になっている。
トァンが13年前の自殺においてこだわっていたのは、ミャハが「自殺」を選ぶことであった。そのミャハの視線から見えていた、この社会の、「閉塞」されたこの社会の、絶望であった。それは「青春」の絶望だと言ってもいいであろう。ミャハとトァンの自殺を、現代社会における若者の自殺と同一に考えてはならない。彼女たちがその自殺に意味を見出したのは、その

  • 個人的

な行為が、この社会においては「革命」的な意味があると解釈されるからである。この、あらゆる末端にまで「監視」が行き届いた、人間の体内さえ国家によって「監視」される社会においては、そもそも自殺は成功しない。そんなことは「ありえない」社会として、仮定されているし、だれもがそう思っている。だから、その行為は、この社会に揺さぶりをもたらす意味のある行為として、13年前に考えたわけである(この前提がないと、この作品はたんなる「鬱小説」でしかないであろう)。
ミャハにとっては、自らが「意識」が生まれた、幼児への性的虐待の場所の「地獄」と、この日本での「監視社会」の「地獄」は、正反対でありながらも、

  • 同一

の位相をもった忌むべき現象ととらえられている。そういう意味において、13年前のトァンもその認識においては一致している。また、現代社会を生きる多くの人にとっても、この認識においては変わらないわけである。
しかし、ミャハはこの二つを「全否定」する。その意味は、オールタナティブとしての「意識のない」社会が、明確にあの13年前以降のミャハの認識として形成されていく。そういう意味では、ミャハはクリアである。ミャハには、

  • 別の世界

があった。それを彼女は幼少の意識が生まれる前として、理解できた。言わば、彼女にとっては「それとの対応」として、この絶望の社会を理解していた。そういう意味で、彼女はアンビバレントを生きていた、と言うこともできるであろう。
それに対してトァンは、そうではなかった。彼女はこの現代の監視社会の「絶望」をミャハと共有しながら、彼女は「オールタナティブ」をもちえなかった。そういう意味においては、トァンはミャハ以上に、今の監視社会について考えずにはいられない場所にいた、と言えるであろう。つまりトァンは「アンビギュラス」な思考を強いられた。トァンには、オールタナティブがない。だとするなら、彼女は単に、今の社会が「悪」であると言って捨てるわけにはいかない。たとえ、今の社会が悪だったとしても、人間の今まで生きてきたことには、なんらかの「価値」があったと考えずにいられない。つまり、この絶望的な社会においても、たとえ少しだけだったとしても、自分がコミットメントをすることに正義があると思える何かを見出そうとしている。トァンはミャハのように、この今を全否定はしていないわけである。
だとするなら、このミャハが夢想する「意識のない社会」を、どう考えればいいのか。特に、トァンにとってそれは、どのように受けとられたのか。それについて、上記の引用の前の個所を引用してみる。

「あなたはどう、霧慧トァンさん」
わたしは内なる声に耳を傾けようとする。意識が、意志がなくなれば、こんな「内なる声」などというものも消滅してしまうのだろう。意識が、個が消滅し、ただシステムだけが残るのだろう。自明なわたしだけが残るのだろう。ただ、そう在るように行動し、一切の迷いなく、未来永劫に向かって働き続ける肉で出来た機能のような身体があるだけになるのだろう。
調和を描く脳は、一切の迷いを排した、いや、廃した人間だ。
迷いがなければ、選択もない。選択がなければ、すべてはそう在るだけだ。
その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい。
昨日と同じように、人か買い物に行くだろう。
昨日と同じように、人は仕事場に行くだろう。
昨日と同じように笑うだろう。
昨日と同じように泣くだろう。
単純に自明な反応として。単にそうすべきだからそうするものとして。
これが、皆肩を並べて来たるべき永遠を迎えるためにしなければならない通過儀礼なのだろうか。


たぶん、そうなのだろう。
異議は、ない。
ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

このトァンの内省は確かに、ミャハの夢想する「意識のない」社会への同意となっている。しかし、よく見ると、同意というか、「ためらいながら」の同意なのである。なんというか、「自明」な同意ではない。ミャハのように、内面から内発的にあらわれる「自明」なユートピアではなく、現代というものの「たいしたことがない」、「相対的に悪だと言わざるをえない」、そういいった有り様に対して、論理的な帰結として、それに対して、反対はしない、といった何かとして理解される。
これをどう考えればいいのだろうか?
トァンの「ためらい」ながらの同意には、どんな意味があるのだろうか。私たちは、この作品を作者による、一種の「社会批評」となっていることを理解しなければならない。トァンのこの社会への絶望も、作者の

  • 今の社会

への絶望と同型なのである。トァンの上記の態度は、言わば、作者の現代社会の「絶望」が強いた、トァンにそういった思考過程を行わせさせざるをえなかった絶望なのだと理解しなければならない。
この作品は、決して、ユートピア小説ではない。やっぱり、この作品はディストピア小説の構造になっている。
それは、作者による痛烈な現代社会批判として、現代の「悪」に対しての批判として意味されている。このことを私たちは、作者による「表象文化論」への批判と考えることができるのかもしれない。
表象文化論は、一種の「形而上学」である。それは、私たちが生きる、この文化を、「表象」として切り離せる、という態度だと言えるであろう。それぞれの「作品」への、

  • 内容

の評価を「離れ」て、なんらかの「全体」としての時代的な構造が存在する、という態度だ、と。ここでの問題は、その「表象」が、個々の作品を「離れ」て、デタッチメントとなりながら、成立しうる、という

  • 非倫理性

にあると言えるであろう。そういう意味で、「表象」とは偶像崇拝だと言ってもいい。
つまり、表象文化論における「表象」とは、ありていに言ってしまうなら、「しょうがない」、そうなるようにしかありえなかった「現実」だと言っていることと変わらないわけである。
しかし、その場合に、問題は、そう言ってる奴の、その「場所」なのだ。ここへの「批判」として、この作品は鋭く切り込んでいる。上記の引用で、トァンが「同意」するのは、そういうことである。トァンは、表象文化論における「表象」が「しょうがない」と言うなら、全人類の「意識」などなくなるべきだ、と言っているわけである。なぜなら、そんな人間に価値などないのだから。
つまり、作者は表象文化論者の「意識」を、嗤っているわけである。彼らの、「表象」と「作品」を切り離し、なにかの「形而上学」的であり、現実社会と離れた、空疎な

  • 表象=しょうがない

に対して、「だったら、<あんた>の意識なんていらないね」と、言っているわけである。<あんた>の意識を奪ってもいいよね、と。言ってみれば、その作者の意図は、この作品でトァンが行っていること(=復讐)を見れば、明確なのではないだろうか。つまり、作者は言わば、このトァンの行動に託すことで、「人間とはこういった(倫理的)行動規範をこれからも生きていくし、そうなる」と言っているわけであろう...。