「ひきこもり」社会

西尾維新終物語にでてくるヒロインの「老倉育(おいくらそだち)」における「ひきこもり」属性について考えていたとき、このヒロインが、いわゆる、

と呼ばれてきた、一連の作品と一線を画していることについて考えさせられた。
老倉の場合、自らの悲惨な家庭環境と、主人公の同級生の男の子を「憎む」ことが、同一線上に描かれる。そういう意味では「まとも」である。この表現は、彼女が死体の母親と「一緒に暮らしていた」という

  • 設定

と矛盾するが、それは言わば「作者の都合」に過ぎず、彼女の表面的な態度とは別物と考えられる。
それに対して、例えば入間人間の「電波女の青春男」のヒロインの藤和エリオを比較することは、意味がないだろうか。エリオには父親がいない(まあ、行方不明)。そんな彼女の住む家に、いとこの主人公の丹羽真(にわまこと)が引っ越してくる。彼はエリオの

  • 奇行(=電波系的態度)

を「ネタ」として消費する。そういう意味で、彼は結局のところ最後の最後までエリオを「他者」として向き合わなかった、と言えるのではないか。
同様の構造は、アニメ「中二病でも恋がしたい」においても反復されていた、と言えるであろう。主人公の富樫勇太(とがしゆうた)のヒロインの小鳥遊六花(たかなしりっか)を見る視線は、一貫して

  • トンデモ

を見る視線だと言える。つまり、そういう意味で「まともな人間」として見ていない。
お互いに共通する主人公の態度は、こういった「トンデモ」に対して、「悟り」すました、上から目線を一貫して続けることだと言えるであろう。
その態度は、基本的には、家に「身体障害者」がいる場合と、まったく変わらない。つまり「保護者」の態度なのだ。丹羽真は、エリオの母親のメメの方こそ、むしろ

  • 感情移入

をしていて、ツーカーの気の合い様であるし、勇太には、六花の姉の十花(とうか)と、「気が合う」場面が描かれる。
丹羽真と勇太は、いわゆる「やれやれ」系である。つまり、「エリート」として、超越的な視点から、作品舞台に登場する。
エリオの本当の問題は、作品内で描かれない。なぜ彼女が電波系なのかは、結局のところ、最後まで描かれない。つまり、エリオの「内面」が描かれることはない。むしろ、この作品世界においては、その「出自の不明さ」が、父親の「正体」と共に、SF的設定の陰に、曖昧なまま隠された形になっている。
つまり、そういった意味において、この設定は、「ネタがマジだった」という可能性を残しながら、最後まで進行したために、逆に、結局「エリオとはなんだったのか」の問題が、おきざりにされている印象が強い。
この事実は、確かに「それだけのこと」として、終わっていたのかもしれないが、ある「補助線」をここでは引いてみたい。
つまり、アニメ「電波女の青春男」のOPに、神聖かまってちゃんの「の子」が関わったことの意味なのである。
正直、私は「神聖かまってちゃん」について、まったくフォローしてこなかったこともあり、近況を含めて、まったくの無知であるが、当時、「の子」のドキュメンタリーが放送されていたのを見た記憶がある。
その頃の彼は、いわゆる「ネ申」として神格化されていた印象があった。YouTube などの動画配信で話題を呼び、メジャーデビューに至ったわけであるが、その姿はかなり「社会から隠された」真実を示していた。
つまり、彼のいわゆる「メンヘラ」的特徴は、とても「社会人」を維持できるような状態ではなかった。まあ、少なくとも、そのドキュメンタリーには、そういった彼のエキセントリックな側面が描かれていた。

こら不安定、バイトできない
会話出来ない 空見上げる
サボり学生、パジャマ着てる
夏休みが、来ずに中退
(アニメ「電波女と青春男」OP)

このことは、そういった

といったものを、メンヘラや「リストカット」といったような、かなり「深刻」な問題として考える切り口を、彼が関わることによって、提示していた、と考えることもできるであろう。
不安定でバイトができず、会話ができず、学校をさぼり、夏休み前に中退するような、そういった

  • 深刻

な何かに対して、上記の作品群は結局のところ、迫れていたのだろうか、といった問いはどうしても残るわけである。「ひきこもる」ことは、そういった子どもたちに深刻なダメージを残す。それは簡単に「社会復帰すればいい」みたいな

  • 優等生的発言

を許さない問題の深刻さがある。ところが、エリオや六花に対して、そういった「深刻」な何かが描かれることはない。彼女たちは作品内において、終始徹底して、

  • 主人公のネタ

として扱われる。主人公が「友達」を作るときの、かっこうの「話題作り」のネタとして、この二人は利用される。「うちには、こんな<バカ>がいてさー。嗤えるよねー」みたいなw
そういった他者の「悟り」に対して、終物語の老倉による主人公への「嫌い」の感情には、どこかそういった「深刻」さと直面しようとする作者の姿勢が示されていた、と考えることができるように思われる。ただし、この場合、別に、終物語の主人公が優秀だから、というわけではない。そうではなく、こちらの作品では、主人公が彼女を

  • 覚えていない

という、より「深刻」な非倫理性(=痴呆的な<幸福>さ)によって、この「非対称性」がむきだしにされる構造になっている。
こういった構造は、まさに現代社会の「比喩」として機能していることが分かる。現代社会はまさに

  • 優等生社会

である。ツイッター上で、汚い言葉使いをしている「弱者」を、みんなで徹底して「いじめ」て、

  • なんでこんな悪口ばっかり言っている奴が、普通に社会を歩けるんだ
  • なんで警察はこいつを逮捕しないんだ
  • 早く警察は、こういった<頭の狂った>奴を逮捕しろ。そうしないと、「安心」して子育てができない

と「正常」な、日本の「正常」人たちが、

  • 狂ったように

警察が「不良」を牢屋に入れ続けてくれないことに「文句」を言っている。
これが「日本社会」である。私はこんな日本社会を「狂気社会」と名付けよう。さて。どっちが狂っているんですかね orz
「正常人」たちよ。どうぞ、ゲーテッドコミュニティにでも閉じ込もって、「正常人」たち<だけ>の「ハーレム」を作って、一生そこに「とじこも」っていてくださいな。私はそこを「狂人」の世界と呼んで、一生近づかないようにしますんでw