一般意志の「終わり」

今回のパリでのテロにおいて、日本のインテリがショックを受けるのは当然であるように思われる。それは、言ってみるなら、

の中心が「攻撃」を受けた、ということを意味している。つまり、一般にグローバル企業と呼ばれる、一国家の中だけで完結していた、ローカル企業を「脱出」して、国際舞台をその活動場所にし始めたグローバル企業にとっての「拠点」が、実質的にテロの標的とされ始めた、という意味で、そもそもの

が、なんらかの「リスク」を意味するものという含意を理解し始めたからだ。フランスは、言うほと、日本人が多く住んでいるわけではないが、文化的な日本の

  • エリート

が「目指す」場所であり、実際にそういった「やんごとなき」身分の日本人が住んでいる場所なのであって、そういう意味で、日本のインテリに与える今回の影響は大きかったと言えるのかもしれない。
今日の朝日新聞に、内藤正典さんが今回のパリでのテロについてコメントをよせているが、問題はなぜ、

  • フランス

がここまで目の仇にされているのか、なのではないか。つまり、今のシリアを考えるなら、むしろ、アメリカやロシアにこそ、彼らの矛先が向いてもいいのに、なぜ「フランス」なのか、なのである。最近の状況を見ても、確かに、フランスにおけるテロが多すぎる。明らかに、フランスはなんらかの「意図」をもって、テロの標的にされている。
そうした場合にどうしても考えざるをえなくなるのが、フランスにおける「スカーフ問題」なのではないか。

フランスは厳格な世俗主義を国家原則にしている国ですが、二〇〇四年から、公立学校に通う生徒がスカーフやヴェールを被ることを禁止しました。さらに、二〇一〇年になるとポピュリストのリーダー、サルコジ大統領の下で、公共の場所で顔をすっぽり覆う被り物を着けることを禁止する法律が制定されます。この法律、「ブルカ禁止法」として知られていますが、そもそもブルカというのはアフガニスタンの女性の被り物を指す名称です。フランスにはブルカを被っている女性は、いないと言ってもよいくらい少数です。
この法律については、次のオランド大統領も支持しています。フランスでは、右派も左派も、イスラムが公的な空間に現れることを極度に嫌います。イスラムに限らず、すべての宗教的なシンボルが公的領域に「可視化」されることを禁じるというフランス憲法の原則があるからです。これをライシテといいます。日本語では、適当な訳がないのですが、便宜的に世俗主義としておきます。世俗主義というのは、信仰は個人のプライベートな領域の中だけにとどめるべきだというイデオロギーです。したがって、行政、司法、立法、公教育などにおいては、非宗教性の原則を守らねばなりません。

スカーフ問題は女性に対して抑圧的=後進的な宗教だという一例として頻繁に取り上げられるテーマです。「イスラムは女性の人権を認めない宗教だ」と決めつけている人にとっては、スカーフこそ格好の人権抑圧の象徴ということになります。女性だけに、なぜ被り物をさせるのか? 女性は顔も出して歩けないのか? というのです。
クルアーン』には、スカーフを着けよ、とか、ヴェールを被れ、といった明文の規定はありません。イスラムの行為規定にあるのは、男女とも身体のうちで性的なところを隠せということだけです。女性の髪やうなじについては、隠すべきものとされています。ただし、罰則規定はありません。
現実から言えば、羞恥心を感じるなら隠すことになります。そのような行為はイスラムに限った話ではありません。
日本でいえば、ミニスカートをはいて脚を見せる人もいれば、ロングスカートで脚を隠す人もいる、といった違いに過ぎません。女性の身体をどう表現するかは、女性固有の権利であって、フランス共和国が命令することではないはずです。
イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北 (集英社新書)

フランスはフランス革命を始めとして、自由、平等、友愛の、いわゆる「人権」「民主主義」の世界の先頭で、それらの先進的な理念で、世界中をひっぱっている地域だと考えられている。しかし、よくその歴史を振り返るなら、フランス革命以降の政治の混乱はむしろ、

の「代表」とさえ言いたくなるような、混乱を歴史が内包している。ハンナ・アーレントが執拗にフランスの「ルソー」を

として批判したのも、実質的にナチス・ドイツのイデオローグの発祥地点として、ルソーであり、そのルソーの思想を体現した、フランス国家の「全体主義」的な側面が、問題とされたからであろう。
上記のスカーフ問題も、私たち、日本の田舎に住んでいる、日本人の感性からは、なぜそこまでして「禁止」ということを法律で決めなければいけないのかが、ほとんど理解できない。
しかし、そういうことではないわけである。
ルソーの全体主義とは、「一般意志」が重要なのである。つまり、国家の法律が「聖性」をもっているわけである。なんにせよ「一般意志」であるなら、それを「実現」しなければならない。つまり、法律であるなら、「聖性」をもって扱わなければならない。つまり、ここに明確な「線」があるわけである。
しかし、こうやって身命を賭してまで「やめてくれ」と言っている人が、たとえ少数であれ存在するのなら、そういった法制化は、端的に止めればいいようにしか思えない。ところが、それが

  • 一般意志

だと言い始めると(つまり、それが「イデオロギー」にされてしまうと)、もはや形式的にさえ抗えないような「聖性」の彼岸に追やられてしまうわけである。
これが、ルソーの全体主義である。
私は今回のテロが、フランスという国家の「終わり」への始まりを意味するのかは分からない。しかし、いずれにしろ、これだけフランスにおいて「だけ」執拗にテロが続くことの意味を考える必要があるように思われるわけである...。