山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝活動』

第一期安倍政権は、「戦後レジームからの脱却」を掲げて、戦後の価値観との対決をメインにすえた、政策転換を目指したわけだが、この挫折は、

のご機嫌を損ねる形で終止符を打たれた。そのためか、第二期安倍政権においては、まったくアメリカと対立を臭わす行動を行わなくなった。これは安倍首相を含めた、その周辺が、アメリカの「虎の尾を踏む」ことのリスクを学習した、ということなのであろう。
驚くべきは、日本の民主党政権が、脱原発を政策に掲げるとき、その発表の前に、わざわざアメリカに行って「おうかがい」をたてていた、という事実に象徴されている。今の安倍首相がかたくなに、原発を推進しているのも、ある意味において「アメリカの意向」に従順に従っている、と言って間違いはない。
日本の政治の歴史は、田中角栄を始めとして、アメリカの「虎の尾を踏んだ」政治家が次々と失脚していく歴史であった。安倍首相は一回目の「失敗」を大いに学習して、徹底してアメリカの「虎の尾を踏む」ことのリスクを避ける戦略を続けている。つまり、このリスクさえ避ければ、あとは「なにをやってもいい」という意味で。
この象徴として、日米合同協議が注目されているが、ようするに、戦後の「占領政策」から、さかのぼって考えよう、ということなのであろう。
江藤淳の『閉された言論空間』は、戦後のアメリカ占領期における、アメリカ軍による「検閲」政策を、アメリカに渡って、アメリカの資料によって証明していった仕事であった。しかし、この本を読んだときの印象は、むしろ、江藤が「書かなかった」ところにある。

江藤はすでに永井荷風の検閲対応の分析に手をつけ、「戦争罪悪感」についての指摘を行っている。とはいえ、江藤は短期間の調査結果から結論を急ぎすぎた。またセンセーショナルな問題設定を行い、成果をジャーナリスティックに表現した。彼が糾弾してやまない、右翼的作品への検閲は、占領後期には緩んでいた。むしろそれに代わって左翼的作品が弾圧されたことを無視している。さらに明治以来検閲を受けていたメディアはしたたかに異民族の検閲に対処していたことにあまり気づかなかった。なによりもCIE(民間情報教育局)の機能を等閑視したのは落ち度といってよい。つまり検閲のCCDではなく、指導のCIEの方がプレス・コードを使って、マスメディアによる日本人の「頭の切換え」ないし洗脳、つまり江藤流の表現である「思想と文化の殲滅戦」を、彼の考える短期戦ではなく長期的なパースペクティブの下で実施し、成功を収めてきた宣伝機関であることを捉えられなかった。

ようするにどういうことか。江藤の主張は、ある意味における「優等生発言」だと言わざるをえないのではないか。
そもそも、アメリカの憲法も日本の憲法も、検閲は「禁止」している。そういう意味において、確かに、アメリカ軍による検閲は、ある意味において「犯罪」であった。
しかし、そもそも、戦前の日本では、「戦中」という理由にかこつけて、公然と「検閲」が行われていた。
ここから話が変になる。
アメリカ軍がなぜ、ここまで「整然」と、「検閲」を行えたのかと言えば、

  • 戦中の日本国家が行っていた「検閲」の<ベース>を踏襲した

からではないのか。
つまり、江藤の主張はなかなか興味深いものがある。戦前の日本は「正義」であった。しかし、アメリカとの「戦争」で日本は負けた。それを機会にして、日本はアメリカの「検閲」によって、戦前の日本の「正義」を

  • 主張すること自体が検閲によって削除される

ようになった。つまり、そういった主張が「存在しない」ことになってしまった。
しかし、掲題の本にもあるように、江藤が糾弾するCCDは、むしろ、戦後すぐの混乱期における、秩序回復を緊急避難的に実現して、アメリカの占領政策を、平和裏に行うための、暫定的かつ過渡的な政策のようにしか思われない。
というか、そもそも、江藤自身が「こういった」本を、書けていること自体からして、そのことをよく示している。
さらに言えば、むしろ、そのアメリカの検閲政策は、明らかに、そのターゲットは「左翼運動潰し」の方に、その主眼が移っている。つまり、むしろ、この「検閲」を利用してきたのは、日本の右派勢力なわけであろう。
そういった意味で、どうも、江藤の主張は「倒錯」していると言わざるをえない。
アメリカの日本における、言論統制活動は、上記にあるように、CCDからCIEに、その主戦場が移っていく。こちらは、まあ、日本の憲法が「禁止」している「検閲」を使うことなく、もう少しマイルドに、真綿をしめるように、ふんわりと日本の言論になんらかの「圧力」をかけていこう、というものであろう。
しかし、そういったことであるなら、むしろ、そういったアメリカの「お金」を、自分たちが求める「左翼潰し」の手段として利用してきたのが、日本の長い自民党政権の政策であったわけだし、今だに、その延長にあると言ってもいい。
保守派が実に「楽しそう」に、日本の左翼運動への「嫌悪感」を吐露している姿を見れば見るほど

と思わずにいられないが、なぜか、日本の保守派は、そこにはなんの痛痒も思わない。実に「ご気楽」な人たちと言うしかないであろう。
ここにあるのは、一体なんなのだろう?
ようするに、日本の「検閲<文化>」なのではないか。江藤の主張がおかしいのも、ようするに、彼は検閲が悪だと言っているのではなくて、アメリカによる「あの」検閲が悪だ、と言っているわけであって、基本的に「検閲文化」を肯定しているのと変わらない。というか、日本が戦前から戦中、戦後にかけて、一貫して

  • 検閲<文化>国家

であることの、問題意識がない。戦前の日本には「正義」があった。日本にとっての、あの「戦争」は正義だった。彼がそう言うことと、戦中から日本が、「検閲<文化>国家」であったこととの整合性が、彼の問題意識にはない。
なぜ日本に対する、アメリカ軍の「検閲」政策が「成功」したのかと言えば、江藤が言っているような「アメリカ軍の卑劣な行い」とかなんとか以前に、

  • それ以前の戦中から、日本においては「検閲」が普通だったから(検閲が<文化>だったから)

と言うしかないわけであろう。つまり、日本国民全員が、検閲は「当たり前」だと思っていた。この端的な事実を問うことなしに、検閲の内容を恣意的にひろって、ことあげをしている時点で、その議論の弱さはいなめないであろう。
そもそもなぜアメリカがここまで日本にこだわったのかを考えると、ようするに、日本はアメリカの「隣国」だから、ということに尽きている。アメリカの「隣」にありながら、巨大な軍隊をもって、アメリカにはむかってこられたら、アメリカにとって

  • リスク

だと思ったからであろう。ある意味において、これが戦後の世界秩序におけるアメリカ一極支配の構造を作ったと言えなくもない。こういった構造を理解しておきながら、宮台真司さんのように、日本の「重武装」化を主張することは、そもそも、論理的に矛盾していないだろうか。
つまり、日本が重武装をしようがなんだろうが、アメリカは日本を「警戒」して、さまざまな、

  • 弱い「検閲」

を続けてくる。
興味深いのは、日本の反米保守であり、重武装化推進論者の多くが、「天皇主義者」だということであろう。天皇主義である限り、重武装推進は避けられない。なぜなら、軍隊は「天皇の軍隊」なのだから、その無限拡大は、唯一の正解なのだから。
しかし、そのようにして、各国が軍拡競争に走れば、日本だけでなく、世界中の

  • 小国の重武装(=軍拡)

が次々と広がっていくであろう。日本は世界中から見ても、国土がそれほど広いわけでもない。こういった小国が、一体、どこまで軍事力の拡大を行うべきなのかは、少しも自明ではない...。

GHQの検閲・諜報・宣伝工作 (岩波現代全書)

GHQの検閲・諜報・宣伝工作 (岩波現代全書)